2023年11月22日(水)~29日(水) 7泊8日
晩秋の大阪・京都・奈良の古墳や博物館巡りを新幹線とレンタカーを
利用してシルバー4人で見に行った。
今城塚古墳、大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、
津堂城山古墳、百舌鳥古市古墳群、石舞台古墳、都塚古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、
牽牛子塚古墳、藤ノ木古墳など。
今城塚古代歴史館、大阪歴史博物館、堺市博物館、アイセルシュラホール・藤井寺市立生涯学習センター、百舌鳥古墳群ビジターセンター、城山古墳ガイダンス棟まほらしろやま、
奈良文化財研究所飛鳥資料館、橿原考古学研究所付属博物館、斑鳩文化財センター、
奈良国立博物館、京都国立博物館など。
難波宮、飛鳥寺、巨石文化財、柳生の里、中宮寺、唐招提寺、薬師寺、平城京公園、
寺田屋旅館、伏見酒蔵、三十三間堂、元離宮二条城、竜安寺、仁和寺、
京都御所、船岡温泉など。
大阪・京都・奈良の旅予定日程表
2023年11月22日(水)
秋川駅5:56ーー6:18立川駅6:31ーー7:15東京駅8:09ーー(のぞみ303)ーー10:21京都駅
・・ニッポンレンタカー新幹線京都駅前営業所受付(HondaFIT)10:40・・11:41今城塚古代歴史館/今城塚古墳13:12・・14:15大阪歴史博物館15:50・・18:00ホテルサンプラザ堺・・18:30ごちそう屋「四季」20:00・・20:10ホテルサンプラザ堺
今城塚古墳と埴輪祭祀場、丘陵長約190mの前方後円墳
531年に没した継体大王の真の陵墓と考えられる。
高槻市立今城塚古代歴史館
埴輪祭祀場では、家、人物、動物など200点以上の形象埴輪が見つかっている。
今城塚古墳の円筒埴輪
高槻市立今城塚古代歴史館にて
難波宮跡
前期難波宮(645~686年、孝徳天皇、斉明天皇、天武天皇)
後期難波宮(726~784年、聖武天皇)
大阪歴史博物館、NHK大阪放送会館の地下一階の難波宮発掘跡
2023年11月23日(木)
ホテルサンプラザ8:28・・9:00堺市役所9:22・・10:00大仙公園・・堺市博物館11:30・・
11:36百舌鳥古墳群ビジターセンター12:12・・12:42三田屋本店(昼食)13:50・・
14:28藤井寺市立生涯学習センター(シュラホール)藤の森円墳15:00・・15:10応仁陵古墳15:20・・15:42津堂城山古墳/史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」16:10・・
17:08ビジネス観光旅館河合(奈良県橿原市八木町)・・オークワ大和高田店・・旅館河合
百舌鳥古市古墳群
世界遺産・百舌鳥古市古墳群 大仙古墳(仁徳陵古墳)全長約840m
クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並んで世界最大級の墳墓に数えられる。
大仙古墳(仁徳陵古墳)、大仙公園、履中天皇百舌鳥耳原古墳
堺市役所展望台より
半正天皇陵、半正天皇陵古墳
堺市役所展望台より
百舌鳥・古市古墳群1
4世紀後半から5世紀後半に89基の古墳が築造された。
そのうちの百舌鳥古墳群23基、古市古墳群26基の49基が構成資産になっている。
大阪湾上の船に乗っている外国人に権力の大きさを見せようとする意志が
あったと言われている。
堺市博物館・百舌鳥古市古墳群シアターの約200インチ大型スクリーン
複数台の8K高精細プロジェクター使用
履中天皇百舌鳥耳原古墳
応神天皇陵古墳の西約100mにあった古墳を移設した。
百舌鳥古市古墳群において唯一見学できる石室。
空から見た古市古墳群、応神天皇陵古墳他
津堂城山古墳、小山城跡
分かり難い、駐車場がない、迷路
史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」
津堂城山古墳出土 長持形石棺レプリカ・石槨天井石
ビジネス観光旅館河合(奈良県橿原市八木町)素泊まり 17:08
レンタカー HondaFIT なにわ504 わ・468
日本酒、ウイスキー、飲物、つまみ、みかん、食材などを購入
