2017年11月18日土曜日

インド八大仏跡巡りと三大仏教美術館13日間

2017年11月6日(月)~18日(土)
株式会社ユーラシア旅行社
「インド八大仏跡巡りと三大仏教美術館13日間ツアー」

ガンジス川の夕日 


旅行費用:¥318,000
渡航手続手数料:¥5,940
査証代(インド):¥1,550
査証代(ネパール):¥3,000
査証写真代:¥1,620
海外旅行保険(AU損害保険会社)13日間、治療・救援費用5,000万円他:¥6,295
空港宅配便(株式会社JALABC)往復:¥4,490        
合計:¥340,895

成田・デリー便:Air India AI307便 11/6(Mon)11:30--18:00
デリー・コルカタ便:Air India AI022便 11/6(Mon)21:15--22:20
デリー・成田便:Air India AI306便 11/17(Fri)21:15--11/6(Mon) 8:00

申込日:2017年8月15日
参加者:9名 56歳から79歳までの定年者と夫婦、何度もインドに来ている方々
添乗員:椎野巴菜、26位の女性
現地ガイド:ARORA(アローラ)、シク教徒、67歳

八大仏跡:

1.生誕(ルンビニー)
2.成道(ブッタガヤー)
3.初転法輪(サールナート)
4.入滅(クシーナガル)
5.ラージギル(王舎城跡、竹林精舎跡
6.ヴァイシャーリー(広巌城跡)
7.サヘート・マヘート(祇園精舎跡・舎衛城跡)
8.サンカーシャ(仏陀が天界に3ヶ月間過ごし、亡くなった母に説法した後、  

         帝釈天と梵天と一緒に梯子から降りて来たという)




この「インド八大仏跡巡りと三大仏教美術館13日間ツアー」には、
下記の博物館、観光地、関連施設、ストゥーパ遺跡があった。

1.コルカタの「インド博物館」
2.サールナートの四獅子柱頭の博物館
3.パトナーの「ビハール博物館」
4.アグラの「マトゥラー考古学博物館」
5.デリーの「国立博物館」
6.ヒンドゥー教最大の聖地「ベナレス」
7.コルカタのマザー・テレサゆかりの「マザーハウス」
8.シク教のシタルナジ寺院
9.ヴィクトリア記念堂
10.サールナートの「ムルガンダクティ寺院」
11.ダメクストゥーパ遺跡群
12.ブッタガヤーの「マハーボディ寺院」
13.ナーランダ佛教大学跡
14.竹林精舎跡
15.鷲山(りょうじゅせん)
16.スジャータ村
17.尼蓮禅河(にれんぜんが)
18.パトナーの大ホール跡
19.レリックストゥーパ遺跡
20.アーナンダストゥーパ
21.アショーカ王石柱
22.世界最大級のケサリアストゥーパ
23.クッカルムッタ河
24.ニルヴァーナ寺院
25.ラマーバルストゥーパ
26.ティラウイラコット(ネパール側、インド側)
27.マヤデヴィ寺院
28.  ピプラハワ
29.  ガンワリア
30.祇園精舎「平和の鐘」
31.ガグラー河
32.ラウナウ市内
33.アグラの「タージマハール」


インド旅行メモ 

2017年11月6日(火曜
秋川駅(5:56)から成田、ニューデリー経由で約22.5時間掛かって、
やっと現地時間で午前1時にコルカタのホテルに着いた。

以下記載内容は、
株式会社ユーラシア旅行社店添乗員椎野巴菜(はな)さんの記録・日記
及びインターネット情報を参照している。

ブッダ(仏陀)の呼び名について
本来ブッダは「目覚めた人」という意味。
仏教の創始者であるブッダの本名は「ゴータマ・シッダールタ」である。
また、釈迦、釈尊とも呼ばれるが、釈迦とはブッダの出身である
サーキャ族のことで「力ある者」という意味。
釈尊は「釈迦牟尼世尊」の略。
このブログでは、ブッダの呼び名を適当にバラバラに使っている。


2017年11月7日(火曜
コルカタ市内観光

1.マザーハウス
1931年、マザーテレサはマケドニア・スコピエからカトリック教会の
修道女としてダージリンに赴いた。

1927年~1947年、カルカッタ(コルカタ)の聖マリア学院で地理と歴史を教えていた。
そこで貧しい人々のための活動のため路上で行く当てなく死んでゆく人の多さに驚き、
1950年カルカッタのスラム街に「神の愛の宣教者会」を設立した。
活動としてヒンドゥー教の廃寺院に「死を待つ人々の家」という
ホスピスや児童養護施設を開設していった。
1979年、ノーベル平和賞を受賞(受賞理由:長期間に渡る献身的な働きにより、
苦しみの中にいる人々に安息を持たらした)。
1980年、バーラト・ラトナ賞(インド国民に与えられる最高の賞)受賞。
1983年、エリザベス女王から優秀修道会賞受賞。
1996年、アメリカ名誉市民。1997年9月5日コルカタで87歳没。
マザーテレサ
雑踏するコルカタの市街地にある「マザーハウス」教会に
マザーテレサが寝泊まりしていた部屋やお墓を訪ねた。
マザーハウス

2階にあるマザーテレサの部屋

マザーテレサの寝室

マザーハウスでのミサ

2.シタルナジ寺院
コルカタ最古の1876年設立、豪華な大理石とモザイク、ステンドグラスで出来た
ジャイナ教のスタルナ寺院。
イギリス植民地時代に建てられた。
ジャイナ教:生物を殺さないようにするという厳しい宗教のため、
土の中にいる虫も殺してはいけないので農業も出来ない。
これにより商人になる人が多く裕福な人が多い。
ジャイナ教のスタルナ寺院

3.コルカタ市街地の喧騒
コルカタは狭い市街地に夜人口1200万人、昼人口1800万人、
物凄い雑踏で道路も交差点も車や人がいっぱい。
交通信号があっても無いように人や自転車、オートバイ、オートリキシャ、自動車、
人力車、荷車そして牛や豚、犬が動き回り、
くねくねと警笛をビービービーと鳴らして埃だらけの街を走り回っている。
無秩序のようで何かルールがある様に少しでも隙間が有れば我先にと割り込んでくる。
今、事故が起きないのが不思議!
何処からこんなに人が湧いてきているのか不思議!
コルカタ市街の渋滞

コルカタ市内の人出
何処からこんなに人が湧いてきているのか不思議!
オートリキシャの走り回る市街地と路面電車の線路
4.ヴィクトリア記念館
1902年、英国のヴィクトリア女王の死去後に記念としてモイダン公園に設立された。
ヴィクトリア女王の像は右手に杖(裁判の象徴)、左手に地球儀を持っていて全世界を
掌握しているとの意味がある。(株式会社ユーラシア旅行社の資料による)
ヴィクトリア女王の像とヴィクトリア記念堂
5.インド博物館
仏教三大博物館の一つ。1814年完成。コロニアル様式の建物。
多くの古い仏教関連のあるインド博物館を訪れた。
紀元前3世紀ごろのバールフットの塔門
バールフットの塔門 観音像

ギリシャ美術の影響を受けたガンダーラ美術の仏像
特徴としてギリシャ系の顔つき、髪や左ひざが出ている。
赤砂岩のマトゥラー美術の仏像は右ひざが出ている。

ギリシャ美術の影響を受けたガンダーラ美術の仏像
TARA 
6.ガンジス川散歩
ガンジス川のほとりにもたくさんの人がいて何をしているのか分からない、
ガンジス川の沐浴場で右手を川につけると少し生暖かく人肌を感じた。
ガンジス川の夕日がきれいだった。
ガンジス川の夕日を見て夜行列車に乗り込んだ。

沐浴するガート

ガンジス川の夕日 1990年に完成した橋
この地区はフーグリー地区と言われているのでフーグリー川とも呼ばれている。

7.コルカタからベナレスまで寝台夜行列車で移動
コルカタのハウラー駅から夜行列車は、例外的に定刻に出発してベナレスのムガールサライ駅にインドの時刻表より30分早く10時間で着いた。
コルカタ ハウラー駅

12311号寝台列車

左右2段式寝台列車 狭い車内

2017年11月8日(水曜)
ベナレス観光


1.ベナレスのムガールサライ駅に午前5時45分に着いた。
ムガールサライ駅

ムガールサライ駅

2.ムルガンダクティ寺院
ムルガンダクティ寺院
スリランカの僧侶・ダルマパーラが建立
お釈迦様の一生の壁画を描いたのは日本人画家・野生司香雪

3.サールナート(鹿野苑) 「初説法」ダメクストーパ遺跡

仏陀が6年間の苦行を辞めてブッダガヤで悟りを開いた後、
苦行を共にした仲間たちに真理を語ろうとこの地を訪ね、
初めて5人に説法(初転法輪)したところ。


ダメクストーパ遺跡 


ダメクストーパ遺跡にて

ダメクストゥーパ遺跡群

アショーカ石柱

プラークリット文字

その遺跡群に前3世紀のアショーカ石柱の柱頭4頭のインドライオンの石像が見つかり
インド国章になっていて、お札にも描かれている。
お札の左下隅に4頭のインドライオンの石像  右側:マハトマガンジー

