2026年3月20日(金・春分の日)
同期入社の3人で定例会を兼ね、神奈川県中部にある遺跡を訪ねた。
当日はあいにくの雨天であったが、弥生時代後期の環状集落である神崎遺跡、
弥生時代終末期から古墳時代初頭の過渡期に営まれた秋葉山古墳群、
そして縄文時代中期の大集落跡であり勝坂式土器の標式遺跡となった勝坂遺跡を巡った。
国指定史跡神崎遺跡(綾瀬市)
弥生時代後期(2世紀頃)、東海地方から移住してきた人々によって造られた環状集落。
弥生時代後期(2世紀頃)、東海地方から移住してきた人々によって造られた環状集落。
周囲を深いV字形の濠で囲んでおり、強い防御意識が見て取れる。
在来の関東地方の土器とは明らかに異なる東海地方特有の様式を持つ土器が出土しており、
当時の「人の動き」を感じることができる。
弥生時代終末期から古墳時代初頭(3世紀後半〜4世紀)にかけて築かれた、相模川東岸の台地上に位置する古墳群である。
特に3号墳(前方後円墳)は、古墳が造られ始めた初期の姿を留める「出現期古墳」であり、社会構造が「ムラ」から「クニ」へと変遷していく過渡期を象徴する遺構といえる。
相模平野を一望できる眺望の良い高台という立地は、当時の有力者がその権威を示すために選んだ場所であり、時代の転換点を物語る首長墓としての性格を色濃く反映している。
国指定史跡勝坂遺跡(相模原市)
縄文時代中期(約5,000年前)の東日本を代表する大集落跡。
ここで発見された土器は、 隆起した文様や人の顔を模したような把手など
力強い装飾と立体的な造形が特徴で考古学の世界ではこの様式の基準となる「標式遺跡」として非常に重要な存在である。
大正15年(1926)に発掘された縄文土器は、昭和15年(1940)に発表された「日本先史土器図鑑」で「勝坂式土器」の標識資料として設定された。
幕末期の和洋折衷住宅
行程
秋川(自宅)900・・(1.8km5M)・・Su氏宅・・(8.1km23M)・・Se氏宅9:20・・日の出IC9:35・・(圏央道、八王子JCTまで渋滞)・・10:53海老名IC・・11:07神崎遺跡資料館11:56~11:57神崎遺跡12:05・・12:34秋葉山古墳群12:56・・13:00中華料理店「宏源居」(昼食)13:35・・13:53勝坂遺跡駐車場~勝坂遺跡管理棟~勝坂遺跡公園14:50~15:03旧中村家住宅15:25~勝坂遺跡駐車場15:40・・相模原愛川IC15:52・・(圏央道)・・16:18日の出IC・・業務スーパー秋川店・・16:50台湾料理「天和」(夕食)17:45・・17:50武蔵増戸駅(Se氏乗車)・・Su氏宅・・(1.8km5M)・・18:04秋川(自宅) 走行距離118.6km
ー 現在の海岸線、― 6000年前の海岸線 縄文海進 - Wikipedia
--- 10000年前の海岸線、-・-20000年前の海岸線
費用 6,273円
高速道路料金2,480円(日の出ー海老名1,390円、相模原愛川ー日の出1,090円)
ガソリン代1,120円(118.6km)
食事代2,673円(昼食代990円、夕食代1,683円)
2026年3月20日(金・春分の日)
国指定史跡神崎遺跡公園(綾瀬市)11:07
神崎遺跡資料館(綾瀬市)
神崎遺跡資料館
神崎遺跡資料館21階の遺跡公園出入口よりの眺め
国指定史跡神崎遺跡公園パンフレット
国指定史跡神崎遺跡公園パンフレット
神崎遺跡祭り
戦乱を避けて無人の地「神崎」に移住?
