2025年3月7日金曜日

エジプト10日間

2025年2月22日(土)~3月3日(月)

友人と一緒に「カタール航空利用」はじめてのエジプト10日間(コース番号Y2819)に参加した。
この旅はクラブツーリズム株式会社主催のものである。
参加者は5組の夫婦、1組の母娘、個人1名、そして私たち2人の合計15名で、
その半数以上が教育関連の退職者であった。
皆さん和気あいあいとした雰囲気で、楽しく有意義な旅であった。
サッカラ にある ジェセル王のピラミッドにて 2月24日14:35
Sai,Nag,Nag,Ma,Sisi,Na,Fu,Fu,Yak,Mi,Mi,Nam,Nam,Ma,Sat,Sat

2月から3月にかけての旅行だったため、東京よりも暖かかったが、
朝夕はコートが必要なほどの寒さであった。

ナイル川沿いのピラミッドや宮殿の壮大さに圧倒された。
また、博物館の展示品の多さに驚き、短時間では見切れないと感じた。
ギザのピラミッド群 2月24日11:53
右からクフ王、カフラー王、メンカフラー王など9つのピラミッドが見渡せる丘からの展望
カルナック神殿の134本列柱 3月1日11:18
Sai, Fuj, Fuj, Sisi, Nak
エジプト・ヒッタイト平和条約  3月1日11:15
カルナック神殿のカシェ西側外壁に記されたエジプト文字の条約文
紀元前1269年頃にエジプト第19王朝とヒッタイトの間で調印された外交条約。
銀の条約とも呼ばれる。書面による明確な物証を伴った最初の平和条約である。

紀元前1285年頃のカデシュの戦いから16年後に、エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世の間で正式に結ばれた。エジプト版は、和平を求めたのはヒッタイトの王であったと記されており、ヒッタイト版では、使者を送ってきたのはラムセス2世だったと書かれている点で相違が見られる。

カデシュの戦いの主な原因は、エジプト新王国とヒッタイト帝国がシリア・パレスティナ地方の支配権を巡って争ったことにある。
この地域は交易ルートの要所であり、両国にとって経済的・戦略的に非常に重要であった。

一方で、ツタンカーメンの妻(アンケセナーメン)がヒッタイトの王子ザンナンザを迎え入れた後に暗殺された事件(紀元前1347年頃)は、カデシュの戦いとは直接的な関係がないとされている。この事件は、ツタンカーメンの死後のエジプト王位継承問題に関連しており、
カデシュの戦いよりも以前の出来事である。

カデシュの戦いでは、両軍とも勝利を主張したが引き分け状態で、不安定な状態が続いた。
条約文には神々への誓い・互いの勢力圏の策定・有事の際の相互援助・逃亡者が出た場合の送還規定などいくつかの条項が含まれており、神々に対する一連の呼びかけと、条約を破った人間に対する呪い、そして条約が有効である間、全ての人々へのあらゆる幸福を祈願する言葉で締めくくられている。神々の召喚の下になされた条約を破ることは、神の律法に背くことと同意義であった。
条約が結ばれた後、その取り決めは尊重され、それ以来、両国間で多くの交易が行われるようになった。エジプトの建築家がヒッタイトの宮廷に招かれ、青銅器を用いていたエジプトでは鉄器が扱われるようになった。
その後、ラムセス2世の治世34年目に対応する紀元前1256年、ファラオとヒッタイト王は婚姻をもって条約を統合した。ハットゥシリ3世の娘がラムセス2世の妃としてエジプトに送られ、マーホル・ネフェル・ラーの名前で偉大なる王の妻となった。エジプトとヒッタイトは、ヒッタイトが「海の民」によって滅ぼされる紀元前1190年までの間、平和を維持した。
ヒッタイトの楔形文字(ヒッタイト-アッカド語)で条約文が記された粘土板
(ベルリン新博物館蔵)
1970年9月24日に粘土板のレプリカがトルコ共和国政府から国際連合に寄贈され、
現在、レプリカはニューヨークにある安全保障理事会会議室北側の入り口に展示されている。