サールナート 初めて説法(初転法輪)した場所
ダメクストゥーパ
4.CHAUKHANDI STUPA
CHAUKHANDI STUPA

5.
礼拝(プージャー)
夕方、ガンジス川の沐浴場で毎日ヒンドゥー教の礼拝(プージャー)があると言うので
オートバイリキシャ(3輪車)に乗って行った。

ホテルから沐浴場までのリキシャに乗る

ホテルと沐浴場はリキシャ(3輪車)で往復したが生きた心地がしない程の無謀運転で、
とても狭い道に人、犬、牛、バイク、自動車、乞食、飛び出した屋台のところを
カーレース並みの運転裁きで対向車線にも飛び込み警笛を常に鳴らしながら
暗くなった道を突っ込んでいく。

沐浴場の階段

礼拝(プージャー)
物凄い人出と野良牛の徘徊、階段に多くの牛糞が落ちていて大音響の音楽と沢山の鐘の連打そしてお祈りの言葉、炎の演出にびっくり。

礼拝(プージャー)


2017年11月9日(木曜)
ベナレスからブッダガヤへ

1.ガンジス川の沐浴風景
翌早朝、昨夜と同じガンジス川の沐浴風景をボートから見た。
ヒンドゥー教の聖地、ガンガーに日は登りヒンドゥー教の人は必ず一生に一度は、
ガンガーで沐浴し身を清める。
沐浴場のそばに火葬場が有り薪で遺体を数体燃やしていた。
その遺骨は、1年後にガンガーに流すのでヒンドゥー教には墓がない。
ガンガーで沐浴している人々のところを野良犬の死体もゴミも火葬場の焼いた炭も
願い事をした花灯篭も流れている。
ガンガーは人生そのもの全てを流している。
憲法では無くなったはずのカースト制による仕事の差、貧富の差、
そして宗教の違い、言語や文字の多さ、その中で皆今生きている。
彼らを見ていると生とは何か?生きる目標は?
寒くないから生きて行けるのか?努力は?
乞食や瞑想している人はその日暮らしなのか?
日本の水準に成るのはいつか?
全てを受け入れてインドの時間は、流れているように感じる。
仏陀の悟りとは何か?
足るを知るか?四苦八苦の解消はどうするのか?
煩悩が多く悟れないのが私なのか?ベナレスで感じたこと。

ガイドのアローラさんから素焼きの器に入ったマサラチャをご馳走になった。
右:ミルク入りマサラチャ
マサラチャ屋

ダーシュシュワメードガート(昨夜の沐浴場)からボートに乗った。
沐浴場、ボート乗り場
ボートに乗り込み

花灯籠売り

花灯籠

ダーシュシュワメードガート

ガンジス川沿いのガート(沐浴場)

現地ガイドアローラさんの説明

ペンション「久美子の家」

沐浴場で洗濯

ボートの船頭

ハリシュチャンドラガートの火葬場

南インドの人が多い沐浴場
「ガート」と呼ばれる沐浴場は、インダス川流域に約80か所ある。

インダス川流域に約80か所あるガートの一つ
ガンジス川南下

花灯籠に点火

ガンジス川に灯籠流し
ボートの上から購入していた花灯籠に火をつけて「無事に旅行が出来るように」と
願い事をしてガンジス川に流した。

ガート対岸で遺骨をガンジス川に流す
遺骨は約1年後に、ガンジス川に流される。
遺灰を流すと輪廻からの解脱が得られると信じられている。

ガンジス川を南下

ガンジス川のボートにて

古くから使われているマニカルニカーガートの火葬場
燃料の材木置き場
ガンジス川北上 マニカルニカーガート周辺

マニカルニカーガートの火葬場

マニカルニカーガートの火葬場周辺

ガンジス川の朝日 霧かスモッグで霞んでいる

ガンジス川に向かって瞑想している行者

ガンジス川で洗濯

ガンジス川岸に立ち朝日に向かって瞑想

沐浴する婦人たち
ガンジス川は川そのものが神格されていて、川で沐浴すれば全ての罪が清められ、
遺灰を流すと輪廻からの解脱が得られると信じられている。
修行中の行者?

新鮮な野菜がたくさん並んでいる

野良牛がうろうろ
牛はシヴァ神の乗る「ナンディン」で神聖な動物(乳白色の牡牛)
ダーシュシュワメードガート沐浴場周辺

野良牛がうろうろ

野良牛が道路を我が物顔にうろうろしている

我々を交通整理して歩きやすく案内している変わった聖人?


ガンジス川を北上して、ペンションを経営している「久美子の家」を見た。
そしてハリシュチャンドラガートの火葬場で
2基で火葬していて炎と煙が立ち上っていた。
折り返して南下して古くから使われているマニカルニカーガートでも火葬していた。
火葬場で燃やした後の灰や燃えカスはガンジス川に流される。
遺骨は約1年後に、同じくガンジス川に流される。


2.ブッダガヤ
お釈迦様が悟りを開いた地

ベナレスからブッダガヤへ275km

ベナレス駅周辺
ベナレス駅周辺
トイレ休憩 
女子はガソリンスタンドのトイレへ、男子は青空トイレ
バスが高速走行すると車内が電気マッサージ機のように振動する。
とてもうるさいのでノイズキャンセラーのヘッドホンを装着して音楽を聴く。
あちらこちらで道路拡幅工事中
ブッダガヤに到着
マハーボディ寺院参道
マハーボディ寺院入り口
ゴータマ・シッダルータは、BC463年ルンビニで王子として誕生した。
栄華と苦悩の少年時代を過ごす。
BC447年、結婚して男子が生まれる。後に仏陀の10大弟子になる。
BC434年、生老病死などの苦しみから解脱するため29歳で出家して苦行生活を送る
苦行林にて6年間の過酷な苦行するが、苦行では悟りを開くには至らないと考え、
飢え死寸前までに衰弱した身体で修行場の前正覚山から降りて尼蓮禅河で沐浴をして
木陰で休んでる居た。
樹木の聖者と思ったバラモンの娘(結婚して樹木に願いをかけて男の子が生まれた)が
お礼として痩せ細ったシッダルータ乳粥を喜捨して元気付けた。
その後、世界遺産になっているマハーボーディ寺院の背面にある
ピッパラ樹(後に悟りの樹を意味する菩提樹と呼ばれた)の所で7日間瞑想し
35歳(BG428年)で悟りを開いた。
シッダルータ王子は、「目覚めた人」を表す「仏陀」の名を授かった。
35歳から80歳まで布教活動を行った。
BC383年、クシナガルにて80歳で涅槃に入った。

仏陀の言葉(口伝で伝わっていた律・経・論)は、
BC100年ころに初期仏典スッタニパータに記された。

マハーボディ寺院
この寺院は紀元前3世紀ごろアショーカ王が建立したと言われている
マハーボディ寺院の本堂に金箔を貼った仏陀が鎮座していた。
中で写真を撮ることができないので外から大勢の人のいるところから
撮ったのでぼけてしまった。

マハーボディ寺院の裏側にお釈迦様が7日間瞑想した菩提樹
マハーボディ寺院の菩提樹
菩提樹の前で瞑想している
お釈迦様が瞑想していた場所(扉の内側)

菩提樹の前で大勢の人が瞑想している
初代の菩提樹はなくなり、スリランカかの寺から移植された
今の木は4代目と言われている
大勢の観光客が来ている

お釈迦様が各7日間瞑想した6か所は、①菩提樹の下、②本堂横の塔、
そして第3週目の菩提樹と塔を往復した回廊歩き、
④5色の光が差し込んだ池、⑤蓮池、
⑥ミャンマーの僧侶に髪の毛をあげたところ。
現在ミャンマーの標高1,100mのチャイティーヨー山のゴールデンロックの上の
パゴダに髪の毛が納められている。
瞑想していた僧侶
お釈迦様が沐浴したという場所
回廊南側からのマハーボディ寺院
ロイヤルレジデンシーホテルにて夕食

2017年11月10日(金曜)
ブッダガヤからナーランダ、ラージギル、2連泊のブッダガヤ

ブッダガヤからナーランダに向かう途中の街
ブッダガヤからナーランダに向かう途中の丘陵地

ブッダガヤからナーランダに向かう途中の農村
タイの仏教会がここに寺院を建立中
トイレが先に出来ていたのでここでトイレ休憩
寺院を建立中の敷地に現地の人々が集まっていた
タイから5日間のインド訪問出来ていた僧侶とSa氏

1.マガダ王国の城壁跡
マガダ王国城壁跡近くの鉄道
マガダ王国城壁跡
紀元前413年~紀元前395年、当時インド最大の鉄鉱石の産地
マガダ王国の首都はラージャグリハ(ラージギル・王舎城)
外輪山に囲まれた盆地の中にあった都市
ビンビサーラ王やアジャ―タシャト王が支配していた

2.ナーランダ佛教大学跡
ナーランダ佛教大学跡近くの村

ナーランダ佛教大学跡近くの村

ナーランダ佛教大学跡入口付近

ナーランダ佛教大学跡への参道
右側は現在発掘中
既存遺跡周辺を現在も発掘中
インドビハール州、ナーランダ中部にある427年に建てられた世界最古の大学跡
ナーランダとは「蓮のある場所」という意味