2023年11月24日(金)
ビジネス観光旅館河合8:20・・8:38飛鳥寺/入鹿の首塚9:12・・9:38石舞台古墳9:56・・10:06都塚古墳10:28・・10:47高松塚古墳11:15・・11:28台湾料理福源12:00・・12:33キトラ古墳14:00・・14:19牽牛子塚古墳/越塚御門古墳14:40・・14:57益田岩船15:16・・15:32欽明天皇陵/吉備姫王姫墓/猿石15:44・・15:50鬼の雪隠/鬼の俎15:55・・16:04亀石16:10・・16:18酒船石遺跡16:40・・ビジネス観光旅館河合・・17:45近鉄八木駅名店街・・17:55立吞処「ま〇る」19:05・・19:15ビジネス観光旅館河合
ビジネス観光旅館河合が素泊まりであったため、前日にオークワ大和高田店で
茹で蕎麦、麵つゆ、納豆を買ってきたのを、納豆蕎麦にして食べた。
はせ越(芭蕉)1688年4月11日作
飛鳥寺
推古天皇の時代に蘇我馬子が596年に創建した日本最初の仏教寺院。
当時は現在の20倍も大きな寺院であった。
本堂(釈迦如来)と思惟殿(聖観音菩薩)
銅造釈迦如来坐像(1940年(昭和15年)重要文化財指定)
609年、仏師・鞍作鳥によって造られた日本最古の仏像。
(高さ3m、銅15トン、黄金30kg)
歴史的風土特別保存地区(昭和55年12月27日指定)
奈良県生活環境部風致保全課 明日香村企画課
蘇我入鹿の首塚
645年6月、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌足らに暗殺された。(乙巳の変)
入鹿の首がここまで飛んできたので、首を供養するためにここに埋めたともいわれている。
石舞台古墳
同時期の他の古墳を参考にすると上円下方墳であったと推定される。
天井石(約7.7t)が平たいので古くから石舞台古墳と呼ばれていた。
6世紀末期から7世紀初頭に築造された。
蘇我馬子(626年没)の桃原墓あるとの説が有力視されている。
羨道の長さ11.5m、幅約2.2m
昭和8年の発掘調査では石棺は発見できなかったが、
石室から平らに加工した凝灰岩の破片が見つかり、
飛鳥時代の古墳に施されていた石棺の資料を基にして石棺を復元した。
石舞台古墳
下方墳(外隍)の長さ一辺85m、
都塚古墳
元旦に金鳥が鳴く伝承があり金鳥塚とも呼ばれる。
東西41m、南北42mの方墳、段状の石積みをもつ特殊な構造(ピラミッドに似ている)
周辺には石舞台古墳や塚本古墳などの大型方墳があるが、都塚古墳はこの中で最も古い。
全長12.2m、玄室の長さ5.3m、幅2.8m、高さ3.55m
高松塚古墳
下段直径23m、上段長径18mの2段構築の円墳
7世紀末から8世紀初頭に造られた。
昭和47年3月の調査で石室内に描かれた壁画が発見された。
壁画の劣化が止められず平成19年、石室を墳丘から取り出し
約500m離れた仮設修理施設で修理作業を進めている。
キトラ古墳
昭和58年、日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳。
壁画が危険な状態であることが明確となり、平成15年に仮設保護覆家を設置し、
平成22年までにすべての壁画を取り外し修理が進められている。
7世紀末から8世紀初頭に造られた。
2段築造の円墳(下段直径13.8m、上段直径9.4m)
牽牛子塚古墳(けんごしずかこふん)・越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
越塚御門古墳 (後方:牽牛子塚古墳)
2010年、明日香村教育委員会の発掘で牽牛子塚古墳の南東で越塚御門古墳が確認された。
日本書紀には、667年の出来事として
「斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した陵の前に、
孫の大田皇女を葬った」と記されている。
牽牛子塚古墳
7世紀後半に築造された。3段式築成の八角墳で対辺長約22mで復元。
研究者は、日本書紀などの記述や天皇陵に多い八角墳の特徴から牽牛子塚古墳を
飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594~661年)の墓とみている。