エジプト考古学博物館
エジプト考古学博物館に展示されていた「ツタンカーメン王の黄金のマスク」を
真近でゆっくり見た際、その素晴らしさに感動し、時価が300兆円と言われて驚いた。
ツタンカーメン王の黄金のマスク
エジプト考古学博物館にて撮影禁止のためHPから引用
引用:
ツタンカーメンはエジプト第18王朝(紀元前1550〜1295年頃)に生まれた。
ツタンカーメンが王位に就くまでの数年間、エジプトは大混乱のさなかにあった。
ツタンカーメンの父とされるアメンホテプ4世は、自身の文化の神々に背を向け、
太陽神アテンを崇拝するようになった。
アメンホテプ4世は新しい神に敬意を表し、自身の名前をアクエンアテンに変え、
息子は「アテンの生き写し」を意味するツタンカーテン(トゥトアンクアテン)と名付けた。
しかし、紀元前1336年ごろ、アクエンアテン王が即位約17年で死去し、
8歳~9歳のツタンカーテンが王位を継承した。
少年王は王国の伝統に立ち返り、多くの神を復活させるとともに、新しい神殿を建造した。
また、大気の神「アメンの生き写し」を意味するツタンカーメン(トゥトアンクアメン)に改名した。
さらに、古代の太陽神ラーにちなんで、ネブケペルウラーという即位名を名乗った。
そして、アクエンアテンと王妃ネフェルティティの娘であるアンケセナーメンと結婚した。
二人の間に子どもはいなかったと考えられているが、ツタンカーメンの墓から発見された
胎児のミイラ2体は、死産だった彼らの娘である可能性が高い。
ツタンカーメンは8歳~9歳の時に即位したが内政は親戚関係にある大臣であり、最終的に後継者となる宰相(摂政)アイ、外政においては将軍ホルエムヘブに握られていた。
王妃は異母姉のアンケセナーメンであった。
彼は9年 (10年)の治世、16 ~19歳 (18歳)の若さで亡くなった。

1922年にハワード・カーターが、彼のパトロンであるカーナヴォン伯ジョージ・ハーバートによる資金援助で行われた発掘調査にて、ほぼ無傷なツタンカーメンの墓を発見し、世界中の注目を浴びたことでツタンカーメンは非常に有名になった。
5,000点以上の遺物が出土したことで古代エジプトへの関心が再び高まり、現在カイロ博物館に所蔵されているツタンカーメンのマスクは、今でも同館のシンボルの一つとなっている。

ルクソールにある王家の谷のツタンカーメン王の墓やセティ1世の墓の壁画は、
約3,300年以上経っても色鮮やかに残っていて驚いた。
ツタンカーメン王の玄室の北壁の壁画、棺 2月28日6:32
右側の2人:
オシリス神の姿をした人物(ツタンカーメン王)の前で、ヒョウの毛皮をまとった人物(ツタンカーメンの次に王位についたアイ王)が、手に持っているのは手斧で、これはミイラの口開けの儀式をしている。ミイラとなった王があの世でも口をきいたり、呼吸ができたり、食べ物を食べたり、ものが見えたりするように、ミイラのあちこちを手斧で開くような儀式といわれている。ツタンカーメンが亡くなった時に、すでに次の王が決定していた。
<ツタンカーメンの上の文章>
 良き神、2国の主、王冠の主、上下エジプト王「ネブケペルウラー」、生命を与えられし者。太陽の息子「トゥトアンクアメン・上エジプトヘリオポリスの支配者」永遠に。
<アイの文章>
 良き神、2国の主、儀式を行う主、上下エジプト王「ケペルウラー」、太陽の息子「アイ・神の父」永遠・永久に太陽のような生命を与えられし者。

中央の2人:





ツタンカーメン王の玄室の壁画 2月28日6:32

ツタンカーメン王の玄室の壁画 2月28日6:32






セティ1世王の墓の壁画・ANUBIS神 2月28日6:32
オプションツアー24,000円(4名参加)