ナーランダ説明版

レンガ造りの僧院通路
レンガ造りの門

イスラム教徒に焼き払われた時の煤で黒くなった痕跡

僧院跡

僧院跡

僧院跡
僧院跡の仏龕に残る仏像

学生寮跡
僧院跡

ナーランダ佛教大学跡の中にある池

蓮ではなく水連が咲いていた
ナーランダとは「蓮のある場所」という意味

寺院跡 未発掘部がまだ多くある

学生寮跡
ナーランダは5世紀から12世紀にかけて仏教教学の最高学府であった。
7世紀には唐から玄奘三蔵が留学し、多数の仏典、仏像を持ち帰った。
当時の学生は1万人、教師は1500人いたという大規模な大学であった。
5つの寺院と10棟の僧院があった。
学生たちが生活していた部屋跡や厨房跡が残っていた。
5世紀、7世紀、9世紀の修復跡もあった。
また、12世紀にイスラム軍に侵攻され火災で黒く焼けたレンガも残っていた。

12世紀末、中央ビハールの密教の根本道場「オーダンタプリー寺院」が、
13世紀初頭に東部ビハールの「ヴィクラマシー大寺院」が、
ガスナ朝及びゴール朝のイスラム教徒に破壊され、仏像の顔は削られ、
各地で僧や尼が殺害され、1203年インドの地から仏教は、ほぼ滅亡した。
仏教の拠点を奪われた修行僧や僧たちは、経典をもってネパールやチベットに逃れた。
インドの仏教徒は、ヒンドゥー教に取り込まれていった。

仏教は仏陀の死後、アショーカ王の庇護の下で隆盛になった。
7世紀ごろ玄奘三蔵がナーランダ仏教僧院で学んだころは、
当時学生が1万人、教師が1500人にもなる学園都市であった。
しかし学問・教義ばかり専念し民衆を置き去りにして、
民衆の通過行事である葬儀等を行わなかったために
民衆は従来からあるヒンドゥー教に移っていった。
仏教を支援していた王族や資産家であるパトロンが離れていった。
(インド仏教で言う資産家を中国語に翻訳した時、「居士」とした。)
そんな時期にトルコからイスラム軍が侵入してきて、
民衆の抵抗の少ない仏教寺院を襲撃し略奪、
僧侶達も多く殺戮され仏教は急激に衰退していった。
1203年がインドでの仏教終焉の年。

3.ラージギル(王舎城) 釈尊修行の地、マガダ国の首都
ヴァイシャーリ(広巌城)での修行後
ラージギル(王舎城)に入り、
輪廻からの解脱について修行する。
マガダ国のビンビサーラ王は、若き求道者シッダールタに傾倒し、
後に仏法伝道の中心になった。

竹林精舎
カジャ 
インドで代表的なお菓子(小麦粉、砂糖の揚げ菓子)
アローラさんが購入して食べさせてくれた。
同じ店が多く並んでいる

竹林精舎近くの村

竹林精舎入り口

竹林精舎だから竹を植えたと言う

竹林精舎 沐浴池
ビンビサーラ王が、お釈迦様と1,000人の比丘に、この竹林の地を寄進し
カランダ長者が精舎を建てた。
仏教で初めての寺院、
ここで説法をしていた仏像が発掘された。
現在は何処にでもある公園のような風景、
ユーカリの木が池の周りに植えられていた。

竹林精舎の沐浴場
対岸からの風景
4.法華ホテルにて昼食
久しぶりの日本食 ゆで卵入りうどん

インド法華ホテルラージギル

インド法華ホテルラージギル

インド法華ホテルラージギル 守衛所

この観光バスに、ツアー客9人、添乗員1人、現地ガイド1人、
バス運転者、運転手助手1人、計13名乗車

5.霊鷲山(りょうじゅせん)
法華経が説かれた場所で、すぐ隣の山に日蓮宗のお寺がある。
ビンビサーラ王をはじめ多くの民衆がお釈迦様の説法を聞きにこの山を登ってきた。
山頂の岩が鷲が止まり天を仰いでいるように見えることから名付けられた。

霊鷲山近くの村

山頂まで徒歩で標高差400mを約20分登る。
登山道途中の展望台

山頂の説法場所 
登山道から望む

山頂の説法場所 仏教の旗

山頂から登山道を望む 約400m登った

山頂のお釈迦様が説法していた場所

リスがいた

山頂のお釈迦様が説法していた場所
黄金の仏陀が置かれている。

山頂の岩が鷲が止まり天を仰いでいるように見えることから名付けられた。
6.スジャータ村
スジャータ村周辺

スジャータを記念してストゥーパが建てられた

スジャータの説明
周辺は畑ばかり
苦行林にて6年間の過酷な苦行するが、苦行では悟りを開くには至らないと考え、
飢え死寸前までに衰弱した身体で修行場の前正覚山から降りて
尼蓮禅河(にれんぜんが・ネーランジャーラ河)で沐浴をして木陰で休んでる居た。

樹木の聖者と思ったバラモンの娘・
スジャータ(結婚して樹木に願いをかけて男の子が生まれた)がお礼として
痩せ細ったシッダルータ乳粥を喜捨して元気付けた。

その後、マハーボーディ寺院の背面にある
ピッパラ樹(後に悟りの樹を意味する菩提樹と呼ばれた)の所で
7日間瞑想し
紀元前428年12月8日、35歳のとき、明けの明星を見て悟りを開いた。

その悟りとは、われわれには本来「我」がない。
そしてすべてのものが絶えず変化する。
この事実を知らずに自分の「我」に固執し、
すべてのものが不変であると錯覚をおこす迷いの心が、
われわれを苦しめるのだと考えた。
だからこの我執から自分を解放する事が
苦を脱する道であると悟った。

駐車場等まだ未整備
近くの乞食が出入口に座って物乞いをしていた。

スジャータストゥーパ周辺の整備をしていた
レンガ塀の設置

修行していた前正覚山 霞んで見える(スジャータ村から)

7.尼蓮禅河(にれんぜんが・ネーランジャーラ河)
前正覚山から降りてきて尼蓮禅河で沐浴をした


悟りを開いたマハーボディ寺院(尼蓮禅河から)


8.ロイヤルレジデンシーホテル(THE ROYAL RESIDENCY)

インドの有名な歌手リヌさんが泊まっていたとか。
ライフル銃を持ったガードマンがたくさんいた。

禁酒法が制定されているビハール州にいる間は、
我々も3日間ビール等アルコールが飲めなかった。
ツアー客の1人は風邪気味で霊鷲山に登り翌日具合悪くなった。

禁酒法
インド・ビハール州は、禁酒法が制定されている4つの州の一つで
昨年4月より施行している。
アル中と暴力の抑止の為で外国人も対象になる。
罰則は、最高終身懲役刑及び100万ルピー(約180万円)である。
レストランでもホテルの部屋でも酒類は飲めない。

インド全州で飲酒運転撲滅の為、
主幹道路から500m以内は酒類の販売・飲酒が
今年の4月から施行された。

その為か他の州でもレストランで飲むビール1本が400ルピー(約720円)した。
高速道路に携帯電話禁止標識と飲酒禁止標識があるのには驚いた。

 
2017年11月11日(土曜)
ブッダガヤからパトナーへ 約100㎞の道のり

ブッダガヤ周辺

ブッダガヤ周辺 アパート建設中


1.パトナー
ビハール州の州都、マガダ王国のビンビサーラ王を幽閉した実の息子
アジャータシャトルが首都をラージギルからパトナーに移した。
釈迦の予言でこの地が繁栄するというのを実現しようとした。
そして紀元前3世紀からマウリヤ朝、4~5世紀のグプタ朝時代まで
パトナーは大都市として繁栄した。
大ホール公園でトイレ休憩






2.大ホール跡
約2300年前のアショーカ王が使用していた会議場跡
石柱説明パネル

石柱が80本発掘された場所は雑草に覆われていた。諸行無常。
発掘した石柱

パタリプトラ
Ancient Remains of Pataliputra
AROGYA VIHAR 

レンガが横積みになっているところは病院跡
今でも薬草が植えられている
3.チャナキヤホテル(HOTEL CHANAKYA)
昼頃チェックイン、添乗員は病人看護のためホテル待機
チャナキヤホテル 昼頃チェックイン

ホテルの部屋から

プルメリア
昼食後、ビハール博物館へ
4.ビハール博物館
今年(2017年)10月に開館
博物館の設計者は幕張メッセを設計した槇 文彦氏の株式会社槇総合計画事務所
パオナー博物館に展示されていた貴重なものが移されている。
大ホール跡から発掘された物やアショーカ王時代の素焼きの土器、
仏像等展示されていた。
ビハール博物館 駐車場からの通路

BIHAR MUSEUM
ビハール博物館
ビハール博物館 水の流れ 滝

中庭

ビハール博物館

Didargangj Yakshi
ジアールガンジ・チャウリ・ベアラーの女性像
ビハール博物館の秘宝・スターアトラクション
2000年~2300年前の女性像、Made of Chunar sandstone
Didarganj Patna Cityで発掘
Ghulam Rasulは、Didarganj近くの川沿いの堤防から底を突き出しているに泥だらけの物を見つけ、その後、地面を掘り出して彫像を発見した。
1917年10月20日、村人が蛇を追っていった先の土中から出てきたという話もある。
ミロのビーナスに匹敵する
Didargangj Yakshi
古代インドの女性らしさの美しさを完璧に体現している。
彼女の姿は、完全なバスト、腰の細い、ヒップの幅広で魅力的である。