宮内庁は、奈良県高取町の古墳を斉明陵として指定している。
白っぽい凝灰岩で覆われた八角墳
2022年3月2日整備工事が終了し報道陣に公開された。3月6日一般公開。
牽牛子塚古墳は別名「あさがお塚」とも呼ばれ、江戸時代や明治時代の文献から
墳丘が多角(八角)形をしていて朝顔の花びらに似ていることに由来する。
八角形の八は、天皇を中心に八方あまねく国土を統治するという
中国の世界観を表している。八角墳は畿内に5基確認されている。
史跡 益田岩船
貝吹山の連峰である石舟山の頂上近くにある花崗岩の巨大な石造物
頂上部ではこの溝内にさらに1.4mの間隔をおいて東西に深さ1.3mの方形の孔が2つある。
加工技術など7世紀代の特色があるが、用途は明らかでない。
欽明天皇陵・吉備姫王墓
欽明天皇陵・檜隈坂合陵
陵名(みささぎめい)檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)
全長140m、墳丘は3段築成で周濠をもつ、明日香村で唯一の前方後円墳
日本書紀によれば、欽明天皇は571年4月に亡くなり9月に檜隈坂合陵に埋葬された。
天皇陵、古墳、遺跡などの案内図
墓名は檜隈墓(ひのくにのはか)と称する。
孝徳天皇と斉明天皇の生母にあたり、日本書紀によれば吉備姫王は、
643年6月に亡くなり檀弓岡(まゆみおか)に葬られたとある。
延喜式諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されている。
墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南の字イケダの水田から掘り出された
石造物4体があり、猿石と称されている。
鬼の俎・鬼の雪隠・亀石
鬼の俎と鬼の雪隠は封土を失った古墳の石室で、
もとは花崗岩の巨石を加工した底石・蓋石・扉石の3個を組み合わせたものであったが、
底石(俎)と蓋石(雪隠)だけが分離して残っている。
646年の薄葬令の規則に合わせて作られている。
俎の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説がある。
明日香村飛鳥保存財団
明日香村役場付近
いつ何の目的で作られたのか明らかでない。
いつ何の目的で作られたのか明らかでない。
川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石という説や
水神信仰のひとつとか諸説ある。
現在は南西を向いているが、西に向きを変えるとこの一帯が水没するという伝説がある。
水田の中にある亀石
文化財保存協力金大人300円(一般財団法人明日香村地域振興公社)
立吞処「ま〇る」 19:05
2023年11月25日(土)
ビジネス観光旅館河合8:13・・8:30甘樫丘/川原展望台9:22・・9:31飛鳥資料館10:20・・10:44奈良県立橿原考古学研究所付属博物館11:44・・12:47情熱うどん荒木伝次郎12:50・・13:00スシロー橿原店13:37・・14:46中宮寺15:10・・15:18藤ノ木古墳15:27・・15:48斑鳩文化財センター16:25・・17:36柳生の里おやど三浦
甘樫丘
畝傍山(うねびやま199.2m)、耳成山(みみなしやま139.7m)、天香具山(152.4m)
奈良文化財研究所飛鳥資料館
奈良文化財研究所飛鳥資料館
酒船石遺跡・亀形石槽船形石槽、須弥山石
石神遺跡から明治35年(1902)に掘り出された。
須弥山は仏教世界にそびえる聖なる山(スメール山)のこと。
この石造物は、噴水施設とみられる。
須弥山石の三つの石は、いずれも内部がくり抜いてある。
下段の石に水を溜め、小さな穴から四方へ吹き出すようになっている。
橘寺の境内から江戸時代に運ばれてきた。7世紀ごろ作成。
人の心の「善」と「悪」を表していると言われている。
人の心の「善」と「悪」、この面はどちらかな。
山田寺
山田寺発掘調査
1982年に発掘調査、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定された。
聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」の裏書にある浄土寺は山田寺の別名。
山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂が氏寺として計画し、
舒明天皇13年(641)3月15日に建設を開始した。
「山田寺」東回廊の再現
山田寺跡出土品、東面回廊南脇の残存部材
法隆寺の西院伽藍よりも半世紀前に建築された。(日本最古の木造建築出土)
7世紀の仏教文化や古い寺院の様相を伝える資料として価値が高い。
山田寺の薬師如来仏頭(複製)7世紀
旧山田寺講堂本尊として685年(天武天皇14年)に完成した。
初唐の影響を受けた初期の白鳳仏の特色がある。
現在、興福寺の宝物館にある仏頭と東金堂の日光・月光の両菩薩は、
もともと山田寺講堂に安置されていた薬師三尊像である。
1186年(文治2年)に興福寺金堂に移されたが、金堂が火災に遭って再建され、
鎌倉時代に山田寺から興福寺に移した。その後、破損して頭部だけ残った。
この他、山田寺旧蔵とされる阿弥陀三尊像は、法隆寺財納宝物144号として
東京国立博物館に所蔵されている。
川原寺
川原寺は、飛鳥寺・大官大寺・薬師寺とともに飛鳥の四大寺として栄えた古代寺院。
斉明天皇、天智天皇、天武天皇ゆかりの寺院。
日本書紀の673年3月の記事に、川原寺で一切経を写経させたという内容が記されている。
これ以降、日本書紀や続日本紀などに川原寺が数多く登場し、
天武天皇・持統天皇を中心に、天皇の病気平癒の祈願などを行う場として重んじられた。
和銅3年(710)の平城京遷都にともない、川原寺の地位は低下していった。
川原寺は創建以来3度の火災に見舞われた。(9世紀半ばごろ、1191年ごろ、室町時代後期)
型押しした粘土を焼結した半肉彫りの仏像、日本では7世紀後半に盛んにつくられた。
川原寺の西北に位置する川原寺裏山遺跡には、川原寺の火災により壊れた
大量の塑像や磚仏が埋め納めた。
関西大学文学部考古学研究室保管
それぞれの成分に由来するベンガラ、鉛白、鉛丹、群青、緑青、金箔が使われた。
文様の輪郭線は、火災により消失したため詳細は不明だが、朱または墨と推定される。
配色の法則などをもとに鮮やかに彩色がよみがえった。
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
奈良盆地ジオラマ
太安萬侶没後1300年、令和5年度秋季特別展
2023年10月7日(土)~11月26日(日)
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
木造 太安萬侶神像(おおのやすまろしんぞう)、「古事記」の撰録者
天武天皇は「古事記」の編纂を稗田阿礼に指示し、
「帝皇日継」と「先代旧辞」を読み習わせた。
また「日本書紀」の編纂にも取り組み、本格的な都城の建設をめざすなど、
律令国家の建設に力を注いでいたが、天武天皇の崩御で編纂は中断した。
しかし都が平城京に遷った和銅4年(711年)、
元明天皇が太安萬侶に「古事記」の撰録を命じ、翌年に「古事記」は完成し献上された。
奈良市此瀬町の茶畑の中腹に史跡として整備された太安萬侶墓。
木棺が木炭に覆われて葬られていた。
昭和54年(1979年)、茶畑の開墾中に偶然に発見された墓室の中から遺骨や真珠とともに
銅版製の墓誌が見つかり墓誌には、日本書紀と並ぶ最古の歴史書である「古事記」の
編纂者の太安萬侶の名前が刻まれており、現在のJR奈良駅の西に住み、
養老7年(723年)に亡くなったことが記されていた。
太安萬侶墓関連の年代測定
加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定を実施し暦年較正を行った結果、
太安萬侶の木棺が7世紀後半から8世紀に生育期間を持つ木材(コウヤマキ)を利用されて
安萬侶の卒年(723年)を含む範囲内(669~773年)にあることかわかった。
ところが現在の太安萬侶墓に使われた木炭(カシ、コナラ、カバニキなど)の
ウイグルマッチング法による年代測定では、746~766年の確率が95.4%という結果が出た。
これは安萬侶の卒年(723年)から20年以上の開きがあるため、