西日本の弥生時代の遺跡からは武器や戦死者と思われる人骨が出土していることから、当時の日本列島には社会的な緊張関係があったと考えられる。そのような情勢のなかで、人々は集団で長距離を移動してきたと考えられる。
神崎遺跡から出土した土器などから考察して、相模川流域には西遠江・東三河(西遠)の人々が、金目川流域には東遠江(東遠)の人々が移住してきたことが明らかになった。
幅・深さとも約2mのV字形で、ムラの周囲20m以上を巡って掘られている。
平成25年(2013)の発掘調査で居住跡の重複が確認でき、住居を建て替える程度の期間はムラが続いたことが分ったが、短い期間で住民が居なくなったことが出土土器の変化が少ないことから分った。環濠集落終焉以降、この地に人が現れるのは約500年後の古墳時代後期になる。

未来に託す発掘調査 11:48
未調査の場所があるが発掘調査は一度掘ってしまったら、やり直しができない。
科学的分析方法や発掘技術は年々進歩し予想できなかったデータが収集できるようになってきた。将来、最新のデータを収集するためには、未調査のまま遺跡を残し、発掘調査に備えることが重要になる。このような理由から神崎遺跡はすべてを掘らずに、その答えを未来の人々に託している。
神崎遺跡資料館 11:56
国指定史跡神崎遺跡
国指定史跡神崎遺跡 11:56国指定史跡神崎遺跡 11:57
環濠 11:58
環濠は戦乱のようなムラ同士の緊張状態により作られたと一般的に考えられているが、関東地方では武器などの証拠が発見されていないため、ムラの住民が一致団結するために環濠を掘ったとの考えもある。
幅・深さとも約2mのV字形に掘られている。
年に1回期間限定で一般公開されている。
国指定史跡神崎遺跡公園パンフレット
土器の出土した様子、敷石住居

下原遺跡出土の勝坂式土器
台湾料理「天和」(夕食)17:45・・17:50武蔵増戸駅(Se氏乗車)・・Su氏宅・・(1.8km5M)・・18:04秋川(自宅) 走行距離118.6km
国指定史跡神崎遺跡公園パンフレット
平成17年7月14日指定
国指定史跡 秋葉山古墳群|海老名市
1号墳:前方後円墳(4世紀前半~中頃) 12:37
2号墳:前方後円墳(3世紀末~4世紀初頭) 12:38
2号墳頂上(84.6m)にある憲政碑 12:40
1号墳:前方後円墳(4世紀前半~中頃) 12:37
2号墳:前方後円墳(3世紀末~4世紀初頭) 12:38
2号墳頂上(84.6m)にある憲政碑 12:40
川・台地・湧水
勝坂遺跡D区の調査と保存
住居跡・土器・石器そして考古学
勝坂遺跡から遺跡群へ
竪穴住居から敷石住宅へ
縄文集落の分布
大正15年(1926)に勝坂遺跡(A区)で大山柏氏が発掘調査した縄文土器。
その後、山内清男氏が昭和15年(1940)に発表した日本先史土器図鑑で勝坂式土器の標識資料として設定した。原資料は昭和20年の東京空襲で消失した。展示作品は土器の写真や実測図をもとに複製された。
勝坂遺跡は市民の手によって守られた!
史跡指定を受ける。
勝坂遺跡102・103・105次調査
国指定史跡勝坂遺跡が追加指定された。2019年10月16日
有孔鍔付土器、曽利式土器土器の出土した様子、敷石住居
下原遺跡出土の勝坂式土器
今日の「勝坂式土器」の生みの親は山内清男である。
植物圧痕ブーム
勝坂1次調査のマメ圧痕土器
土偶に見る縄文人
管理棟から勝坂遺跡公園へ
縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡
屋根:笹葺、柱材:クリ、床:ローム土、縄文時代中期後葉(約4700年前)
竪穴住居(1号住居) 14:18
竪穴住居から竪穴住居「跡」へ
谷戸の風景、勝坂の照葉樹林
日本固有種・相模原市登録天然記念物・絶滅危惧種
集落との比高差は約15m、湧水地点は10か所以上点在。
中村歯科(旧中村家住宅)
幕末期の擬洋風建物、1階の外観は和風、
2階の外壁は海鼠壁とし洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗り込め、
正面に縦長の窓を配している。
中村家の所有する畑から多くに土器片が見つかった。
考古学者の大山柏氏に土器片を標本として渡したことが発端であった。
その後、発掘調査が行われ、多数の石器や土器などが採集された。
台湾料理「天和」17:00開店のため、買い物などして時間調整をした。
台湾料理「天和」(夕食)17:45・・17:50武蔵増戸駅(Se氏乗車)・・Su氏宅・・(1.8km5M)・・18:04秋川(自宅) 走行距離118.6km