2025年9月10日(水)から18日(木)まで、前泊を含めて8泊9日の日程で、
古代韓国の百済文化と伽耶文化の遺跡や博物館を見学した。
天候にも恵まれ、高速バスや地下鉄、地方バスに乗っている間は雨が降っていたが、
下車する頃には雨が上がっていた。気温も東京のように猛暑では無く快適であった。
韓国では、どの街に行っても高層ビルが立ち並び、近代化が進んでいた。
電柱の地中化も進んでおり、2~3年前に訪れた時よりも街がきれいになっていた。
今回の旅行では、各地で多くの出会いがあり、親切にしてもらった。
韓国料理のサムギョプサルや冷麺など、とても美味しかった。
言葉や文字が分からない国では、地下鉄、市内バス、高速バス、タクシーの利用や、
コンビニ、食堂での注文など、スマートフォンがなければ難しい場面が多い。
高齢者の個人旅行には、ハードルが高いと感じた。
光陽中興寺地双獅子石塔(国宝103号)
国立光州博物館が所有する唯一の国宝
鐡造佛像
鉄で作られた仏像は新羅以降、禅宗寺院を中心に流入し始め、 高麗前期までに様々な寺院で作られた。
光州傳聖居寺址五層石塔舎利荘厳俱 銀製舎利壺(56の舎利が発見された) 統一新羅の様式を伝承した高麗前期の舎利荘厳俱
高興吉頭里安東古墳出土 三国時代
金銅冠帽
高興吉頭里安東古墳出土 三国時代
2025年9月14日(日)
国立羅州博物館
羅州新村里9号墳 三国時代
羅州邑城の西門石燈(宝物) 高麗宣宗十年(1093年)建立 興龍寺にあったが羅州邑城の西門に移され1929年に景福宮に移された。
新村里古墳、大安里古墳、徳山里古墳の一つの羅州徳山里古墳群
公州栄山里古墳群の武寧王陵から出土した鎮墓獣(国宝第162号)
韓国で発見された唯一の鎮墓獣 国立公州博物館
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代
石板には、「嶺東大将軍百済斯麻王(武寧王)が62歳となる癸卯年(523年)5月7日に逝去し、乙巳年(525年)8月12日に大墓に安置した」と記されており、王の生没年や埋葬日が明確に記録されている。裏面には方位図のような干支図が刻まれており、墓域の構造や思想的背景をうかがわせる貴重な情報源となっている。
この墓誌石の発見によって、武寧王陵が誰の墓であるかが確定され、韓国考古学史上でも極めて重要な発見とされている。同時に、王妃の墓誌石も同時に発見されており、両者は羨道の前に並べて置かれていた。
墓誌石(王妃)(国宝163号)公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代
金製冠飾(王)(国宝第154号)
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代 金製耳飾(国宝156号)
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代 金製釵(かんざし)(王)(国宝159号)
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代 金銅製蓋杯 国立公州博物館
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代 木棺(王と王妃の木棺)
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代
木材はコウヤマキ(高野槙)で、日本にしか自生しない樹種。
これは当時の百済と日本の交流を示す重要な証拠でもある。
2025年9月15日(月)
百済時代の王都「熊津(現在の公州)」を守るために築かれた。
475年、百済の文周王が漢城(現在のソウル)から熊津へ遷都した際に建造された。
538年に扶余へ遷都するまでの約64年間、百済王都の防衛拠点として機能した。
2015年にユネスコ世界文化遺産に登録。