アスワンハイダム建設で水没するアブシンベル神殿をユネスコが救ったおかげで
素晴らしい遺跡を見ることができてとても嬉しかった。
ライトアップされたアブシンベル神殿 2月25日19:13
4体のラムセス2世像
大エジプト博物館 3月2日9:13
プレオープン中(12展示室オープン)、2025年7月3日全面オープン予定
エジプト・日本「友好モニュメント」 3月2日9:01
開館を祝う友好のシンボルとして作られた碑に6000人を超える人々の名前が刻まれている。
総建設費約:10億ドル1,500億円
日本のODA(政府間開発援助)プロジェクト エジプト有償資金協力
842.47億円
大エジプト博物館建設計画(第一期)348.38億円(1.5%)H18年度
大エジプト博物館建設計画(第二期)494.09億円(1.4%)H28年度
大エジプト博物館 3月2日8:57
エジプト有償資金協力したので日本語の表示もされている。(アラビア語、英語)

エジプトについて
エジプトでは乾燥した砂ぼこりの多い気候だったが、ほとんど快晴で風があり快適だった。国土の95%が砂漠のため、延々と続く道路からはナイル川周辺を除いて草木はほとんど見かけなかった。砂漠の所々に円形農園があり、散水してトウモロコシや穀類を栽培していた。

エジプトでは観光客はほとんどエジプトポンドを使わず、米ドルを使用していた。
米ドル札を使う際は、新札でないと受け取られず、
西暦2000年以前の米ドル札や使い古された米ドル札も受け取られなかった。
お釣りをもらうときは「ニュービル、ニュービル」と言って新札をもらう必要があった。
エジプトではチップをあまり要求されなかったが、代わりにボールペンを渡すことにした。

費用  総額:571,760円
旅行代金(2名1室)クラブツーリズム株式会社:478,000円
燃油サーチャージ不要/エコノミー利用/はじめてのエジプト10日間(コース番号:Y2819)
出発日:2025年2月22日(7泊10日)、2025年1月10日(金)申し込み
日本国内空港使用料(国際線):2,460円
空港税・空港使用料:18,630円
予約・発券システム使用料:6,840円
国際観光旅客税:1,000円
旅客保安サービス料:700円
オプションツアー(2月25日)イシス神殿観光:16,000円
オプションツアー(2月28日)セティ1世(ラムセス2世像の父)王墓:24,000円
海外旅行保険(東京海上日動)被保険者証番号T1759232224:20,240円
国内交通費(JR、エアーポートBus往復):3,890円
持参品
リック荷物4.9kg、ショルダーバッグ1kg、US$145.0、€5.0、¥46,794、
カード(Rakuten,JP,Suica,DC, Priority,JAL)、パスポート、運転免許証、
スマートフォン(iPhone14Pro256GB)、常用薬(10日分)、ウエットティッシュ(3袋)
バッテリー・充電器(2個)、HDMIアダプター、HDMIケーブル(1.8m)、ボールペン16本

外貨両替
株式会社グリーンポート・エージェンシーGPA外貨両替専門店
(Travel Support GPA)
円貨→外貨 7,000円→US$45.00+133円(Rate Cash 152.61円/$  2025.02.22)
外貨→円貨 US$57.00→8,333円(Rate Cash 146.21円/$  2025.02.22)

エジプトポンドEPA 1.00E£⇔ 日本円JPY 2.92円  (2025.03.06)
エジプトポンドEPA 50.63E£ ⇔ アメリカドルUSD $1.00  (2025.03.06)

アメリカドルUSD $146.00(Ama$144+Hor$1*2枚) ⇔ 日本円JPY 22,630円
(Rate Cash 155.00円/$  2025.02.18)
(1924年発行の$50*1、$5*1、$2*1は紙幣計数機から除外された。
使い古しの$5*1枚、2000年以前の$2*3枚、$1*2枚は売店から受け取り拒否された。)

土産品
ANUBIS座像(エジプト文明博物館):US$6.0 
EGYPT Playing Cards(10pcs)Egypt Air Duty Shops:US$7.0(US$3.0おまけ)
AlTahhan Dark Chocolate(3pcs)konouz :69.95E£*3=209.85E£
Dates SUKKARI 16833(2pcs):299.95E£+199.95E£=429.9E£

ビールについて
STELLAビール 2月23日18:46
Hotel Movenpick Media cityレストランにて

1988年にエジプトに行った友人推薦のとてもまずいSTELLAビールを先ず飲んでみた。
どのくらいのまずさを期待して飲みんたが、改良されたせいか皆さん美味しいと言っていた。
これ以後も飲み続けてた。





