2023年9月1日(金)
埼玉県名の由来の「さきたま古墳群」を同期入社3人で見に行った。
9月になったせいか朝夕は涼しく感じられる。日中は炎天下のもと散策した。
帰宅後、居酒屋で冷たいビールを美味しく飲んだ。
さきたま古墳公園
丸墓山古墳 日本最大規模の円墳
埼玉古墳群で最も高い(17m)、石田三成が忍城水攻めで墳頂に陣を張った。
丸墓山古墳(高さ17m)からiPhone 14 Pro光学3倍望遠カメラで撮影(約2㎞の距離)
「埼玉県立さきたま史跡の博物館」は9月1日から3月31日まで改装のため休館。
稲荷山古墳の後円部墳頂の埋葬品として錆びれた金錯銘鉄剣が発見された。
奈良県の元興寺文化財研究所でX線にかけると文字が浮かんできた。
錆を落とすと制作された年代(西暦471年7月・辛亥年)と
錆を落とすと制作された年代(西暦471年7月・辛亥年)と
所有者名(雄略天皇警備隊長・ヲワケの臣)と
贈呈者(ワカタケル大王・雄略天皇)が刻まれていた。
世紀の大発見として国宝に指定され、無名の剣が手のひら返しの待遇で
竹をケース代わりに送ったのに、美術専用車で返却された
行田市郷土博物館・忍城御三階櫓
縄文土器 注口土器(陣馬遺跡出土)、深鉢(馬場裏遺跡出土)
「行田」が町人の町、「忍」が武士の町
行田は忍城の城下町であると同時に宿場町、
行田は交通の要衝で宿場町で訪れた人々が「行田足袋」を買い求めた。
行田足袋の生産量は全国の7割で知名度が高いので
市の名前は「忍市」ではなく、知名度の高い「行田市」になった。
北大竹遺跡(若小玉古墳群)
この古墳の最大の特徴は、左壁・右壁及び奥壁に線刻画が描かれていること。
古代蓮の里・行田市田んぼアート
2023年9月1日(金) 行程
自宅9:00ーSu氏宅ーSe氏宅ー(12.1km30分)ー青梅IC9:29ー(圏央道・国道468号27.5km21分¥1,060)ー9:50川島ICー(県道76,306号19.2km33分)ー
10:35さきたま古墳公園(丸墓山古墳、稲荷山古墳、将軍山古墳、将軍山古墳展示館、
二子山古墳、愛宕山古墳)12:00
さきたま古墳公園
さきたま古墳公園案内図 10:37
特別史跡さきたま古墳群は、前方後円墳8基、大型円墳2基、
方墳1基並びに小円墳群で構成されている。
①二子山古墳 ②稲荷山古墳 ③鉄砲山古墳 ④将軍山古墳 ⑤中の山古墳
⑥瓦塚古墳 ⑦奥の山古墳 ⑧愛宕山古墳 ⑨丸墓山古墳 ⑩浅間塚古墳
日本全国にある令和3年度の周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)は159,953基ある。
1位)兵庫県:18,707基、2位)鳥取県:13,505基、3位)京都府:13,103基、
4位)千葉県、12,772基、5位)岡山県:11,880基、14位)埼玉県:3,114基
(文化庁の調査)
対して、日本全国にあるコンビニの数は、令和1年3月時点で58,340店。
(日本フランチャイズチェーン協会発表)
梅の葉が炎天下で変色し萎れている。
さきたま古墳群 めざせ世界遺産!