Didargangj Yakshi
ヤクシは立って立っているのではなく、少し前方を歩き、謙虚な態度を求めている



Didargangj Yakshi

ガンダーラ様式の仏像

TARA

仏陀




仏陀とその弟子たち

青銅製法輪等



























ビハール博物館にて
5.チャナキヤホテル(HOTEL CHANAKYA)
旅行中は、色々なことが起る。
2-3日前からツアー客の1人は風邪気味に成り、食欲不振で体調が良くない状態が続き、
バスで狭い120kmの道を急停車したり上下左右に揺れての乗車と、
前日の風邪気味を無理して霊鷲山まで登山した疲れで、
今日昼ごろバスの中で高熱になり、
そして意識朦朧の状態で震えが出てきて歩けなくなった。
バスの中で日本の医院で貰った抗生物質を飲んだ。
トイレに行くのにパタリプトラの博物館で車椅子を借りた。
急病になったので昼ごろチャナキヤホテルにチェックインして、
ホテルの車椅子を使って部屋に行き寝かせた。
ホテルから直ぐに医者を呼んでもらい診察してもらった。
医者の診断は風邪による症状で入院は要らないとのことで解熱剤を処方していた。
解熱剤を飲み落ち着てきた。
医者は続けて抗生物質をを飲むことを言って帰った。
そして夕方、抗生物質とカロリー補給剤を飲んで寝た。
バスの中の出来事は記憶から消えて医者が来てからの記憶はあった。
明日の行動は翌朝の様子をみることにした。

ほぼ丸1日寝たら驚くほど回復して来ていた。
昨日は39度位の体温であったが翌朝は薬のお陰で約37度になった。
ホテル延泊や入院はしないことになりとりあえず途中帰国しないで休み休み
バス旅行をすることになり一安心した。
解熱剤と抗生物質を飲み続けて翌日のクシナガルでの観光は出来るようになった。

乾燥して埃っぽい空気とスモッグで、
のどの痛みから咳をする幾人かや下痢して食欲不振になったツアー客もいた。
N氏、頭が冷えると頭痛になるのでいつも頭の上にハンケチが手ぬぐいを載せて
食事をしていたので、シーク教徒の現地ガイドアローラさんが彼のターバンを貸してくれた。
にわかシーク教徒になった。(ターバンは後ほど頂いた)
2017年11月12日(日曜)
パトナーからクシナガルへ

パトナー RAJENDRA NAGAR TERMINAL
パトナー 鉄道

パトナー ごみ集積場


ヴァイシャーリまで70㎞、ガンジス川にかかる
インドで一番長い橋「マハトマガンジー橋」(全長5.75㎞、幅25m)を渡る。
1982年2月5日建設
橋のあちこちで工事中、片側通行で大渋滞していた。
世界で一番長い橋は中国の「丹陽昆山特大橋」164.8kmである。

パトナー側の橋の始まり

左側がガンジス川(船が見える)、工事で大渋滞
日本の寺が建てたパゴダ

ヴァイシャーリ周辺の市場
日本が建てたパゴダ
 1.レリックストゥーパ
アショーカ王によって仏舎利は周辺8カ国に分けられた。
このうちの一つがヴァイシャーリ国のレリックストゥーパに納められた。
ここの仏舎利はパトナー博物館に保管されている。
レリックストゥーパの保護屋根
レリックストゥーパ RELIC STUPA

レリックストゥーパ遺跡
祈の線香とロウソク


祈の線香とロウソク

2.アーナンダストゥーパと
アショーカ王石柱
アームラパーリという遊女がお釈迦様に寄進したマンゴー樹林に建てられたストゥーパ。
ストゥーパの周りには、柱頭部に獅子の像が載ったアショーカ王の石柱や
紀元前2世紀から紀元後5世紀頃までの僧院やストゥーパが残っている。
柱頭部に獅子は、お釈迦様が向かっていったクシナガルの方向を向いている。
アーナンダストゥーパ 入口
アーナンダストゥーパ と アショーカ王の石柱
アショーカ王の石柱

アーナンダストゥーパ と アショーカ王の石柱

アーナンダストゥーパ と アショーカ王の石柱
アショーカ王の石柱
KUTAGARSHALA
アーナンダストゥーパ
 3.ケサリアストゥーパ
ヴァイシャーリからさらに60㎞、ケサリアには世界でも最大級のストゥーパがある。
現在の発掘調査中、推定で直径で122m、高さ45mあったらしい。
1934年の地震で崩れた。
ストゥーパに仏龕(ぶつがん)がある珍しく独特な構造をしている。
ケサリアストゥーパ

ケサリアストゥーパ発掘敷地

ケサリアストゥーパ裏側 約半分未発掘


ケサリアストゥーパ 右側未発掘部分(樹木や草に覆われている)

4.クッカルムツ河
お釈迦様が最後に沐浴した場所。金色の仏像が見えた。
クッカルムツ河

クッカルムツ河 沐浴場

クッカルムツ河 仏陀像を安置している

5.ニルヴァーナ寺院

ニルヴァーナ寺院 入口
涅槃像
1956年に建てられた寺院で本堂内には、全長6.1mの涅槃像が安置されている。
この涅槃像はヒラニアヴァティ川で発見された。
見る角度によって表情が変わり、微笑み、考えている表情、
死人の顔に見えると言われている。
お釈迦様が涅槃に入られるときは、頭を北にして横たわった。
これは故郷カピラ城に足を向けられないからだそう。
説明を追加

仏陀に向かっている

悲しんでいる

観光に来ていたインドの娘

寺院跡
ニルヴァーナ寺院に向かって祈っている

仏舎利が保管されていたストゥーパ

道の向かい側に、お釈迦様が最後に説法をしたマタクアール寺院があった。
マタクアール寺院

マタクアール寺院の仏陀

マタクアール寺院 寺院遺跡
クシナガルは仏陀が80歳で入滅した所で、寄進された食物で体調を崩した。
2本の沙羅の樹の下で頭を北にし、右脇を下にして横たわり涅槃に入った。
最後の言葉は、「諸行無常、修行の完成、法を拠り所にせよ」であった。

人力三輪車の街宣車(大きな音で何かを言って走っていった)

6.ラマーバル
ストゥーパ
お釈迦様が入滅後、7日間礼拝が行われた後、火葬された。
火葬の場所がこのラマーバルストゥーパである。
そして舎利は8か国に分けられた。
ラマーバルストゥーパ 入口

ラマーバルストゥーパ 僧侶の説明を聞いている

ラマーバルストゥーパ

ラマーバルストゥーパの作業者?
夕日が真っ赤になりきれいだった。

お釈迦様が入滅後、7日間礼拝が行われた後、火葬された。
その後、そばの川(River Hiranyavati)で身体を洗い荼毘に付した。
Buddha Ghat  River Hiranyavati
Buddha Ghat

Buddha Ghat付近


Buddha Ghat 案内板

Buddha Ghatから仏陀を荼毘したラマーバルストゥーパを見る
仏陀が死亡した一説に毒キノコを食べた、他宗教から暗殺されたとかあるが定かでない。
仏陀が入滅した所にストーパがある。

7.ホテルロイヤルレジデンシー
どこのホテルもWi-Fiの通信速度が遅くなかなか繋がらない。



2017年11月13日(月曜)
クシナガルからインド・ネパール入国、ルンビニへ

距離100km

今日は、インドから国境を越えて仏陀誕生の地ネパールのルンビニに向かった。
相変わらずの混沌とした交通事情で歩行者や牛、自転車、オートバイ、自動車、
大型トラック、バスなどが狭いでこぼこ道を我先にと歩き走っている。
対向車線でも平気で走る。
マホガニー材の林

駐屯地

日常兵役訓練

通学の少女たち

朝の賑わい

バイクやオートリキシャで送迎

インド・ネパール国境
ネパール国境近くの大渋滞
左側:約15km手前からトラックの大行列
国境通過の手続きに時間がかかる。
右側対向車線は、相方向で通行している。



インド側出国管理事務所看板
知っている人でなければ見落としてしまう

インド側出国管理事務所
この国境は厳しくないので、ツアー客の手続き(パスポートに出国印)は、
現地ガイドと添乗員が行った。

インド側門

インド・ネパール国境緩衝地帯

インド・ネパール国境緩衝地帯
インド・ネパール国境緩衝地帯
現地の多くの人々はパスポート管理が無く行き来している。

ネパール側 AREA POLICE OFFICE BELAHIYA

ネパール側国境の町 BELAHIYA

ネパール側入国 国境駐車場 白い建物:公衆トイレ(10ルピー)

インド側門

ネパール側門

ネパール側国境の町 BELAHIYA


12:10 法華ホテル
昼食(日本食:うどん等)

ルンビニ 法華ホテル

マヤデヴィ寺院の門に似た建物?