旅程

エジプト訪問地

1日目 2025年2月22日(土) 4,167歩 

秋川駅15:43=15:52拝島駅15:58=(奥多摩号4号車)=16:49東京駅17:20~
~(エアーポートBus)~18:25成田空港第2ターミナル・・
・・19:25北団体カウンター/クラブツーリズム・・
東京駅にて奥多摩号4号車(グリーン車) 16:50
グリーン車お試し期間:無料(2024.10.13~2025.3.14)
成田空港21:55カタール航空 (QR0807)  04:40乗継地ドーハ国際空港
ドーハ国際空港  05:12

2日目 2025年2月23日(日) 7,627歩

ドーハ国際空港・黄色い電球傘の熊(ランプ・ベアー・ 通称ブルーノ) 05:12
スイス人アーティスト「Urs Fischer」2005年作品
2011年、カタール王室の一員がクリスティーズ・ニューヨークのオークションで
680万ドル(約7億円)で購入した。
ドーハ空港08:05   カタール航空(QR1303) ✈ 10:55カイロ国際空港
~カイロ市内観光(ムハンマド・アリー・モスク、エジプト文明博物館など)~
19:00ギザ Hotel Movenpick Media city 夕食・宿泊
ムハンマド・アリー・モスク 13:35
ムハンマド・アリー・パシャ(在位1805-1848年)のもとに建設されたモスクである。
内壁面などにアラバスター(雪花石膏)が使用されているから「アラバスター・モスク」とも称される。シタデル(城塞)の西の一角にあるこのモスクは19世紀に建てられたトルコ・オスマン建築様式のモスクであり、エジプトで最も高い2基のミナレット(尖塔)を備える。
2017年から限定的に展示を開始していたが2021年4月4日、正式に開館した。
古代エジプト最強の女王を含む22人のファラオ(王18人、女王4人)のミイラが、
エジプト考古学博物館(Egyptian Museum)から車列によるパレードで移送された。
アクエンアテン(King Akhenaten)古代エジプト第18王朝 第10代ファラオ 16:31

強大な権力を有したアメン神官団に対抗するべく、唯一神アテンを主神に据え、
「宗教改革」を行い、同時にテーベより、現在のテル=エル=アマルナに位置し、
「アテンの地平線」の意味を持つアケトアテンへと遷都を行った

しかし、アテン神に傾倒するあまり国民の支持を失い、
またトトメス3世より維持してきたアジア植民地に注意を払わず、
治世末期にはエジプトは大きく領土を減らした。
アクエンアテン自身も後継者と定めたスメンクカーラーの死去後数年で亡くなり、
結果として次王ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の治世では
アテン神信仰からアメン神への信仰復興が行われた。

3日目 2025年2月24日(月) 11,713歩

世界遺産・ギザのピラミッド観光  クフ王のピラミッド 9:09
Hotel Movenpick Media city 8:00~9:00~ギザのピラミッド観光~スフインクス見学~
クフ王ピラミッドの大回廊 9:54
メンカフラー王のピラミッド 12:22
~9つのピラミッドが見える丘~11:00昼食(Galato Restaurant)~
スフインクス 12:52
~14:00世界遺産・サッカラの階段ピラミッド観光・メレルカの墓~
~19:00ギザ Hotel Movenpick Media city 夕食・宿泊

4日目 2025年2月25日(火) 9,409歩

Hotel Movenpick Media city 2:30~
カイロ国際空港5:30  エジプト航空(MS145)    6:55アスワン国際空港
(7:38アスワン・ハイ・ダム、ナセル湖、旧アスワンダム、8:28未完のオベリスク9:04)
アスワンハイダム建設碑を説明中の現地ガイド・Sisiさん 7:43
アスワンダムの建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保である。
しかし、1902年に作られたアスワン・ロウ・ダムだけでは力不足であったために、
当時のエジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領が、
ソビエト社会主義共和国連邦の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを
国家的事業として計画を立てた。

こうして1970年に新たに建設されたアスワン・ハイ・ダムは、
堤の高さが111 m、堤の全長が3600 mの巨大なロックフィルダムである。
アスワン・ハイ・ダムによって出現した、表面積5250 km2の巨大な人工の湖であるナセル湖の名は、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領の功績を讃えて命名されたものである。

