嘉峪関市
嘉峪関は、河西回廊が最も狭い谷を通る場所に関所がある。
甘肅省西北部に位置し、南は祁連山脈である。
銅鉱石や鉄鉱石(祁連山脈と反対側にある黒山で産する)精錬などの鉱工業都市でもある。
人口もどんどん増えて、新しいビルが建ち並び、さらに建設中の集合住宅が多い。
酒鋼という巨大企業の企業城下町になっている。
嘉峪関国際大酒店(宿泊した別館)
朝食( バイキング)
東湖公園 と 嘉峪関気象庁タワー
東湖 公園で早朝体操をしていた。
嘉峪関市街地
嘉峪関市街地 自動車も街路樹も多い。
嘉峪関郊外の製鉄所
嘉峪関鉄道踏切にて(観光バスから撮影)
嘉峪関
嘉峪関は嘉峪関市の南西6kmに位置する。
河西回廊西寄りの最も狭い谷にある関所。
嘉峪関の南7㎞、万里の長城の最西端の物見台、
万里長城第一墩(とん)が万里の長城の最西端、
討籟河(とうらいがわ)河幅200m高さ80mの岩壁に建つ。
嘉峪関 航空写真GoogleMap
最西端 天下第一雄関・嘉峪関
(最東端 天下第一関・山海関)
(最東端 天下第一関・山海関)
嘉峪関 水源を確保する目的の池
万里の長城-嘉峪関 石碑
嘉峪関 城楼内城
嘉峪関 劇台 八卦図、八仙図
嘉峪関 天井画
嘉峪関 城郭内
撃石燕鳴
小石で叩くと壁に共鳴しチィチィと聞こえる。
城楼には多くの燕が飛んでいる。
一個の煉瓦
嘉峪関を設計した「易開占」は、詳しく調査、計算してレンガ使用量99,999枚と提出した。
嘉峪関が完成したとき、だだの1個のレンガが残された。
苦労して建てた職人達を記念して、このレンガを会极門の楼に展示した。
と案内板に書いてある。
しかしガイドの話では、監督官が工賃を横取りするため
材料1個でも間違ったら工賃を払わないと言ったと言う。
嘉峪関は完成したがレンガが1枚余ったので城楼の上に置いた。
役人に見つかり問いただされた時、「易開占」の回答は、
「その煉瓦は神様が昨夜城固めの「定城煉瓦」として置くのを夢で見た。
取り除くと城は壊されてしまう」と言って難を逃れたという。
取り除くと城は壊されてしまう」と言って難を逃れたという。
どちらに話にしても当時の設計技術の高さを証明している。
南の祁連山脈方向に延びた万里の長城 (南北に延びている)
嘉峪関 内城
嘉峪関門 「西城門」とも言われる。 修復中
この門を出るとゴビ(沙漠)になる。
嘉峪関周辺(沙漠)をハンググライダーで見物できる。
砂漠を走り廻るバギー車もあった。
砂漠を走り廻るバギー車もあった。
嘉峪関上空を飛ぶモーターハンググライダー
嘉峪関内部
有料で大太鼓を叩かせてもらった。
嘉峪関の壁
黄土の日干し煉瓦による城壁(補強のためタマリスクが混ぜ込まれている)
黄土の日干し煉瓦による城壁(補強のためタマリスクが混ぜ込まれている)
左公楊
清時代の左宗棠将軍が130年前に植えたポプラ
清時代の左宗棠将軍が130年前に植えたポプラ
懸壁長城
懸壁長城 水門
懸壁長城 往路
懸壁長城
懸壁長城の復路(下山路)
炎天下で土木作業していた。
シルクロード・嘉峪関を経由した7名の歴史人物の彫刻が立っていた。
張騫、 玄奘三蔵、霍去病、マルコポーロ、班超、林則除、左宗棠
張騫(?~114年)
玄奘三蔵(602年~664年)
長城に登った後の冷えたスイカはとても美味しかった。
雪解け水で冷やしているスイカ
魏晋壁画墓
案内石碑
砂漠にある中央の小山が地下洞窟式墓 右側建物が出入口
墓の出入口建物 直ぐに地下道になる
周辺は砂漠
周辺には魏、晋の古墓がおよそ1000もある。
周辺には魏、晋の古墓がおよそ1000もある。
墓内に描かれている壁画
西安へ戻る
嘉峪関空港 14:12
嘉峪関空港 搭乗受付 14:24
嘉峪関空港発15:00 FM9202 西安空港着16:50
西安市街 19:13
西安市内で中国での最後の夕食 20:13
しゃぶしゃぶ料理(火鍋料理)
このとき疲労で食欲がなかった。
しゃぶしゃぶ料理(火鍋料理)
このとき疲労で食欲がなかった。
夕食後、6月8日深夜来たとき泊まった皇城豪門酒店に泊る。
そして帰国
皇城豪門酒店出発 午前5時50分
西安空港 6:35
西安から上海へ
西安発8:00 MU521 上海着9:50
上海空港 11:19
上海発12:00 MU521 成田着16:00
帰宅20:30
帰宅後、疲れで2~3日怠くて何もしたくなかった。
Se氏は風邪をひいて2~3日寝込んだ。
Ma氏は微熱があったが寝込んではいなかった。
Su氏は少し疲れた程度であった。
Ma氏は微熱があったが寝込んではいなかった。
Su氏は少し疲れた程度であった。