公山城 挽河楼と蓮池(忠南道記念物第42号) 9:31 石段を積み上げ、深さ9m、蓮池と錦江の間に挽河楼がある。
熊津百済 歴史館
熊津百済 歴史館・遷都
百済が熊津(現在の公州)に遷都したのは、 475年に高句麗の侵攻によって首都・漢城(現在のソウル)が陥落したことが原因。
『三国史記』百済本紀によると、475年に漢城が高句麗に陥落した背景には、
百済王・蓋鹵王(がいろおう)が「姦人(かんじん)」=つまり裏切り者やスパイの言葉を信じてしまったことがあったと記録されている。
この「姦人」は、高句麗の長寿王が多額の資金を投じて育成し、
百済に送り込んだ人物(僧侶の道林)だったとされていて、蓋鹵王はその人物に篭絡されてしまった。
道林は百済の内部事情を高句麗に知らせていた。
高句麗は軍事力だけでなく、情報戦でも百済を揺さぶっていた。
蓋鹵王はその失策を悔いて、息子の文周王に「自分は愚かで人を見る目がなかった」と語り、
王族の血筋を絶やさぬよう逃げるように勧めたという逸話も残ってる。
狐の知恵比べみたいな話だが、実際は国の命運を左右するほどの深刻な策略だった。
こういう裏の動きは歴史の表舞台では見えにくいが、すごく重要である。
蓋鹵王(がいろおう)が北魏に接近した外交戦略は、
高句麗の脅威に対抗するための切実な試みだった。
百済は長年、中国南朝(宋など)との関係を重視していたが、
蓋鹵王の時代になると高句麗の圧力が強まり、南朝だけでは対抗できない状況になっていた。
そこで蓋鹵王は、北方の強国・北魏にも接触を図ることにした。
472年、蓋鹵王は北魏に使者を送り、高句麗の非道を訴えて討伐を依頼した。
北魏は一応、視察使を派遣したが、高句麗に阻まれて百済には到達できず、
結局は何の成果も得られなかった。
この外交戦略は、高句麗の長寿王を激怒させる結果となり、
翌475年には高句麗が3万の兵を率いて百済の首都・漢城を攻撃した。
蓋鹵王は捕らえられて処刑され、百済は一時的に滅亡状態に陥った。
蓋鹵王の北魏接近は、外交的には大胆で先進的だったが、
軍事的・地政学的な現実には勝てなかった。
それでも、彼の試みは百済が生き残るための必死の策だったし、
後の文周王による再興につながる一歩でもあった。
もし北魏が本気で動いていたら、朝鮮半島の勢力図はまったく違っていたかもしれない。
このときの王・文周王は、急遽熊津へと都を移したが、
遷都直後は王の暗殺や政権の混乱が続いた。
三斤王、東城王と続く中で、東城王は熊津地域の新勢力と旧漢城貴族とのバランスを
取りながら、国の安定に尽力した。
熊津は山と川に囲まれた防衛に適した地形で、外敵からの防御には優れていたが、
対外進出には不利な立地でもあった。
そのため、百済は国力を回復した後、538年に聖王のもとで泗沘(現在の扶余)へ
再び遷都し、熊津時代は約60年で幕を閉じた。
熊津時代は政治的には不安定であったが、武寧王の登場によって高句麗への反撃が始まり、
百済の中興期として位置づけられている。
熊津には今も武寧王陵などの文化遺産が残っていて、百済の歴史を物語っている。
武寧王陵と王陵園
公州栄山里古墳群・百済第25代武寧王とその王妃の陵
武寧王陵は1971年に偶然に盗掘されていない完全な状態で発見された。
磚(せん)室墳で王と王妃が合葬されている。(磚:焼物・煉瓦)
壁石を膝の高さまで抜き取った後、
発掘団長と公州博物館長が墓の内部に入り20分後に出てきた。
記者団に「武寧王と王妃のの墓」と伝えた。
そして翌朝までに墓誌石を含む約5,200点の遺物が調査無しに収拾された。
このため考古学的な価値を失った。
武寧王陵から出土した遺物の総数については、
計108種4,600点余りという数字がよく知られているが、約5,200点とする報告もある。
この差は、何を「遺物」として数えるかによって変わってくる。
約5,200点とされる場合には、以下のようなものが含まれている可能性が高い:
主要な副葬品(金製冠飾、耳飾り、首飾り、環頭大刀、銅鏡など)
陶磁器類(中国南朝系の舶載品を含む)
木製品・漆器類(王と王妃の頭枕や足座など、漆塗りの装飾品)
貨幣類(五銖銭など)
ガラス玉・勾玉などの装身具
建築部材や装飾塼(せん)(蓮華文塼など、墓室の壁面を飾るもの)
保存状態の悪い破片類や微細な構成物(漆片、金箔片、木片など)
保存科学や材質分析の対象となった微細な断片まで含めると、総数が5,000点を超える。
特に木・漆器類は非常に脆弱で、破片が多く、それらも一つ一つ記録されている。
この違いは、考古学的な分類基準や保存処理の過程での記録方法にも関係していて、
どちらの数字も文脈によって正しいと言える。
武寧王陵の発見は、東アジアの古墳研究にとっては極めて貴重な事例だった。
でも、発見直後に保存よりも収集を優先してしまったことで、
遺物の配置や墓室内の構造、埋葬の順序などの情報が失われてしまった。
考古学では「文物の位置関係」や「土層の順序」がとても重要で、
それによって埋葬の儀礼や文化的背景を読み解くことができる。
武寧王陵の場合、約3,000点もの豪華な副葬品が出土したが、
それらがどのように配置されていたか、どの順に納められたかなどの情報が
曖昧になってしまったのは、研究者にとっては大きな痛手だった。
ただし、墓誌や棺材の樹種(日本固有の高野槙)など、保存された情報も多くて、
百済と日本の交流を示す証拠としては非常に価値が高い。
だから「損失はあったけれど、それでも得られたものも大きかった」。
王陵園1号墳~4号墳 2025年9月15日(日)13:23
公州武寧王陵と王陵園発掘調査現場
2025年9月16日(火)
扶余市街・階伯(ケベク)将軍像 7:48
百済末期の将軍で、660年に新羅・唐の連合軍が百済に侵攻してきた際、
わずか5,000人の兵を率いて黄山伐(ファンサンボル)の戦いで迎え撃った英雄である。
彼は戦いに臨む前、自らの妻子を手にかけたと伝えられていて、
「国が滅びるなら、家族が辱めを受けるより潔く死を選ばせる」という覚悟を示したとされている。
これは『三国史記』にも記録がある。後世の儒学者たちからは「忠義の象徴」として高く評価されている。
戦では4度の局地戦に勝利したものの、最終的には兵力差に押されて戦死した。
彼の死をもって百済軍は壊滅し、百済は滅亡へと向かった。
彼の本名は「扶余承(プヨ・スン)」で、百済王族の血を引いていた可能性もあるという。
まさに、国の最後を背負った忠臣のひとりとして、韓国では今も語り継がれている人物である。
扶蘇山城・白馬江
百花亭(忠清南道文化財資料第108号指定) 10:52
百花亭(ペッカジョン)は落下岩(堕死岩)の上に建てられた東屋で
ここで身を投げた宮人たちの霊魂を追慕するため、1992年に建てられた。
660年、百済の首都・泗沘(サビ)が唐・新羅連合軍に攻め落とされたとき、
約3000人の宮女たちが辱めを恐れて白馬江に身を投げたと伝えられている。
その様子が「花が散るようだった」ことから、岩は「落花岩」と呼ばれるようになった。
落下岩 10:54
扶蘇山の北側にある白馬江に向かってそそり立つ岩で、 高さ約50mくらいの絶壁を形成している。
宮女たちが貞節を守るため身を投げ、その岩を「堕死岩」と呼んだという。
後日、人々が宮女を花に例えて「落下岩」と呼んだ。
国立扶余博物館
扶余窺岩面 百済時代
金銅「鄭智遠」名 釈迦如来三尊立像(宝物第196号)
扶蘇山城泗沘楼出土 百済時代、国立扶余博物館保管 扶蘇山城泗沘楼
泗沘楼は扶蘇山城で最も高い場所である送月台にある楼閣
1919年、建物を移設する際に金銅「鄭智遠」名 釈迦如来三尊立像はここで発見された。
石造舎利龕(国宝) 扶余陵山里寺址出土
国立扶余博物館蔵
定林寺跡五重石塔(チョンニムサジ・オチュンソッタッ)(国宝9号)