田園風景 野焼き 大気汚染の元

田園風景 野焼き

交通事故 ネパールに入って我々の乗ったバスに
2人ずれの1人の若い男が飛び込み、バスの右前輪で轢かれた。

直ぐに警察官が来て現場検証もしないで、その人は病院に行き、
我々の乗ったバスは警察署まで連れていかれ約一時間以上足止めされた。
色々の話を聞くとわざと飛び込み補償金をもらうためだろうと言っていた。
バスは警察に保留されたため、他の3台の車に乗り換えて、
仏陀が生まれた場所のマヤ・デヴィ寺院に行った。
乗り込んできた警察官

乗り込んできた警察官

警察署の庭で、移動用自動車等の手配(アローラさんと椎野さん)

連れてこられた警察署
パイラワ付近かな?

連れてこられた警察署

約1時間以上待機

この建物は警察官の休息所かな?

昨日の事故の若者は亡くなった。
乗っていたバスに轢かれたて死んだので気分が沈む。
どんな理由でも死んだのは可愛そう。

交通事故の証人としては誰も出てこないそうである。
交通事故の証人として警察に連絡すると、
警察は「罪の意識で連絡してきた」とみて、
きつい尋問をするそうである。
面倒に巻き込まれたくないため負傷者を大勢の人が見ていても
助けないし証人にもならないで見て見ぬふりをするそうである。

バスの運転手は警察署の許可が出るまで、3日以上バスと一緒に保留になるという。
遺族との補償交渉が終了するまでネパールからインド(ベナレス)に戻れないという。
ネパール人の死亡補償は、約50万ルピー(約90万円)だそうだ。

警察署に全員連れていかれ1時間くらい保留された。
それから3台の車に分乗(1台は荷物と運転助手がホテルに直行)して
ティラウラコットやマヤ・デヴィ寺院を見学した。
翌日、3台の車でインド国境まで行き、そこで大型バスに乗り換えた。

今回の件は、飛び込みで無くても事故があってもおかしくない交通事情である。
日本と同じで、車は左側通行であるが、
私にはとてもインドやネパールでは危なくて運転できない。


ティラウラコット
ネパール側カピラバストゥ(Kapilvastu)城跡
お釈迦様の故郷、出家前の居城

ティラウラコット(Tilaurakt)は、お釈迦さまが出家する前、
シャカ族の皇太子ゴーダマ・シッダールタとして29歳まで 過ごした。
ネパール側カピラバストゥ(Kapilvastu)城跡の候補地とされている。
カピラバストウ城跡への狭い農道 
西門から入る。

ネパール側カピラバストウ城跡の説明板
ティラウラコットの遺跡がカピラバストゥ城であったかどうかは論争中である。 
インド領内のピプラハワもカピラバストゥ城の候補地である。

カピラバストウ城跡
お釈迦様の故郷、ネパール側の遺跡
450m×550mの敷地
西門、東門は発掘されているが、まだ未発掘場所が多い。
これらは紀元前2世紀以降のもので、
お釈迦さまの時代である紀元前5世紀の遺跡は、更にその下にある。

東南アジアからの僧侶たち

カピラバストウ城跡

カピラバストウ城跡にて

カピラバストウ城壁
幅2~3m、高さ8mほどあったらしい。

カピラバストウ城壁
東門付近
北門、南門はまだ木々の中に隠れている。

カピラバストウ城壁遺跡
お釈迦様の出家のきっかけとなった四門出遊の場所と考えられる。

東門付近
北門、南門はまだ木々の中に隠れている。

東門付近
お釈迦様は東門から愛馬・カンタカに乗って長い修行に出たと言う。
愛馬・カンタカが命を落としたのは東門から200mほど離れたところであったと言う。


ティラウラコットからマヤ・デヴィ寺院への途中の道にて

マヤ・デヴィ寺院付近

マヤ・デヴィ寺院
仏陀が生まれた場所、マヤ・デヴィ寺院に行った。
約2500年前に誕生。
ルンビニ遺跡公園
マヤ・デヴィ寺院への道
この建物は博物館らしい。

ルンビニ遺跡公園
「平和の火」
1.5㎞の運河、ハワラ川をせき止めた水を利用している。
運河の両側に各国の寺院が点在している。

ルンビニ遺跡公園
マヤ・デヴィ寺院への参道

仏陀生誕の伝説
生まれたブッダ(仏陀)をインドラ(帝釈天)とブラフマー(梵天)が抱きとめ、
竜王が産湯を注ぎ、天女が花と甘露の雨を降らせ、誕生を祝った。
ブッダはそのまま立ち上がり、7歩歩いて
天と地を指差し「天上天下唯我独尊」としゃべったという。


ルンビニ遺跡公園
マヤ・デヴィ寺院周辺の環濠池

マヤ・デヴィ寺院チケット売り場付近

マヤ・デヴィ寺院 17:10
1997年に世界遺産の登録
寺院内に仏陀が生まれた場所を記す石がある。

マヤ・デヴィ寺院(マーヤー聖堂)

アショーカ王の石柱とマヤ・デヴィ寺院

アショーカ王の石柱
1895年にドイツ人考古学者フューラーがここで偶然一本の石柱を発見した。
石柱に「ここでブッダ・シャカムニは生まれた」と記されていたことから、
それまで実在が疑われていたゴータマ・シッダルタの実在と生誕の地が実証された。

 ブッダ(仏陀)の母親マーヤー夫人摩耶夫人)は、
お産のために故郷へ帰る途中立でお産をした。
マーヤー夫人ブッダを産んで7日後に亡くなった。
代わってマーヤー夫人の妹であるマハープラジャーパティーが仏陀の養母となった。

アショーカ王の石柱
この地ルンビニに住む人々には税金を8分の1にするという碑文が彫られている。

根元に祠がある菩提樹

国連の開発・整備プロジェクトが1970年より始まり、開発プランが1978年に完成。マヤ・デヴィ寺院アショーカ王の石柱を中心とした円形の公園が整備されつつある。
紀元前3世紀半ばにインドを統一したアショーカ王は、この地を聖地に定め、
最初の寺院や石碑などを建てた。

遺跡は、紀元前3~7世紀ごろのものと考えられるレンガ造りの礎石
仏陀が生まれた場所を示す石があった。
建物の中のブッダが生まれたとされている場所は撮影禁止。

釈迦牟尼仏陀についての説明文


ルンビニ法華ホテル
ルンビニ法華ホテルは、1991年に日本の法華クラブによって設立され、
現在はインドのインパックという会社によって、経営されている。
17:45 ルンビニ法華ホテル到着 19:00夕食
21:30ルンビニ法華ホテルの和室で就寝

部屋の中に日蓮宗の仏壇があった。

2017年11月14日(火曜)
ルンビニからネパール出国、シュラバスティ(舎衛城)へ

事故のため大型観光バスがネパールの警察に保留されたため、
他の3台の車に分乗(1台は荷物と運転助手がホテルに直行)して
ネパールのティラウラコットやマヤ・デヴィ寺院を見学した。
早朝、その3台の車でインド国境まで行き別に手配した大型観光バスに乗り換えた。
午前6時、3台の車に分乗してホテルをインド国境に向かって早い出発
ネパールは1日だけの滞在
6:45 ネパール国境到着

ネパール・インド国境
ネパール出国手続き後、再びインドへ

インド側で待っていた観光バス

インド入国手続きに、300人近くの観光客が来ていたが何とか手続きを完了して
運転手のプラディープさんと助手のパプーさんと共に再出発。

7:00 3台の車はここで返却


1.ピプラハワ(カピラ城跡)
インド側のカピラバストウ城跡で広大な敷地にストゥーパや僧院跡が見つかった。
ストゥーパからは仏舎利が納められていた水晶の壺が見つかった。
現在、デリーの国立博物館に展示されている。

僧院跡からはカピラバストウと記された印章が見つかったことから、
ピプラハワのカピラバストウ説が注目されるようになった。
ネパール側のカピラバストウ城跡とインド側のカピラバストウ城跡は
近いので2つの地区は同じ地区内とも考えられる。

しかし、発掘調査の進んだ現在ではシッダールタ王子が過ごした釈迦族の都は
ネパールのティラウラコットで、
インドのピプラハワはカピラヴァストゥがコーサラ国に滅ぼされた後、
生き残った釈迦族が移り住んだ場所という説が有力となっている。
インド側のカピラバストウ



何という名の鳥かな?
広大なカピラバストウ城跡

ストゥーパから仏舎利が納められていた水晶の壺が見つかった。
現在、デリーの国立博物館に展示されている。

カピラバストウ城跡のストゥーパ(カピラ城跡)

カピラバストウ城跡のストゥーパにて
カピラバストウ城跡の蓮池

11月なのに多くのスイレンが咲いていた

カピラバストウの僧院跡
2.ガンワリア
カピラバストウの宮殿跡というが小さいので僧院跡かもしれない。
ガンワリア説明版

カピラバストウの宮殿跡

僧院跡 丸い囲いは井戸
僧院跡の中庭に井戸があり、地元の人がいて水を汲んで飲ませてくれる。
きれいな水であったが飲んで下痢するといけないので手を洗わせてもらった。

宮殿跡? 僧院跡(修行部屋がある)

添乗員・椎野さん、K氏、ガイド・アローラさん

ガンワリア僧院跡
3.昼食
王様の別荘を改築したホテルで昼食
ここに来るまでは細い田舎道で着いてびっくり!
こんなところにきれいな庭や建物がある!