太安萬侶の最初の墓が別に存在し、現在の確認されている太安萬侶墓は
新たにつくられた改葬墓である可能性が浮上した。
その場合、初葬墓の候補地としては、松の下の塚や多神社周辺の一帯と考えられる。
*ウイグルマッチング法
複数の年輪資料の炭素14年代を測定し、年輪資料の年代間隔と炭素14年代パターンを
較正曲線と照合させることで、より精度の高い暦年較正を行う方法
太安萬侶の初葬墓はどこか
常設展示室
絶滅したゾウの門歯、前期更新世動物化石
更新世前期~中期、河合町穴聞
「シガゾウ牙」が「奈良県の石」として日本地質学会により選定された。(平成28年)
観音寺本馬遺跡の土抗墓から人骨が出土「シガゾウ牙」が「奈良県の石」として日本地質学会により選定された。(平成28年)
縄文時代晩期、橿原市・御所市
弥生時代・古墳時代
古墳時代・埴輪展示室
朝鮮半島と日本の甲冑
新型コロナウイルス感染症対策の一環として、新店・改装店舗を中心に、
これまでも、システムによる省力化を進めていたが、省力化技術を駆使することで
朝鮮半島と日本の甲冑
入店前から寿司の注文や会計まで、ほぼ機械化されている。
AIがカメラで皿の種類や枚数を計測していて、会計はセルフレジになっていた。
ITを駆使した安全・安心の取り組みを強化している。
これまでも、システムによる省力化を進めていたが、省力化技術を駆使することで
スタッフとのやり取りを減らす非対面化システムの活用により、衛生対策を強化している。
また、スシロー公式アプリを活用することで3密回避にもつながり、
中宮寺
聖徳太子ゆかりの現存最古の尼寺。
昭和43年(1968)故高松宮妃喜久子殿下の発願で鉄筋コンクリート造で建て替えられた。
その本堂は、近代数寄屋建築の名手、吉田五十八が手掛けた数少ない寺院建築の一つ。
老朽化した柱などの修復作業が2021年春に完了し、竣工当時のたたずまいがよみがえった。
飛鳥時代の仏像の最高傑作のひとつで、
古典的微笑(アルカイックスマイル)の典型として評価され、
エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで
「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。
斑鳩町藤ノ木古墳
国指定史跡 藤ノ木古墳(1991年11月18日指定)
法隆寺の西方約400mにある直径約48mの6世紀後半の大型円墳。
6世紀後半の横穴式石室内に、家形石棺があり、棺内に2人の男性が葬られていた。
豪華な副葬品が多数発見された。
石室特別公開
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館にて
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館にて
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館にて
斑鳩文化財センター(正式名称:斑鳩町文化財活用センター)
金銅製鞍金具(前輪)
1号人骨(20~40歳)、2号人骨(17~25歳)の遺存骨
藤ノ木古墳の棺内に2人の男性が葬られていた。 2023年11月26日(日)
おやど「三浦」7:30・・8:00天乃石立神社/一刀石8:10・・柳生の里・・9:00薬師寺10:20・・10:35唐招提寺11:10・・11:20蕎麦よしむら12:30・・13:30奈良国立博物館15:00・・15:15平城京公園16:30・・17:17アーバンイン伏見・・17:50近鉄桃山御陵前駅17:57・・18:00中華料理くれたけ(生田氏・N氏再会)20:00・・20:15アーバンイン伏見
柳生の里
柳生新陰流を生んだ剣の里
柳生新陰流は、柳生宗巌(石舟斎)があみだした。
家康との出会いで、石舟斎は「無刀取り」を披露して剣術指南役になった。
柳生宗巌の子・宗矩は大阪の陣の功績で柳生2,000石を与えられ、兵法指南役となった。
家光の信頼を得た柳生宗矩は、大名を監察する大目付に就いた。
やがて1万石を超え大名の仲間入りを果たした。
幕府で力を持ち始めた秀忠の時期から大名となって大目付をを退くまでの20年ほどの間に、