定林寺跡にある百済時代の五重石塔(国宝9号)ユネスコ世界文化遺産
泗沘(サビ、現在の扶余)時代(538年~660年)
定林寺址五層石塔(国宝9号)
五層の石塔で、木造仏塔の様式を石造に巧みに転換した設計。
単層基壇が低く、塔身が安定感を持つ。
屋蓋石は緩やかな反りを持ち、細部まで美しく仕上げられている。
百済特有の「ペフルリム様式」(柱が上に行くほど細くなる)を採用している。
百済後期の仏教建築の傑作で設計には「高麗尺(約35cm)」を基準にした
驚くほど緻密な数理設計が確認されている。
これは日本の古代建築にも通じる設計思想で、技術的な共通点があると考えられている。
そして定林寺址五層石塔の設計には、木造仏塔の技法を石造に応用した痕跡が見られ、
特に屋蓋石の反りや隅柱の傾斜など、日本の古代仏塔にも通じる美学があると指摘されている。
そのため倭人も設計に関与した可能性を示唆している。
定林寺址石仏坐像 15:45
高麗時代に造られたもので、百済滅亡後に定林寺が再建された際の仏像とされている。
高さは約5.62mで、蓮華模様の台座に座る姿が印象的。
仏像の表情は柔らかく、蒙古型の帽子をかぶったユーモラスな姿とも言われている。
かつては定林寺址石仏坐像は屋外に置かれていた。
2025年9月17日(水)
無人民願発給窓口
古代韓国の歴史の概要
神話時代(紀元前2333年頃)
檀君(タングン)が古朝鮮を建国したとされるが、これは神話の世界の話。
古朝鮮と中国の影響(紀元前194年~紀元前108年)
箕子朝鮮や衛氏朝鮮など、中国からの亡命者が建国したとされる国家が登場。
漢の武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされ、楽浪郡などの漢四郡が設置される。
三国時代(紀元前1世紀~7世紀)
高句麗、百済、新羅の三国が朝鮮半島を分割して支配。
文化・軍事ともに発展。660年百済滅亡、663年白村江の戦い
統一新羅(676年~)
新羅が唐と連合して百済・高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一。
渤海(698年~926年)
高句麗の遺民が満洲に建国。中国や日本とも交流があった。
後三国時代(900年~936年)
再び分裂。後百済、後高句麗、新羅が争い、最終的に高麗が統一。
高麗王朝(918年~1392年)
科挙制度導入、仏教文化が栄える。
蒙古の支配も経験しながら、李氏朝鮮へとつながっていく。
古代朝鮮半島の歴史
伽耶と倭の関係の概要
伽耶は、朝鮮半島南部、現在の慶尚南道あたりに存在した小国家群の総称。
金官伽耶(駕洛国)が中心だった。
鉄資源が豊富で、鉄製品の生産・輸出が盛んだった。
倭国(古代日本)は伽耶から鉄を輸入し、武器や農具に活用していた。
伽耶の墳墓から日本独特の勾玉や前方後円墳が発見されており文化的な交流があった。
5~6世紀頃、倭国が伽耶地域に「任那日本府」という出先機関を置いていたとされる。
『日本書紀』や中国の史書にその記述があり、
倭王が「任那・加羅・新羅」などの軍事統括権を授かった記録もある。
倭国は伽耶諸国を支援し、新羅や百済との争いにも関与していた。
広開土王碑には、倭が新羅や百済を臣民としたと記されている。
562年、伽耶は新羅に併合され、任那日本府も消滅した。
その後、倭国の朝鮮半島への影響力は急速に低下した。
伽耶(かや)の滅亡伽耶は5世紀中頃、百済や新羅の圧迫が強まり、その勢力を失い6世紀中頃滅びた。
小伽耶である金官伽耶が532年に新羅によって滅ぼされ、大伽耶は新羅に562年滅ぼされた。
百済は、伽耶の滅亡に先立ってその一部を併合しその勢力圏を拡大した。
百済の歴史の概要
百済は建国紀元前18年から新羅によって滅ぼされる660年まで存立した。
百済はただの古代国家ではなく東アジアの文化交流のハブのような存在だった。
日本との関係も深くて、古代の技術や思想の橋渡し役だったとも言える。