この部屋で昼食

ここからシュラバスティまで約120㎞のガタガタ道を行く。
ダム
遠くまで田園風景

とこまでも真っ直ぐな鉄道

典型的な田舎の家

家の前で資材の露天商

あちこちで見かけるレンガ工場

低地で露出した電力用変圧器
接続端子は露出している

竹で支え露出した簡単な電線接続、感電の危険性大
低いほうが作業しやすいのかな?

中学生かな?高校生かな?

途中の町

鉄道は続く

市街地の露天商
4.サヘト(祇園精舎跡)

仏陀が24年間雨安居(うあんご)の時、説教した祇園精舎跡を訪ねた。
その他の時期には説法のため少数の弟子を連れてガンジス川流域の各地を訪れている。

正式名は、祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)である。
釈迦が弟子1000人に説法を行った場所で、
寺院は7階建て、1階と2階はレンガ、それ以上は木造であったという。
天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の1つである。

一帯は歴史公園に指定されている。
公園内には釈迦が説法を行った場所とされる香堂
(ガンダクティ Gandhakuti、釈迦が寝食を行っていたとされる場所)や
ストゥーパなどが残されている。
また園内には、仏教において二番目に尊いとされる菩提樹、「阿難菩提樹」がある。
祇園精舎は聖地の1つとして重要な位置を占めているが、
その中でもガンダクティが最も重要とされる。
サヘト(Sahet Sravasti)説明版

サヘト案内板
ブッダを中心とする教団の活動拠点となったのは祇園精舎
(コーサラ国の都シュラーヴァスティー,舎衛城)と
竹林精舎(マガダ国の都ラージャグリフ,王舎城)である。

祇園精舎跡

祇園精舎跡 見学学生たち

香堂
(ガンダクティ Gandhakuti)
「阿弥陀経」は、ここで説かれたと伝えられている。

祇園精舎跡

祇園精舎跡

祇園精舎跡 祈りをしている僧侶

歴史公園には多くの猿が居た。

阿難菩提樹
アナンダ(阿難)がスリランカから持ってきた菩提樹
この菩提樹は、仏陀の替わりとして多くの人が訪れていた。

阿難菩提樹

まだ未発掘の場所がある

祇園精舎跡 沐浴場

祇園精舎跡 僧院跡

名前の由来(ウィキペディアより)
梵語名は、「ジェータ太子の森(林)」 (祇陀林, Jetavana) と
身寄りのない者に施しをする」 Anāthapiṇḍada) を連記した名であり、
以下の由来による。

 スティーに、スダッタ(Sudatta 須達多)という富豪がいた。
身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者」あるいは
「給孤独長者」 (アナータピンディカ Anāthapiṇḍada) と呼ばれていた。

ある日、スダッタは、釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、
彼に説法のための寺院(精舎)を寄付しようと思い立った。
以前の仏教教団は一年中歩きまわって布教・托鉢などの修行(遊行)を行っていたが、
雨季での遊行は虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまうため、
雨季だけは建物内で修行するようになっていた(安居)が、
教団にふさわしい施設を欠いていたからである。

 そして見つかった土地が、
ジェータ(jetṛ、祇陀)太子の所有する園林(vana) であった。
その土地の譲渡を望むスダッタに対して、
ジェータ太子が
「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言った。
しかし、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、
ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し更に自らも樹木を寄付して、
寺院建設を援助した。

そのため、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して
祇樹給孤独園と呼ばれ、
そこに建てられた精舎を「ジェータ太子の森(漢訳で「祇陀樹」、略して「祇樹」)、
身寄りのない者に施しをする長者
(漢訳で「給孤独長者」、略して「給孤独」)の園林(園)にある精舎」と呼び、
漢訳では「祇樹給孤独園精舎」、略して「祇園精舎」と称するようになった。

5.マヘト(舎衛城跡)
サヘト(祇園精舎跡)からマヘト(舎衛城跡)へ行く道

マヘト(舎衛城跡)
スダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパ

マヘト(舎衛城跡)
スダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパ

マヘト(舎衛城跡)
スダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパから周辺を望む
北東500メートルの城壁に囲まれた一帯が舎衛城跡

マヘト(舎衛城跡)頂上にて
道路を挟んで2つの仏塔がある。
この場所はスダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパ、
向かい側にあるのは、アングリマーラの屋敷跡である。

アングリマーラの屋敷跡
アングリマーラの屋敷跡
アングリマーラの屋敷跡
「パッキワティ」と呼ばれ「大唐西遊記」に記録がある。

アングリマーラの伝記
アングリマーラ(アヒンサ)はバラモンの出身で、

マニー・ヴァードラ師に師事し四ヴェーダを学んでいた。
アングリマーラは力も強く智慧が優れ容姿も端麗であったという。
マニー・ヴァードラ師の妻が
師の留守の時、彼に恋慕し誘惑したが拒絶され
恥をかかされたことを恨んで、夫にアングリマーラに犯されそうになったと嘘をついた。
師は、優秀で目をかけていた弟子に裏切られたとがっかりし、

怒って普通のこととは逆のことを教えた。
それは「通りで出逢った人を順に百人を殺して、

その指で首飾りを作りるとお前の修行は完成する」と命じた。

アングリマーラは、そんな師の教えに驚き悩んだ末に、

師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。

99人を殺し、あと1人で100人になるというとき、
家で彼の帰りが遅いのを心配していた母親が、彼を迎えに行き
このままでは母親が100人目になって殺されてしまうのを

釈尊がアングリマーラの行状を比丘から聞いて知っていたので
その時を神通によって知り、その場へ駆けつけ、
アングリマーラ(指鬘:しまん)に説法し改心させた。
そして彼を祇園精舎に連れ帰り出家させた。
こうしてアングリマーラは、仏弟子となり苦行の末ついに悟りを開いたという。


2017年11月15日(水曜)
シュラバスティからサーンカシャへ
移動距離:約400km

6:30 ホテルロータスニッコー出発
1.祇園精舎の鐘
平家物語冒頭に詠われている祇園精舎の鐘

祇園精舎のの聲、諸行無常の響あり。
沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のをあらはす。
驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。
猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

祇園精舎の鐘
2004年、「日本国祇園精舎の鐘の会」が梵鐘と鐘楼を寄贈した。
本来、梵鐘は中国が起源で祇園精舎には鐘はなかった。
平家物語からあった方が良いと考えたそうである。
鐘を突いているT氏 良い音色がした。

2.シュラバスティからサーンカシャへ 約400km
UTTAR PRADESH州 シュラバスティからサーンカシャへ 

検問所

ガーグラー河(ガンジス川支流)

走っている列車の出入り口に乗客が座っている。 危険?

ラクナウ(Lucknow)市内

ラクナウ(Lucknow) ガソリンスタンドにて

ラクナウ市内
交通量が多く道路横断もハラハラドキドキ

昼食 屋外で弁当を食べる

牛達がのびのびと道路を横断している。

井戸で体を洗う村人

村の建物と竹塀

地方のガソリンスタンド

樹木を動物から守るレンガの囲い

何かを祀っている
あちこちにあるレンガ工場の1つ

小さな売店

牛と藁と牛糞燃料
牛糞燃料の乾燥

3.サーンカシャ
(僧伽舎)

八大仏跡は生誕(ルンビニ)、成道(ブッタ・ガヤー)、初転法輪(サールナート)、
入滅(クシナガラ)の四大仏跡に、精舎があったラジギール(王舎城)、
ヴァイシャーリー(広巌城)、サヘート・マヘート(祇園精舎・舎衛城)、
そして、サンカーシャを加えた場所である。

サンカーシャは、仏陀が亡くなった母に説教する為、
仏陀(ブッダ)が天空に3ヶ月間行って説法した後、
帝釈天(インドラ)と梵天(ブラフマー)と一緒に梯子から降りて来たという場所。
日本では胡散臭い話なのであまり伝わっていないようだ。

サンカーシャ(僧伽舎)

小高い丘がレンガを積み重ねたストゥーパ
サンカーシャ 菩提樹
かつては、この地で何千人の僧侶が学んでいたと玄奘三蔵は伝えている。

山頂へレンガ積の登り路

サンカーシャ山頂からの夕日

サンカーシャ山頂にて

サンカーシャ山頂にて 多くの僧侶達が祈っている
サンカーシャ山頂 
ストーパ跡には2つのヒンズー教の祠が建っている。

ヒンドゥー教の女神像
仏陀の養母であるマハー・パジャーパティの生まれ変わりという女神が祀られていて、
毒蛇から人々を守ってくれるのだそうだ。
サンカーシャ遺跡
まだまだ未調査部分が多い。
サンカーシャ警備用テント?
ヒンドゥー教徒が、この地にヒンドゥー教寺院を建てようとしているので、
裁判所の判決で、仏教遺跡であるこの場所での建設を保留にしている。
そのために勝手に
ヒンドゥー教寺院を造らないように24時間監視しているという。
アショーカ王の石柱の柱頭(象かな?獅子かな?)
仏陀が天空から降りるに従って、梯子は上から消えていったが、
最後の7段だけは消えずに残ったという。
そこに社を建て、更に、そこにアショカ王が石柱を建てた。
サンカーシャ伝説の社
サンカーシャ伝説
サンカーシャは、仏陀が亡くなった母に説教する為、
仏陀が天空に3ヶ月間行って説法した後、
帝釈天と梵天と一緒に梯子から降りて来たという場所。
梵天は銀の梯子を、帝釈天は銅の梯子を
仏陀は金ではなく宝石(水晶)の梯子を降りてきたという。
日本では胡散臭い話なのであまり伝わっていないようだ。

4.ロイヤルレジデンシーホテル
まだまだ元気!