改易処分を受けて所領や城を没収された大名が相次いだ。
大目付を務めた4年間だけで改易は10を超えた。
柳生家は各地に赴いた門弟たちを情報網として活用し、大名の監視に役立てて、
その力の源泉にした。柳生藩は参勤交代を免除されていた。
国元に変える機会が無かったこともあり、代を重ねるうちに柳生家と柳生の地は
次第に疎遠になっていった。今では柳生家の指針の所在は分っていないという。
干し柿 大から小へ
天乃石立神社にある巨石
柳生宗巌(石舟斎)が天狗を相手に剣の修業をしていて、天狗と思って切ったのが
この岩だったと伝えられている。
薬師寺
薬師寺は天武天皇の発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、
文武天皇時代に堂宇の完成を見た。その後、平城遷都(710)に伴い718年現地に移った。
薬師寺西塔(昭和56年再建、1528年焼失)
薬師寺大講堂(平成15年再建)月光菩薩、薬師如来、日光菩薩
薬師如来本尊台座 南方守護神朱雀(模型)大唐西域壁画殿
須弥山(ヒマラヤ山脈、エベレスト、ローツェ、ルプツェ、アマダブラム)
文化勲章受章者・平山郁夫画伯により奉納された7場面13枚全長49mの大壁画
唐招提寺
律宗の総本山
多くの苦難の末、来日した鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、
新田部親王の旧宅地を下賜され「唐律招提」と名付けられて、
天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いた。
奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える伽藍となってる。
唐招提寺金堂
おそば、胡麻豆腐、押し寿司、揚げもの2種
奈良国立博物館
東大寺、興福寺、春日大社などに囲まれた奈良公園の一角に位置している。
寺院・神社をはじめとした文化財所有者の協力を得て、
特に仏教と関わりの深い古美術品や考古遺品などの文化財の保存を図り、
調査・研究とともに、展示を通して仏教への信仰が生み出した優れた美術の魅力と、
その背景にある豊かな歴史・文化について伝えている。
展示替えで西新館、東新館は閉鎖中
カヤの木造 奈良時代(9世紀)
飛鳥時代(7世紀) 銅造り鍍金
中国・五胡十六国(4~5世紀) 銅造り鍍金
中国で造立された初期の金銅仏、ガンダーラの仏像様式
木造素地
飛鳥時代(7世紀) 銅造り鍍金
「走り大黒」と呼ばれていたが、近年の研究で禅宗寺院を守る伽藍神とされた。
南北朝時代 延元四年(1339)奈良・金峰山寺の仁王門に安置
特別公開
2018年より仁王門修復開始、平成10年完成予定。約20億円の予算。
2019年より2年かけて金剛力士立像も修整・保存修理が実施された。
熱海市の伊豆山の祭神で走湯権現とも呼ばれ、温泉が神格化された存在。
青銅器館
鴟鴞卣(しきょうゆう)
商(殷)後期(殷墟期)(紀元前15~11世紀)
平城京跡歴史公園
平城京は710年、元明天皇が律令制に基づいた政治を行う地として藤原京から遷都した。
平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれている。
平城京のモデルは唐の長安であった。
第一次大極殿(元明天皇建立、710~740年)
参考:740~745年、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄される。
745~784年、第二次大極殿(聖武天皇建立)784年長岡京に遷都、
810年、平城天皇が平安京を廃し平城宮に遷都する詔が出されたが、
嵯峨天皇の挙兵により平城上皇は剃髪した。(薬子の変)
参考:740~745年、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄される。
745~784年、第二次大極殿(聖武天皇建立)784年長岡京に遷都、
810年、平城天皇が平安京を廃し平城宮に遷都する詔が出されたが、
嵯峨天皇の挙兵により平城上皇は剃髪した。(薬子の変)
そのため平城宮への遷都は無かった。
大極殿にて
第一次大極殿院大門(南門)
第一次大極殿院大門(南門)