建国と起源(紀元前18年頃)、建国者は温祚(おんそ)王。
高句麗の建国者・朱蒙の子とされ、
兄の沸流とともに南下して漢江流域に国を建てたという建国神話がある。
馬韓の伯済国を母体とし、次第に周辺の小国を併合して成長した。
漢城時代(~475年)、首都は現在のソウル周辺。
近肖古王の時代(346~375年)に最盛期を迎え中国東晋や倭国(日本)と積極的に交流した。
高句麗との戦争で首都漢城が陥落し、蓋鹵王が戦死。国は一時的に弱体化した。
熊津時代(475~538年)、首都を熊津(現在の公州)に移し、武寧王の時代に国力を回復。
伽耶地方への影響力も拡大した。
泗沘時代(538~660年)、聖王が泗沘(現在の扶余)に遷都。
仏教文化が栄え、中国南朝や倭国との交流が活発になった。
学者や技術者を日本に派遣し、仏教や漢字、建築技術などを伝えたとされる。
滅亡(660年)、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされる。
王族や遺臣は倭国の支援を受けて復興運動を起こすが、
663年の白村江の戦いで敗北し、完全に滅亡。
白村江の戦い
663年、白村江の戦いで百済復興軍・大和朝廷軍が新羅・唐の連合軍に大敗した。
背景:百済は660年に唐・新羅連合軍によって滅亡。
百済の遺臣たちは日本に援軍を求め、倭国は百済王子・扶余豊璋を送り、復興支援を決断。
戦いの経過:倭国は約27,000人の兵と800隻の船を派遣し、
百済遺民とともに唐・新羅連合軍と白村江で激突。
唐軍は約13,000人、新羅軍も加勢し、海戦で倭軍を圧倒。
倭軍は大敗し、約10,000人の兵と400隻の船を失ったとされる。
結果と影響:百済の復興は失敗し、663年完全に滅亡。
倭国は朝鮮半島の影響力を失い、防衛体制を強化(太宰府の設置、大津京への遷都など)。
唐との直接対立を避けるため、外交方針を内向きに転換。
この戦いは、日本が初めて本格的に海外で戦った記録でもある。
白村江の戦い後の大和朝廷の中央集権化の流れ
豪族の衰退:それまで地方の支配を担っていた豪族たちは、
戦争の敗北によって軍事的・政治的な威信を失った。
朝廷は豪族の土地支配や人の管理権を制限し、
公地公民制(土地と人民は国家のもの)を推進した。
天皇権力の強化:中大兄皇子(後の天智天皇)は、
戦後の危機感を利用して天皇中心の国家体制を整備した。
冠位制度の再編や戸籍(庚午年籍)の作成など、行政制度の整備が進んだ。
防衛体制の強化:九州に太宰府を設置し、水城や山城を築いて唐・新羅の侵攻に備えた。
これにより、地方の軍事力が朝廷の管理下に置かれるようになった。
遷都と律令国家への布石:大和から離れた近江の大津宮への遷都は、
豪族の影響力を避けるためとも言われている。
その後、律令国家への道が開かれ、天武・持統朝で完成へと向かう。
白村江の戦いは負けたが、国内をまとめるにはちょうどいい契機だった。
江華島事件
1875年(明治8年)に日本と朝鮮との間で発生した軍事衝突事件である。
日本は朝鮮に対して開国を迫り、朝鮮がこれを拒否したことから緊張が高まり、
最終的に武力衝突に至った。
明治維新後、「四民平等」や「秩禄奉還の法」等によって、
士族たちは地位や職、収入を失ったことによって明治政府に不満が溜まっていた。
政府はこの怒りを朝鮮に進出することによって少しでも解消しようとした。
明治政府は当初、征韓論に基づき武力を用いてでも朝鮮との国交を樹立しようとした。
西郷隆盛ら征韓論派は朝鮮への使節派遣と武力行使を内定したが、
岩倉使節団の帰国後、大久保利通・木戸孝允ら慎重派が「国内整備を優先すべき」と主張し、
征韓論は退けられた。
その結果、征韓論派の西郷隆盛たち参議が一斉に辞職した。
この政変を「明治六年の政変」と呼ぶ。
しかし、明治政府は朝鮮との国交を諦めず、
挑発行為によって朝鮮側からの攻撃を誘発する方針を採った。