2017年11月16日(木曜)
サーンカシャからアグラへ

約160㎞
これからまたバスに揺られて約4時間、アグラのタジマハールに行く。
空気が乾燥していて埃っぽいので9人中3人が喉の痛みと咳をしている。
私は至って元気。
 疲れと乾燥し埃っぽい空気で風邪を酷くして寝込んでいる人が何人かいる。
現地ガイドに薬局に風邪薬を買いに行ってもらっている。
あと2日だから体調に気をつける。
ロイヤルレジデンシーホテルの庭の花

ロイヤルレジデンシーホテル出発 7:00

サンカーシャ近くの仏教寺院

霧と雲と朝日

ガソリンスタンドの井戸
アローラさんと一緒に飲んでみた。
美味しかった。

マインブリあたりかな?

トイレ休憩

大丈夫かな? 慣れているのだろう。

満員のバス

大混雑の交通事情

混雑している街中

鉄道の荷物積み込み場

今回の旅で一番良いホテル
HOTEL JAYPEE PALACE
5つ星ホテル、池や水景設備のある美しい庭園を併設
ショッピングモール、トルコ式バス、大型屋外プールとアーユルヴェーダのスパを併設
HOTEL JAYPEE PALACE 12:30チェックイン、昼食

HOTEL JAYPEE PALACE ロビーにて
全員に花輪をかけてくれた。 

HOTEL JAYPEE PALACE 中庭
タジマハール
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、
1631年に死去した最愛の妻ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟
インド・イスラーム文化の代表的建築
タジマハールはムムターズ・マハルを縮めたもので「宮廷の冠」を意味する。

タジマハール参道入口 14:16
タジマハール参道入口からお墓まで距離があるのでオートリキシャに乗った。

オートリキシャ乗り場

馬車もある

タジマハールの参道

参道に猿が居た

子ザルもいた

チケット売り場へ

チケット売り場

チケット売り場
外国人1000ルピー、インド人40ルピー

セキュリティチェック
持ち込み禁止品案内板
食物、飴、ガム、菓子、飲料(水はOK)、大きな荷物、電卓、
筆記用具、ノート、たばこ、ライター、ハサミ、ナイフ、
そしてカメラの小型三脚も持ち込み禁止で事務所に預けてから行く。
インド人は大行列
外国人は高額の入場料を払っているので並ばないで入場できる。

大楼門 
赤砂岩で出来た門
高さ35m、コーランや幾何学模様が宝石によって描かれている。
この宝石はインド、中央アジア、スリランカから運ばれてきた。
門の上にはドームが22個、
これはタージマハール建設にかかった年月を記念して作られた。

タージマハールの大理石ドーム

大楼門
赤砂岩で出来た門
高さ35m、コーランや幾何学模様が宝石によって描かれている。
この宝石はインド、中央アジア、スリランカから運ばれてきた。

タージマハール
1631年に死去した最愛の妻ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟
 インドの有名な観光地タジマハール、平日なのに物凄い人出に驚いた。

墓廟を挟んで見える対象の建物は、
西側(右側)は聖地メッカの方向にあるのでモスクが建てられ、
東側(左側)は迎賓館が建てられた。

タージマハール
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、南インド征服に向かった際、
子供を宿っている最愛の妻ムムターズ・マハルも付いて行った。
14番目の子供を出産した後亡くなった。
王妃に先立たれたシャー・ジャハーンは深く悲しみ、生涯心が晴れなかったという。
その後、生前に王妃と約束
(後世に残る墓を所望、4人目の妻を娶らない)を
果たすためにタージマハールを建設した。

タージマハール建設によりシャー・ジャハーンは巨額の建設費を使ったため、
息子のアウランクゼーブにアグラ城に幽閉された。

皇帝シャー・ジャハーンは自分の墓廟としてヤムナー川対岸に
タージマハールと同じ形のものを
黒大理石で建設しようとしたが叶わなかった。

第5代皇帝シャー・ジャハーンは、王妃ムムターズ・マハルと一緒に
タージマハールで眠っている。

ムムターズ・マハル            シャー・ジャハーン
ウイキペディアより

大楼門
タージマハールから赤砂岩で出来た門を見る

北側にあるヤムナー川、前方約1㎞位にアグラ城がある。

修復工事中

高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)
地震対策で尖塔は外側に5度傾いて造られた。

墓廟入口
インド人は長蛇の列で入るのに待っている。
外国人は横から直ぐに入れる。

墓廟から赤砂岩で出来た門を望む

案内図

タージマハール出入口近くで観光バスを待つ

VISHAL MICA MART
HOTEL JAYPEE PALACEの近くのコンビニ
お菓子などのお土産を買った。

HOTEL JAYPEE PALACEにて夕食
夕食時にインドワインの注文する。
1本4,000ルピー(約7,200円)

HOTEL JAYPEE PALACEの部屋

2017年11月17日(金曜)
アグラからデリー、成田空港へ

HOTEL JAYPEE PALACE

HOTEL JAYPEE PALACEで朝食

乾燥して埃っぽいので散水車が出ていた

マトゥラー周辺

マトゥラー考古学博物館
マトゥラー美術の宝庫
マトゥラー考古学博物館(開館10:30)
早めに着いたのでまだ門が開いていなかった。

マトゥラー考古学博物館 前庭の仏陀象
紀元前3世紀から19世紀のものまで展示されている。
仏教関係の展示物は、
イギリスの考古学者アレクサンダー・カニンガクの調査によって発掘された。
1874年、仏像収集していたF.S.グロースが、この博物館を建設した。

釈迦涅槃の石板

ブッダの誕生から涅槃、およびサーンカシャ









仏像
マトゥラーの仏像は、赤砂岩に白斑点なので分かり易いのが特徴







苦行で痩せ細ったシッダルタ

マトゥラー考古学博物館 中庭
マトゥラーは、1世紀ごろから仏像が作られ始めた。
マトゥラーは、交通の便が良いため非常に栄えた。

マトゥラー市街にて

昼食 Radha Ashok

レストランの玄関に大きな犬がいた。


川を通過

デリーとアグラ間を結ぶヤムナ高速道路165㎞
一般道の混雑さとは打って変わってガラガラ
この高速道路は、中央政府の高速道路網整備が遅々として進まない中で、
UP州政府が進めているヤムナ川の東側地域を広域に開発するという
プロジェクトで建設したという。

コンセッションネアは、Jaypee Groupの特別目的会社のJaypee Infratech社。
コンセッショネアは、高速道路の建設及び運営を自己資金で実施する。
高速道路の建設に、約1,200億ルピーを投資した。
この投資と今後の高速道路の運営費、さらに土地のリース料を含めて、
今後の通行料金徴収で回収していく。
通行料金の決定権は州政府にある。
今回、乗用車については、1㎞当たり2.1ルピーで設定された。
中央政府の国道通行料金1㎞当たり0.65ルピーの約3倍になる。

高速道路料金所

荷物満載のトラック

YAMUNA高速道路での交通事故写真による安全運転展示

携帯電話禁止標識と禁酒標識

ヤムナ川の東側地域を広域に開発するという目的で、
UP州政府が進めているプロジェクト

クリケット競技場建設

MCD通行税

パゴダ

デリー周辺の城跡公園 16:04


デリー国立博物館





仏舎利
インド側カピラバスツウ城があったというピプラハワから
出土した水晶の壺に入っていた仏舎利(四角錐の中)
黄金の塔はタイから送られてきた。

ピプラハワから出土した水晶の壺

ピプラハワから出土した水晶の壺

仏舎利の前で瞑想する信者



デリー博物館の中庭




デリー空港にて 18:20
アローラさんとお別れ、椎野さんは日本まで一緒。
日本から持ってきた多くのインスタントラーメンと菓子類をあげた。
アローラさんの孫が日本のインスタントラーメンが大好きで、
アローラさんが帰宅すると「らーめんは?」ときいてくるとのこと。
プレゼントして喜ばれて嬉しい。

デリー空港
AI-306便 デリー出発 21:15
成田空港へ

2017年11月18日(土曜)
デリーから成田空港到着

8:10成田着
エアインディア AI-306便にて 約8時間

帰路も空港宅配便を利用する。
スーツケースなしで
成田空港から京成特急、日暮里乗り換えJR山手線、高田馬場乗り換え西武線、
拝島乗り換えJR青梅線、福生で昼食をして
午後2時、予定通り無事帰宅した。
スーツケース破損
外側がプラスチックなので割れていた。

インドエアーラインは取り扱いが荒っぽいのでスーツケースが3か所壊れた。
手荷物事故報告者作成の為成田空港で手間取った。
壊れたスーツケースは、AU損害保険株式会社の携行品損害にて処理している。