アスワン・ハイ・ダムの完成によって、ナイル川の氾濫を防止すると共に、
12基の水力発電装置によって合計2.1 GWの電力が供給可能になった。
またダムにより出現したナセル湖から供給される水は、
不足がちだった農業用水を安定させ、周辺の砂漠の緑化も行われた。
さらに、ナセル湖での漁業は活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。
なお、今では、周辺の遺跡と共に、ダム付近は観光地ともなっている。

その一方で、ナイル川の生態系のバランスを破壊したなどの批判もある。
ナイル川が上流から運搬してくる土砂がダムによって遮られたために、
ダムの下流では河岸の侵食、さらに、ナイル川河口部の三角州への土砂の供給も減少し、
付近の海岸の侵食も起きている。また、そこに生息する生物にも影響が出ており、
一部地域では住民に寄生虫による病気を増加させた。
さらに、ナイル川の上流から運搬されてくる土砂がダム内に堆積することによって、
いずれダム湖が埋まるなどの問題も存在する。
エジプトが観光収入を得る観光資源ともなっている遺跡への悪影響も懸念されている。

アスワン観光・未完のオベリスク 8:35
古代エジプト時代の北採石場に残された加工途中の巨大なオベリスク、
「切りかけのオベリスク」とも呼ばれる。
おそらくカルナック神殿のオベリスクを補うため、
第18王朝5代目の「ハトシェプスト女王(紀元前 1508~1458年)」の命により作業。
完成すれば長さはおよそ 42メートル、重さ 1,200トンであったと推測される。

オベリスクの石工は、基盤から直接抜き出すように刻み始めたが、
花崗岩の中にひびが現れたため途中で放棄された。
オベリスクの底面は依然として基盤に付いたままになっている。
まだ石に鮮明に残る工具の跡と労働者がどこで作業をしていたかを示す黄土色の線によって
古代エジプトの珍しい石工技術を観察することができる。

ヌビア沙漠・約260km約3時間走行 9:42

~未完のオベリスク~ヌビア沙漠~12:28 昼食(Hotel Tuya Restaurant)~
~13:45アブシンベルSeti Abu Simbel Hotel休息~
~18:00世界遺産・アブ・シンベル宮殿「音と光のショー」観光~
19:15アブシンベルSeti Abu Simbel Hotel 夕食・宿泊

世界遺産・アブ・シンベル宮殿「音と光のショー」
アブ・シンベル大宮殿 19:13
青年期から壮年期までの4体のラムセス2世像が置かれている。
左から2体目の手前にある岩塊は2体目の頭部の一部。
アブ・シンベル小宮殿 19:09
2体のネフェルタリ像及び4体のラムセス2世像が交互に置かれている。

5日目 2025年2月26日(水) 11,824歩

Seti Abu Simbel Hotel 6:00~~6:10世界遺産・アブシンベル宮殿「日の出」観光~
アブ・シンベル大宮殿 6:10
アブ・シンベル大宮殿玄室 6:41
アブ・シンベル小宮殿 6:55
アブ・シンベル小宮殿・壁画 トト神 7:01
ナセル湖 7:08
エジプト南部からスーダン北部にある、アスワン・ハイ・ダムによってつくられた人造湖。
長さ550km、面積5,250 km²。最大貯水量157km³。
スーダン側では「ヌビア湖」と呼ばれる。

~朝食(Seti Abu Simbel Hotel) 11:51~香水店(KTPHI Perfumes)13:00~
~12:23昼食(クルーズ船Princess Sarah Ⅱ号)~
ナイル川・アスワン・クルーズ船接岸地 13:24
フィラエ神殿(Temple of Arsenophis) 15:34
以前コプト教徒が教会として使っていた。
イシス神殿 15:40
~15:00イシス神殿観光・ファルーカ乗船(オプションツアー)~
ファルーカ乗船 17:03
~17:37クルーズ船(Princess Sarah Ⅱ号)20:00夕食・宿泊
21:00ヌビアンショー、ガラベイヤ(民族衣装)パーティー開催21:30