行田市世界遺産登録推進協議会
丸墓山古墳への道 史蹟埼玉村古墳群石碑
埼玉県名発祥の地名は「北埼玉郡埼玉村大字埼玉字下埼玉地区」であった。
奈良時代には群の名前は「埼玉郡」となり明治時代に「埼玉県」となった。
1954年7月1日北埼玉郡埼玉村は、編入合併により埼玉県行田市大字となった。
「前玉神社(さきたま)」は「浅間塚」古墳上に建てられている。
石田堤 10:42
桜並木は、天正18年(1590)に石田三成が忍城を水攻めした際の堤の一部。
丸墓山古墳の山頂(高さ17m)に三成の陣が張られた。
全長14km約2.3m の高さの堤防「石田堤」を5日間で築き、
利根川と荒川の水を流入させたと言われている。
完成させるが決壊し友軍に多くの溺死者を出し失敗した。
水攻めを諦め正攻法で攻めようにも豪雨と水攻めが裏目に出て田んぼがぬかるみ
攻めあぐね多くの死傷者を出した。
豊臣軍の援軍が来るも城主を敬う農民までもが防衛に参加し一進一退の攻防が続き、
結果的には小田原の北条氏直が負けたために忍城は「開城」となった。
「難攻不落の城」として「関東七名城」のひとつとして知られている。
円墳 (径)105.0 m (高さ)17.2 m、6世紀前半ころ
桜並木「石田堤」
丸墓山古墳から忍城まで直線で約2km、忍城は中央前方左側
忍城 御三階櫓(行田市郷土博物館)
丸墓山古墳(高さ17m)からiPhone 14 Pro光学3倍望遠カメラで撮影(約2㎞の距離)
丸墓山古墳(高さ17m)からの展望 10:53
さきたま古墳群の稲荷山古墳は、埼玉古墳群で最も古く、
5世紀後半、前方後円墳で墳丘長120mの大型古墳。
昭和43年の発掘調査により、後円部から2基の埋葬施設が見つかり、
そのうち礫槨からは、鏡や武具、馬具とともに、115の文字が刻まれた鉄剣が出土した。
国宝金錯銘鉄剣(こくほうきんさくめいてっけん)と呼ばれるこの剣は、
古墳時代の刀剣の銘文としては最も長文で、その内容も古代史を研究する上で重要な
情報が含まれている超一級資料である。
全長120.0m, 後円部径62.6m, 後円部高10.4m, 前方部幅 82.4m, 前方部高 9.4m(推定)
稲荷山古墳から丸墓山古墳を望む 11:06
稲荷山古墳の後円部径62.6m, 後円部高10.4m、山頂からの展望
稲荷山古墳からの展望 11:08
前方の古墳:小円墳跡、右側の古墳:丸墓山古墳
前方後円墳、墳丘全長90.0m、後円部径38.8m、後円部高63.6m、前方部高8m
将軍山古墳の境界 後方の古墳:稲荷山古墳
国宝 金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)複製 将軍山古墳展示館にて
昭和43年の発掘調査により、後円部から2基の埋葬施設が見つかり、
そのうち礫槨からは、鏡や武具、馬具とともに、115の文字が刻まれた鉄剣が出土した。
国宝金錯銘鉄剣(こくほうきんさくめいてっけん)と呼ばれるこの剣は、
古墳時代の刀剣の銘文としては最も長文で、その内容も古代史を研究する上で重要な
情報が含まれている超一級資料である。
二子山古墳 11:51
二子山古墳 11:57
武蔵国で最大の古墳、6世紀初期
本格的な調査がされていないため詳細は判っていない。
墳丘全長132.2m、後円部径67.0m、後円部高 11.7m、前方部幅83.2m、 前方部高13.7m
吉川栄光先生武道顕彰碑(柔道八段、剣道七段) 11:57
「一源三流」
友のため涙を流し、家のため汗を流し、国のため血を流す、
この三流の源は一つの誠の心に在り。
武蔵水路 11:58
「東方より 光は射すと 玉の柩 現れて輝る 一ふりの剣」
さきたま古墳公園12:00ー(古墳通り1.7km3分)ー12:18台湾料理雪梅園13:00