同行者のスーツケースも擦り傷が付いていた。

インド共和国とは

Republic of India
インドとは「インダス川」に由来する。インダス:サンスクリット語で大河を意味する。

国旗
オレンジ(サフラン)・ヒンドゥー教の伝統色、
緑・イスラム教の伝統色、
白・2大宗教勢力の融和の象徴と和解の精神

独立記念日:1947年8月15日(英国より独立)
面積:328万7,469平方キロメートル(パキスタン、中国との係争地を含む)
(世界第7位、総陸地の2.3%)日本の9倍
日本との時差:3時間30分
人口:13億12657万人(2017年)人口増加率17.68%、
世界人口:推定75億人(2017年)2100年推定世界人口:120億人、
インド推定16億人(2100年)
首都:ニューデリー(New Delhi)
民族:インド・アーリヤ族(74%)、ドラヴィダ族(24%)、オーストロ・アジア族、
シナ・チベット族、モンゴロイド族等
言語:ヒンディー語(連邦公用語)、英語(準公用語)
他に憲法で公認されている州の言語が21ある。
国勢調査で申告される方言等を含める言語の数は600以上になる。
実際の言語の数は約260になる。
英語は準公用語になっている。紙幣には15言語の文字が記されている。
宗教:ヒンドゥー教徒79.8%(バラモン教が土着の宗教と習合した)
イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.7%、
仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%(2011年)
識字率:74%(2011%)
教育:義務教育8年(就学率91%)、中等教育4年(就学率54%)
政治体制:連邦共和制、29州および7連邦直轄領、議会制民主主義、共和制、二院制(上院250議席、下院545議席、元首:ラーム・ナート・コーヴィンド大統領、首相:ナレンドラ・モディ(インド人民党)、初代首相:ジャワハルラール・ネルー
名目GDP:2.2兆ドル(2017年:世銀資料)、一人当たりGDP:1,709ドル(2017年)
GDP成長率:7.9%(2015年度:インド政府資料)
軍事力:予算 約480億ドル(2015年)(Military Balance 2016)、兵力 陸軍115万人、海軍5.8万人、空軍13万人、兵役:志願制、信頼できる最小限の核抑止力の保持、
核の先制不使用、非核保有国への核兵器不使用
為替レート:1ルピー=1.71円(2017年3月31日)
在留邦人数:8,655人(2015年10月)、在日インド人数:28,047人(2015年12月)
(法務省在留外国人統計)

平均寿命:66.21歳(2012年)
国際紛争地:ブータン西部ドクラム高地、カシミール地方
民族問題:アーリア民族のバラモン(5%)による特権の独占、
シュードラ(奴隷)を主体とする非バラモン運動(ドラヴィタ民族運動、タミル民族)、少数山間未開部族(8.17%)の運命
カースト制:根本法典「マヌ法典」アーリア人のヴェーダの宗教(バラモン教)の理念 、
四種姓を基本とする身分秩序・ヴァルナ制(カースト制)、混交(サンカラ)の厳禁、
人間は生まれ持った浄性、不浄性の程度によって
バラモン(祭官)、クシャトリア(王族、武人)、ヴァイシャ(庶民、商人)、シュードラ(奴隷)に分かれる。他に指定カースト(不可触民)として約16.2%存在する。
インドの国勢調査では、独立後70年間カースト別の人口調査をしていない。
現在のインド共和国憲法では、カースト制の存在は否定されている。
しかし差別意識として依然としてインド社会ではカースト制の影響は根強く残っている。
日本における部落差別、韓国における両班差別等、憲法上では廃止されていても実態としては根強く残っている。

インドについての見聞

1.インドの大気汚染
ニューデリーで大気汚染が深刻化していてバスの外へ出ると咳き込むことがあった。。
帰国した翌々日11月20日の朝日新聞にニューデリーの大気汚染が
「殺人大気」として報道されていた。
2017年11月20日(月)朝日新聞記事
PM2.5が北京の1.4倍で街がかすんで見える

2.濃霧による交通事故
帰国してテレビを見ましたら11月18日に通ってきたアグラ・ニューデリー間の
高速道路で濃霧ため10台以上の玉突き衝突事故が起きた報道をしていた。
11月ごろは風があまり吹かず、霧が出易い。
そして、収穫した後の藁などを燃やした煙と
自動車の排気ガスでスモッグになり易い状況にある。
濃霧による玉突き衝突事故 2017年11月18日

3.インドのトイレ事情
バスで移動中のトイレ休憩では、
女性はガソリンスタンドのトイレを利用できたが
男性は道端のオープントイレで行った。男女ともオープントイレの時もあった。

たくさんのインド人が道端で用をたしているのを見た。
都市では道路沿いに簡易オープントイレが設置されていた。
多くの人が集まるところでは、有料トイレがあった。(約10ルピー)
ホテルは水洗トイレが完備していた。
ガンジス川でも他の川でも排泄物まで全てのものがが流れてゆく。
2017年11月27日(月曜)朝日新聞記事
 人口13億人のうち約5億人がトイレのない家に暮らすインド。
多くの人が今も茂みや道端で用を足している。
衛生面の問題のほか、夜には犯罪に巻き込まれる危険もある。
上下水道の整備やヒンドゥー教のカースト制もからみ、解決は簡単ではない。

4.結婚
インドでは結婚に親の承諾が必要との事。
異教徒との結婚は、基本的にしないそうである。
もしヒンドゥー教、特にシーク教とイスラム教の男女が結婚しようとしたら、
家族か親族が相手の男を殺すか自分の娘を殺すかになり大問題になるそうだ。

インドでは70年前の独立後、カースト制は廃止になったが、
心情的に強く残っていてヒンドゥー教徒はカースト制の階層を越えて結婚しない。
もし反対を押し切って結婚しようとすれば駆け落ちしかないそうで、
以後家族間の付き合いは無くなり、都市部で2人で生きていかねばならない。

インドでは人口増加が激しいので政府は、ふたりっ子政策を実施している。
しかし、イスラム教徒は、多妻制の事もあり、ふたりっ子政策を無視している。

インドでも最近は離婚が増えている。
結婚の時は、嫁側が多額の持参金を相手の家族に渡す。
離婚の時は、嫁側が相手の男性の財産の殆どをもらう。

5.禁酒法
インド・ビハール州は、禁酒法が制定されている4つの州の一つで
2016年4月より施行している。
アル中と暴力の抑止の為で外国人も含まれる。
罰則は、最高終身懲役刑及び100万ルピー(約180万円)。
レストランでもホテルの部屋でもお酒は飲めない。
持ち込みも出来ない。
我々も3日間ビハール州滞在中、ビールやワインを飲めなかった。

インド全州(29州)で飲酒運転撲滅の為、
主幹道路から500m以内は酒類の販売・飲酒が2017年4月から施行された。
その為かレストランで飲むビール1本が400ルピー(約720円)する。

高速道路に携帯電話禁止標識と飲酒禁止標識があるのには驚いた。

携帯電話禁止標識と飲酒禁止標識

2015年、インドでの交通事故件数は50万1423件で
死者14万6133人、負傷者50万人だった。
1時間に16.7人交通事故死していることになり戦争で死ぬ人より多い。
2016年の日本の交通事故死は3,904人。

インドで交通事故件数が多いのは、劣悪な道路状況、車両の整備不良、無謀運転、
不十分な道路交通法などと運転免許証の30%は偽造だそうだ。
交通事故死を起こした運転手は、示談が成立しないと禁固7年になるそうである。

事故になってもおかしくない交通事情である。
日本と同じに車は左側通行だが、私にはとてもインドやネパールでは
危なくて運転できない。

5.貧富の差
インドは貧富の差が激しい所である。
中国の科挙試験みたいに大学入試は競争率300倍くらい。
卒業すればエリートコースが得られる。

6.水事情
他の水道蛇口からは飲水として使わないように旅行社から言われている。
歯磨きのうがい水もペットボトルの水を使うように言われている。
ホテルには必ずペットボトルの飲料水が置いてある。
しかし、現在は大きな駅や博物館には水道に大型浄水器が設置されていて
蛇口から直接、水が飲める。
大型浄水器付き流し
コルカタ ハウラー駅
あちらこちらに井戸の手動ポンプがある
現地ガイドのアローラさんの話だと、
地方の井戸水はしょっぱく無ければ飲んでも大丈夫と言うので
飲んでみたが下痢はしなかった。
井戸水で身体を洗う 生活水
携帯浄水器
持って行ったが使わずに持ち帰った。
コップに少し薬品を入れて1~2分後にこのストローで吸い込んで飲む

9.牛糞燃料
村の家で飼われている牛
牛のエサ作り
牛のエサ入れ

村の家で飼われている牛


牛糞燃料の牛糞と藁(わら)がある


牛糞とわらを混ぜて塀に張り付けて乾かす
この作業の9割は女性とのこと
牛は神聖なので両手を使って牛糞燃料作成作業する。

牛からの燃料の形は丸形や四角型がある

石炭も売っていた

10.レンガ工場
あちらこちらにレンガ工場がある。
インドでは木造草ぶきの家をレンガ積みの家に変えている。
素焼きレンガ工場
石炭を燃料に使っている。

レンガ工場
煙突の周りに溝が掘ってあり、中の島みたいなところに
レンガを焼く部屋が幾つも並んでいる。
部屋ごとに順番に焼いたり冷やしたりしてしてレンガを作る。
製作所が違うレンガ
まだ焼く前のレンガ置き場

インド八大仏跡巡りと三大仏教美術館13日間ブログ
以上