6日目 2025年2月27日(木) 6,640歩

朝食・クルーズ船5:00~~8:00コムオンボ観光(コム・オンボ神殿、クロコダイル博物館など)10:00~~昼食(クルーズ船)~14:30エドフ・ホルス神殿観光~
プトレマイオス朝 時代(紀元前332-前32年 )に建設された、珍しい二重神殿である。
右側半分は、ハトホルやコンスとともに
豊穣と世界の創造の神であるワニの神セベクに捧げられた。
一方、神殿の左側の部分は、大ホルス (Horus the Elder) の別名で知られる
ハヤブサの神ハロエリスに捧げられている。
ワニのミイラ(THE CROCODILE MUSEUMにて) 8:09
クルーズ船Princess SARAⅡ号 8:24
エスナ水門通過  19:02
~17:00クルーズ船~エスナ水門通過~ルクソール
~20:00クルーズ船(Princess Sarah Ⅱ号)20:00夕食☆ガラベイヤパーティ・宿泊

7日目 2025年2月28日(金) 11,491歩

ラマダン期間始まり(2/28~3/29)
朝食・クルーズ船6:00~~ルクソール西岸観光(王家の谷)・ツタンカーメン王の墓KV62・
ラムセス9世王墓KV6・・ラムセス3世王墓KV11・・ラムセス4世王墓KV2~
ツタンカーメン王のミイラ 6:35
ツタンカーメン王玄室の壁画 6:39

ハトシェプスト女王葬祭殿~メムノンの巨像見学~
快晴で気温26℃、快適であった。
古代エジプト唯一人の女性ファラオ、ハトシェプストが造営した葬祭殿。
ハトシェプストの側近で建築家センムトが設計を行った。
後にトトメス3世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊を受けた。
1997年ルクソール事件
ハトシェプスト葬祭殿2階で1997年11月、イスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が外国人観光客に対し行った無差別殺傷テロで、日本人観光客10人を含む62人が死亡した。
亡くなった日本人のほとんどが日本からのツアーに参加した新婚旅行客だった。
その後、エジプトの検問が厳重になり、現在も入場するのに手荷物検査と身体の金属探知機による検査がある。観光地には銃を持った警備員や銃を隠した私服の警備員があちこちに配置されている。
Mortuary Temple of Mentuhotep II 9:08
手前にはメンチュヘテプ2世の王墓メンチュヘテプ2世の王墓があり、
あわせて、デル・エル・バハリ(アラビア語で「北の修道院」の意味、
後にコプト正教会の教会として使われていたため)とも呼ばれている。

メムノンの巨像見学
ルクソールにあるメムノンの巨像 9:55
2体のアメンホテプ3世の像でギリシアの伝説、
トロイア戦争に登場するエチオピア王メムノーンに由来する。高さ約18m。
背後にアメンホテプ3世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。
その葬祭殿は第19王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため破壊した。
向かって右側の像は紀元前27年の地震によりヒビが入り、夜明けになると、おそらく温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していた。
メムノンの巨像にて 1988年12月29日撮影
友人のOri夫妻

~(オプションツアー)王家の谷・セティ1世王墓KV17・・
・・タウセルト女王・セトナクト王墓(第19王朝・第20王朝,KV14~
玄室の壁画
セティ1世王墓の壁画 10:40

~12:00昼食(クルーズ船)18:00~ルクソール神殿
古代エジプトにおいて「南の専用神殿」「南の後宮」とされた神殿であり、
アメン「自らの母親の雄牛なるアメン」に捧げられたアメン・カムテフ神殿であった。
カムテフ「自らの母親の雄牛」は、アメンと豊饒神ミンが習合した神の形容辞として
新王国時代(紀元前1550-1069年)以降に使われた。
この神はアメンエムオペ「オペトのアメン」とも称され、
神殿は「南のオペト(隔絶された場所)」とされた。

ルクソール神殿とカルナックのアメン大神殿とはスフィンクス参道で結ばれていた。
神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世の座像、
手前にはオベリスク(高さ25.00m)が1本立っている。
ルクソールのオベリスクは本来左右2本あったが、
右側の1本(高さ22.55m)は1819年、フランスに贈られてパリに運ばれ、
現在コンコルド広場にある。
スフインクス参道(約3km) 18:22
新王国(第18王朝-第20王朝)時代には毎年、アケト(氾濫季)の第2月にオペト祭が
約2-4週間にわたり行なわれ、カルナックのアメン大神殿より大神アメン(アメン・ラー)の神像がムト、コンスを伴い、儀式用の聖舟(バーク)に乗り、三柱神は3km余り離れた
南端のルクソールの神殿を往復した。