台湾料理雪梅園店内 12:28
Asahi DRY ZERO ¥400、SUPPER DRY ¥400
量も多く、とても美味しかった。
13:06さきたま古墳公園(はにわの館、瓦塚古墳、旧遠藤家住宅、埼玉県名発祥之碑、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳、浅間塚古墳、埼玉県立さきたま史跡の博物館)14:00
左側白塀の奥:愛宕山古墳 前方後円墳
墳丘全長54.7m、後円部径26.4m、後円部高3.6m、前方部幅31.4m、前方部高3.7m
左側:行田市はにわの館
行田市はにわの館 はにはづくり 13:08
旧遠藤家間取り図
奈良時代には「前玉郡」となり、明治9年8月に「埼玉県」となった。
1954年7月1日北埼玉郡埼玉村は、編入合併により埼玉県行田市大字となった。
「前玉神社(さきたま)」は「浅間塚」古墳上に建てられている。
埼玉県名発祥の地は「北埼玉郡埼玉村大字埼玉字下埼玉地区」であった。
前玉神社
最初に祀られたのは、古墳時代の西暦400年代後半〜500年代前半
墳丘全長107.6m、後円部径49.7m、後円部高 8.5m、前方部幅68.1m、前方部高 9.5m
墳丘全長79m、後円部径38m、後円部高 4.9m、前方部幅44m、前方部高5.2m
中の山古墳 前方後円墳 7世紀初頭 13:36
直径58m、高さ8.7m 7世紀後半
墳上に前玉神社が鎮座している
埼玉県立さきたま史跡の博物館 13:57
令和5年9月1日~令和6年3月31日、改修工事のため休館
将軍山古墳展示館で購入した観覧券は令和6年4月2日から令和6年10月31日まで有効
埼玉県立さきたま史跡の博物館パンフレット
国宝 金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)
鉄剣に刻まれた115文字は「私、ヨワケの先祖は、代々親衛隊帳を務めてきた。
私は雄略天皇に仕え、天下をオサメルノヲ補佐した。そこで辛亥の年(471)4月に
この素晴らしい刀剣に、これまでの輝かしい功績を刻んで記念とする」と記されている。
さきたま古墳公園14:00ー(古墳通り・県道77号、1.7km3分)ー
14:13行田市郷土博物館・忍城櫓
行田市郷土博物館 入館券¥200
密教と結びついて7~8世紀頃普及した。
全長14km約2.3m の高さの堤防「石田堤」を5日間で築き、
利根川と荒川の水を流入させたと言われている。
完成させるが決壊し友軍に多くの溺死者を出し失敗した。
水攻めを諦め正攻法で攻めようにも豪雨と水攻めが裏目に出て田んぼがぬかるみ
攻めあぐね多くの死傷者を出した。
豊臣軍の援軍が来るも城主を敬う農民までもが防衛に参加し一進一退の攻防が続き、
結果的には小田原の北条氏直が負けたために忍城は「開城」となった。
「難攻不落の城」として「関東七名城」のひとつとして知られている。
忍城水攻めの経過
「御本丸ハ権現様御殿之御址」忍城の本丸に徳川家康が宿泊するための御殿が建てられた。
合戦屏風、金梨地葵紋散糸巻太刀拵
甕
はには
縄文時代の遺跡
墨書土器(池上遺跡出土)、紡錘車(小針遺跡出土)、木簡(複製)(池上遺跡出土)
前玉神社、小埼沼、八幡山古墳の万葉歌碑
忍城御三階櫓からの展望 14:49
忍城御三階櫓からの展望 14:49
忍城の鐘 宝暦14年(1764)
忍沼風景(水城公園)大正時代
第33回テーマ展「描かれた忍城」
忍城は、元禄14~15年(1701~1702)に帯曲輪を造成し、三重櫓、二重櫓、多聞櫓を建設する大改修を終えてから、文政6年(1832)以降に松平家が武家屋敷や長屋を増設するまでの忍城の城郭描いた絵図。これに伴って本町・新町と新たに開発した八幡町(大工町)を含んだ構成になる。