1875年、軍艦「雲揚」を朝鮮沿岸に派遣し、測量などの挑発行為を行った結果、
江華島の砲台から砲撃を受けた。
これに対し日本側は反撃し、砲台を破壊、永宋城を占拠した。
この一連の行動が江華島事件である。
事件後、日本は朝鮮に対して圧力を強め、「日朝修好条規」を締結させた。
この条約には以下の内容が含まれる:
・釜山・仁川・元山の開港・日本の領事裁判権の承認・関税免除
・朝鮮を独立国と認め、清国の宗主権を否定する立場の採用
日本が朝鮮を支配するうえで清国の宗主権が認められたままでは、
やりづらいために朝鮮を独立国として認めた。
これらの条項の多くは日本に有利なものであり、朝鮮にとって不平等な内容であった。
日本は黒田清隆を全権使節として艦隊6隻とともに派遣し、
ペリー来航を模倣する形で武力を背景に条約締結を迫った。
光州(クアンジュ)事件
1980年5月18日から27日まで韓国・光州市で発生した民主化要求運動であり、
当時の軍事政権(全斗煥率いる新軍部)による武力弾圧が行われた事件である。
この事件は、朴正煕大統領の暗殺後の政治的混乱の中で、
戒厳令の拡大と民主派指導者の逮捕に抗議する市民と学生が蜂起したことに端を発する。
光州市では、空挺部隊による過剰な暴力と無差別発砲が行われ、多数の死傷者が出た。
市民は武器を奪って武装し、軍と激しく衝突したが、最終的には軍によって鎮圧された。
犠牲者は154人から198人とも言われ、負傷者は3000人以上にのぼるとされる。
この事件は韓国の民主化運動の象徴となり、
1987年の「6・29民主化宣言」へとつながる重要な契機となった。
今でも光州では、事件の記録や史跡が保存されており、
韓国の民主主義の歩みを振り返る場として多くの人々が訪れている。
主な記録館・史跡
・5.18民主化運動記録館:1980年5月の光州事件の記録を体系的に保存・展示する施設。
旧光州カトリックセンターを改装して2015年に開館。
特徴:ユネスコ「世界の記憶」に登録された資料を閲覧可能。
定期解説やオンライン展示もあり、事件の全貌を学べる。
・国立5.18民主墓地:光州事件の犠牲者が埋葬されている場所。
追悼碑や記念施設が整備されており、静かな祈りの場となっている。
・5.18民主広場(5.18민주광장):市民決起集会が行われた中心地。
現在は噴水台や時計塔が設置され、毎日午後5時18分に抵抗歌が流れる。
・旧全羅南道庁・尚武館跡:戒厳軍が突入した場所で、激しい銃撃戦が展開された。
現在は復元工事中だが、民主化運動の象徴的な史跡である。
・光州YMCA・YWCA跡:市民軍の指導者たちが集まり、抗争の方向性を定めた場所。
YWCAでは「闘士会報」が作成・配布された。
・錦南路(クムナムロ):市民と戒厳軍が衝突した主要な通り。
現在も多くの記念碑が設置されている。
・全日ビルディング245:ヘリコプターからの射撃跡が残る高層ビル。
事件当時の報道拠点でもあり、抗争の痕跡が今も残る。
光州には32か所以上の史跡が点在しており、
地図付きのパンフレットは市内の観光案内所などで入手可能。
現地を歩いて感じることで、歴史の重みがより深く伝わってくる。
映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』は、
1980年の光州事件を題材にした韓国映画で、国内外で高い評価を受け、
以下のような受賞歴がある。
・第38回青龍映画賞(韓国最大の映画賞)
・第90回アカデミー賞
・ファンタジア国際映画祭(モントリオール)
・ソン・ガンホが男優主演賞を受賞[4]
この作品は、ドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターと彼を光州へ送り届けたタクシー運転手
キム・サボクの実話をもとにしていて、韓国の民主化運動の象徴としても語り継がれている。
旅行日程(下記リンク先)