~20:15クルーズ船(Princess Sarah Ⅱ号)夕食・宿泊
20:50ベリーダンスショー、タンヌーラショー21:30

8日目 2025年3月1日(土) 9,739歩

8:30朝食・クルーズ船9:00~ルクソール東海岸観光(カルナック神殿群)~
11:00昼食()~カルトゥーシュ店~14:00ルクソール国際空港
ルクソール国際空港 16:00 カイロ航空(SEC055)    17:00カイロ国際航空 
~19:30 Pyramids Park Resort Cairo 夕食・宿泊
アメン大神殿複合体(1914年)
カルナック神殿群(2012年)

複合体の建造は、中王国時代紀元前2055-1650年)のセンウセルト1世紀元前1965-1920年頃)の統治中には始まり、残存する新王国時代からの建造物のほとんどがプトレマイオス朝紀元前332-32年)の時代からローマ支配時代(紀元前30-後395年)まで継続された。カルナック神殿複合体は、荒廃した神殿、祠堂(礼拝堂)、塔門(パイロン〈ピュロン)およびその他の建造物の膨大な構成からなる1平方キロメートル100ヘクタール)余りにおよぶ広大な古代宗教遺跡である

およそ4000年間、歴代の王が寄進して増改築を重ね拡張された巨大な複合体であり、
中心はアメン神(アモン、アムン、アメン・ラー、アムン・ラー)に捧げられた
アメン大神殿複合体(アメン・ラーの神域)となっている
カルナック神殿 第1塔門前と羊頭スフインクス参道 10:41
カルナック神殿群 ウィキペディアフリー百科事典より

9日目 2025年3月2日(日) 12,514歩

9730 朝食Pyramids Park Resort Cairo 8:30~大エジプト博物館
大エジプト博物館 ラムセス2世像 9:20
アクエンアテン王像 9:35
女神セルケット(土産品)大エジプト博物館売店にて 9:26

11:30昼食(R Hotel Tasty House Egypt)~13:30エジプト考古学博物館
下エジプトの赤色王冠を被ったクフ王像(象牙製の小座像) 13:03
古王国前半(紀元前2589年 - 紀元前2566年)エジプト第4王朝を統治した。
クフは第4王朝の第2代王であり、前王のスネフェルから王位を継承した。
古代エジプト第1王朝「ナルメルのパレット」(土産品) 13:56
1,340E£≒4,000円 エジプト考古学博物館にて 
カノポスの祠の女神セルケット(金メッキされた木)
ツタンカーメンの墓(紀元前1370~1352年頃)から出土した。
 女神セルケット(土産品) エジプト考古学博物館にて

エジプト考古学博物館~15:30ショッピングモール(Almaza)~16:30カイロ国際空港
カイロ国際空港にて 18:24
カイロ国際空港20:05 カタール航空(QR302)    00:05乗継地ドーハ国際空港 23:56

10日目 2025年3月3日(月) 6,396歩

ドーハ国際空港02:05 カタール航空(QR0806)   17:55成田空港 09:47(カタール時刻)
成田空港第2ターミナル・検疫・旅券・税関へ
  18:26
成田空港第2ターミナル19:06~(エアーポートBus)~20:28東京駅20:32~21:16立川駅21:19~21:32拝島駅~21:33夕食(いろり庵きらくそば)21:48
拝島駅・いろり庵きらくそば 21:33
夕食・かき揚げ天玉そば 560円 21:37
~拝島駅21:55~22:04秋川駅(ショルダーバッグ忘れ気付く)秋川駅22:34~22:41拝島駅(いろり庵きらくそば)拝島駅22:56~23:05秋川駅~(NBOX)~23:15自宅

リック荷物5.8kg、ショルダーバッグ1.2kg、US$142.0、€5.0、¥46,794、
カード(Rakuten,JP,Suica,DC, Priority,JAL)、パスポート、運転免許証