武州忍御城郭図
行田市郷土博物館・忍城櫓ー14:45八幡山古墳15:15ー(700m2分)ー
15:20地蔵塚古墳16:00ー(県道364号2.0km4分)
ー14:05古代蓮の里・行田市田んぼアート14:35
八幡山古墳、地蔵塚古墳、中村遺跡、大竹古墳、若小玉古墳などで形成されている
土・日・祝日の10:00~16:00のみ 行田市役所
八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉古墳群の中心となる古墳で、
7世紀前半に造られた直径約80メートルの大型の円墳と推定されている。
昭和9年(1934)に、約2キロメートル東にあった小針沼の干拓事業のため
古墳の封土を崩した際に石室が現れた。
翌年の発掘調査の結果、石室はほぼ南北に位置し、南を正面とする前・中・後室の
3室からなる全長16.7メートルの巨大な石室であることが明らかになった。
各室とも秩父地方から運搬された巨大な緑泥片岩と安山岩で築造されている。
その後、昭和52年から54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿になっている。
発掘調査では最高級の棺である漆塗木棺の破片や銅鋺など豪華な遺物が発見されており、
この古墳に葬られた人物がかなりの権力者であったと考えられる。
「聖徳太子伝暦」に登場する武蔵国造物部連兄磨の墓と推測する説もある。
奈良県明日香村の石舞台古墳に匹敵する巨大な石室であることから、
「関東の石舞台」とも呼ばれている。
この古墳は若小玉古墳群に含まれ、墳頂に地蔵堂が安置されていることから、
地蔵塚古墳と呼ばれている。
墳形は方墳と思われ、築造時期は7世紀中葉と考えられる。
規模は、一辺約28m、高さ約4.5m」、周堀幅約1m、深さ40~50cmである。
石室の形態は胴張りで、奥壁と天井石は緑泥片岩、他は安山岩の切石を用いている。
奥壁及び側壁下には、根石が置かれていた。
遺物としては、石室内から鉄鏃片や須恵器片が少量出土している。
この古墳の最大の特徴は、左壁・右壁及び奥壁に線刻画が描かれていることで、
烏帽子を被った人物、弓を引いている人物、馬、水鳥、家と思われるものが描かれている。
これらの絵からは、広々と広がる沼で鳥が遊び、舟に乗り、かいで漕ぎ渡る景色が
想像され、この石室に葬られた人物の生前の姿を描いたと考えられる。
地蔵塚古墳の線画 水鳥
入口が閉鎖されていたためHPより転用
古代蓮の里・行田市田んぼアート
古代蓮池、50mの展望タワー
古代蓮の里 案内図
古代蓮の里 古代蓮池付近 15:55
ミズカンナ クズウコン科
昭和初期に渡来、葉がカンナに似て、水のあるところに生える。
入館時間16:00に2分遅れて入れなかった。16:02
行田市田んぼアートを50mの展望タワーから見られなかった。
古代蓮会館50mの展望タワー 16:05
古代蓮の里・行田市田んぼアート16:35ー(県道364,77,12号17.4km30分)ー
桶川加納IC16:55ー(圏央道46.6km35分¥1,680)ー17:31日の出ICー
(都道184,165,2.3km7分)ー17:35自宅・・
17:45居酒屋串陣19:00・・19:10吉澤園20:35・・(750m10分)・・20:45自宅
費用:¥8,815
内訳
高速道路:¥2,740
*青梅ICー圏央道ー川島IC ¥1,060
*桶川加納ICー圏央道ー日の出IC ¥1,680
ガソリン代:¥1,619
148km/ (16km/h)*¥175/L=¥1,619
入館料:¥400
埼玉県立さきたま史跡の博物館¥200
行田市郷土博物館¥200
食事代:¥4,056
刀削ラーメン+ノンアルビール¥1,408、お茶¥148、居酒屋¥2,500