2023年11月27日(月)
アーバンイン伏見8:56~~9:01伏見酒蔵~~9:15寺田屋~~9:32月桂冠大倉記念館~~
10:12寺田屋10:36~~アーバンイン伏見11:00・・11:27新京極・日本一の鰻かねよ12:28・・12:57三十三間堂13:37・・14:21二条城15:37・・16:16宿鯉屋~~16:58船岡温泉17:56~~18:06ココカラファイン~~宿鯉屋~~18:26インドカレー店19:30~~宿鯉屋
ビジネスホテル アーバンイン伏見柿の葉寿司とメロンパン 、茹で卵
伏見酒蔵
寺田屋旅館
明治27年(1894)建立、有栖川熾仁親王の筆になる篆額。
坂本お龍(晩年の写真)
かねよ名物 上等きんし丼
三十三間堂
三十三間堂(正式名:蓮華王院)天台宗の古刹。
鎌倉時代に再建、本堂は南北に約120mの堂。
堂内の内陣の柱間が33あるので三十三間と通称される。
本尊千手観音菩薩坐像、二十八部衆像、風神・雷神像が配置されている。
池泉回遊式庭園
元離宮二条城
1603年(慶長8年)、徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と
将軍上洛の際の宿泊所とするため築城した。
3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、
二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられた。
1867年(慶応3年)に15代将軍慶喜が二の丸御殿で「大政奉還」の意思を表明した。
1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産登録。
元離宮二条城案内図
松竹梅の鶴、唐獅子など極彩色の彫刻がある。桃山文化の遺構。
遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿。部屋数33室、800畳余りもある。松鷹図、将軍の威厳を示す虎や豹、
桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写画)で装飾されている。
船岡温泉
船岡温泉 16:58
京都市北区紫野南舟岡町にある公衆浴場。
脱衣場や浴場などが国の登録有形文化財に登録されている。
1923年(大正12年)に木造2階建ての料理旅館「船岡楼」の付属浴場として営業を開始。
1933年(昭和8年)に日本で初めて電気風呂を導入し特殊船岡温泉として許可を受けた。 戦後間もない1947年(昭和22年)に本格的に銭湯として営業を始め、現在に至っている。
船岡温泉
懇親会用飲料購入
2023年11月28日(火)
ゲストハウス鯉屋8:15・・8:47龍安寺9:30・・9:47仁和寺11:21・・11:32お好み焼き克(かつ)12:25・・13:02京都国立博物館15:00・・15:43京都市宇多野ユースホステル
パン、バナナ、柿、ヨーグルト
ゲストハウス鯉屋のフロント
ゲストハウス鯉屋 11,000円 8:17
鯉屋は西陣のお屋敷を改修した町家のお宿で外国人に人気がある。
龍安寺
臨済宗妙心寺派の寺院、1994年世界文化遺産登録。
もと徳大寺家の別邸、1490年細川勝元が譲り受け禅院とした。
本尊:釈迦如来
枯山水の石庭、方丈庭園は室町時代末期の作と伝えられている。
「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」とも呼ばれている。15個の石を配している。「安寧幸福を願い描いた龍」作者:元首相の細川護熙氏
「雲龍図」第7の龍
第1の龍から第8の龍まである。
龍安寺の本堂(方丈)に細川護熙氏が約3年かけて描いた「雲龍図」襖絵40面が完成、
令和6年3月31日まで特別公開される。
つくばい 吾唯知足「吾れ唯だ足るを知る」
鏡容池 池泉回遊式庭園 大珠院 9:26
仁和寺
888年宇多天皇によって建立、出家して第一世宇多法王となった。
真言宗御室派総本山(世界遺産)
吽形の仁王像
右近の橘、 左近の桜
龍安寺町のお好み焼き 克(かつ)11:32
京都観光に来る外国人に人気のお好み焼きで、9割が外国人客とのこと。
外国人が選ぶ格安レストラン1位。
京都国立博物館
京都国立博物館は豊臣秀吉が創建した方広寺の境内南側であった場所に建てられた。
文化財保護法に規定する有形文化財を収集し、保管し、見学してもらう。
これに関連する調査研究及び事業を行うことにより、
貴重な国民的財産である文化財の保存及び活用を図ることを目的としている。
京都国立博物館 明治古都館
噴水のあるエリア
「考える人」オーギュスト・ロダン、ブロンズ像 1880年
「地獄の門」という巨大な作品の一部であった。
禅宗美術の中心、東福寺初の大規模展覧会 2023.10.7~12.3
2008年完全リニューアルオープン
ホステルとホテルの大きな違いは、ホテルは部屋全体がプライベート空間であるのに対し、
ホステルはベッドの上がプライベートでその他は共用部分であること。
ホステルは基本的に相部屋の場合が多く、1人1部屋という感覚よりも、
1人1ベッドという感覚に近い。 施設によっては、二段ベットが用意されている。
2023年11月29日(水)
宇多野ユースホステル8:17・・8:53京都御所10:03・・10:44ニッポンレンタカー新幹線京都駅前営業所(走行距離約450km・約30リットル) ~~10:52イオンモール~~11:25京都駅新幹線のりば12:10ーー(ぷらっとeプラン乗車票・指定席グリーン車)ーー15:48東京駅16:04ーー(JR中央線快速青梅行き)ーー17:13拝島駅(生蕎麦いろり庵きらく)17:28ーー(JR武蔵五日市線)ーー17:37秋川駅~~17:50自宅
宇多野ユースホステル
宇多野ユースホステル食堂 7:06
京都御所
明治維新まで天皇の内裏であった。桓武天皇が奈良の平城京より京都の長岡宮を経て、
延暦3年(794)に平安京に都を移されたのが始まり。
現在の京都御所は土御門東洞院殿と言われた里内裏の一つであった。
元弘元年(1331)に光厳天皇がここで即位してから明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間、天皇の住まいであった。
幾度もの火災の後、安政2年(1855)に再建されたのが現在の京都御所になる。
鶴図襖 狩野永岳 筆 安政2年(1855)
諸大夫の間・虎の間
虎図襖 岸岱 筆 安政2年(1855)
健礼門即位の礼など紫宸殿で行われる重要な行事や
天皇陛下および国賓が来られた際に使用される格式高い門
即位の礼などの重要な儀式が行われる最も格式の高い正殿
大正天皇即位式に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられた。
昭和天皇の即位礼でも使用された。
清涼殿 昼御座(ひのおまし)
天皇の日常の住まいとして使われた。また政治・祭事などの儀式も行われた。
昭和天皇の即位礼でも使用された。
清涼殿 昼御座(ひのおまし)
天皇の日常の住まいとして使われた。また政治・祭事などの儀式も行われた。
左右に漢竹、呉竹が配してある。
明治維新の際には将軍に対する処置を定めた「小御所会議」が行われた。
御池庭 欅橋
この建物で明治天皇が親王・諸臣を引見され「王政復古の大号令」を発せられた。
蹴鞠は勝敗を争うのではなく、いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかで行われる。
3月3日に行われる曲水宴の様子を描いている。
曲水宴は、中国から伝わった行事で、水流に酒を満たした盃を浮かべ、
盃が自分の前を流れ去る前に詩歌をつくる遊興である。
御三間(おみま)
盂蘭盆など の年中行事の他、明治天皇が幼少の頃は、この部屋で「お手習」 が行われ、
盂蘭盆など の年中行事の他、明治天皇が幼少の頃は、この部屋で「お手習」 が行われ、
また明治天皇は孝明天 皇が崩御されてからしばらくの間、御常御殿代として使われ た。
御台所跡 庭園
御台所跡 庭園ぷらっとこだま
京都発12:10ー15:48東京着(予定)
途中で架線に物が引っ掛かり停電させて点検したため約10分遅れて東京駅に着いた。
東京駅16:04ーー(JR中央線快速青梅行き)ーー17:13拝島駅
拝島駅17:28ーー(JR武蔵五日市線)ーー17:37秋川駅~~17:50自宅