2020年3月8日日曜日

南インド2月21日~27日

2020年2月21日~27日
美しきまだ見ぬ楽園 南インド7日間
JTB旅物語(S986-70)
マドゥライ ミーナクシー寺院
カーニャクマリ コモリン岬 
宗教改革者ヴィヴェーカーナンダ記念堂と詩人ティルヴァヴァル像
アレッピー ベンバーナ湖 ハウスボート 夕日
コチ 南インドの伝統舞踊「カタカリ」

南インド周遊地図
JTB旅物語パンフレット
ANA e-Ticket

旅行費用 合計 191,730円
1.旅費                    146,210円
 内訳
基本旅費            129,800円
成田空港施設使用料       2,610円
海外空港諸税・サービス料等    800円
燃油サーチャージ       12,000円
国際観光旅客税        1,000円
2.海外旅行保険(t@biho)  8,540円
3.国内交通費等                  6,640円
 内訳
秋川駅-(JR)ー成田空港駅                   2,310円
立川ー(成田エクスプレス3号)ー成田空港 2,390円
成田空港ー(京成バス)ー東京駅八重洲口  1,000円
東京駅ー(JR)ー秋川駅             940円
4.オプション                    30,340円
  内訳
INDIAN e-VISA(US$25+2.5%ServiceFee)  2,870円
SIM (AIS SIM2Fly)4GB,8days                  1,520円
成田空港宅配QLライナー                           1,750円
Ayurveda(US$90)                                10,000円
ビール、ワイン、ラム、土産等                  14,200円
      Rate
1US$≒108.12円、1Rs≒1.50円 (2020.03.01)
5,000円=2,900Rs ( 1Rs≒1.724円) ガイド両替
50US$=3,000Rs (1Rs≒1.867円) ガイド両替
 すべてのインド通貨にガンジーの肖像画がある。

海外旅行保険 ジェイアイ傷害火災保険株式会社
India e-VISA  US$25.00

アジア24か国使用可能 SIMカード
4GB 8日間 \1,520

南インド
地理的な観点より、古くから、サトプラ山脈ンディヤ山脈の線より以南の、
デカン高原東ガーツ山脈西ガーツ山脈を含む地域は、「南」(サンスクリット語
ダクシナ ・デカン高原の「デカン」の語源)と呼ばれてきた。 
言語的にも文化的にも、南インドはドラヴィダ人の地として区別される傾向がある。
南インド分離主義者はドラヴィディスタンとされている。
南インドは広大な三角形の半島で、西にアラビア海、東にベンガル湾に面している。


南インド人
インドでは、使用言語と保持している生活文化との関連性が密接であるので、
民族の分類をする場合には単純に使用言語によって分けてしまう場合が多い。
それに従えば、南インドにはタミル人、テルグ人、マラヤーラム人などが居住している。その使用言語の多くがドラヴィダ語族に含まれるので、
大きくドラヴィダ人と分類することが一般的である。
ドラヴィダ人は、インダス文明の担い手でもあり、移住してきたアーリア人よりも
早くからインドに居住して、徐々にインドの南方へと追いやられて行きながらも
チョーラ朝などの下で隆盛し、イスラム教勢力の侵入を食い止めた人々、
という歴史的・政治的な側面が挙げられる。
一般的にドラヴィダ人はアーリア人に比べ肌の色が黒く、背が低い。

ンド文学においては、サンスクリット文学が入る前から存在した独自のタミル文学
保持し、ムルガン神信仰などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活などでも
独自のものを持っている。
タミル人をドラヴィダ人の代表、あるいはドラヴィダ人そのものと考える傾向がある。

経済

住民のほとんどがモンスーンに依存した農業を営む。
主な農作物は、蜀黍豆類・綿花唐辛子四国稗であり、
また数々の香辛料が栽培される。

ニーラギリ山地やコダグ地方では檳榔珈琲胡椒タピオカカルダモン
栽培されている。
南インド地域の教育水準は全体的に高いとされており、
特にケララ州は識字率98%を誇り、失業率もインド全土中最低である。
南インドではインドの全土のIT産業の7割があり、
バンガロール「インドのシリコンバレー」と呼ばれることがある。
チェンナイなどの都市がこれに続く。
南インドでは自動車産業も盛んであり、インド全土で生産される自動車、
バス、大型トラック、列車、自動二輪の50%が、
「南アジアのデトロイト」の異名を持つチェンナイで生産されている。

(ウイキペディアより抜粋)

インドで話されている言語

南インドは主にタミル語を使用している。
チェンナイの主要民族はタミル人であり、最も話されている言語はタミル語である。
南インドで用いられる言語は、ドラヴィダ語族に含まれる言語がほとんどを占める。
タミル語テルグ語カンナダ語マラヤーラム語トゥル語などがある。
タミル語は西暦紀元前後の言葉を収録したと考えられる比較的古い文献が伝わっており、
ドラヴィダ語族の起源であると考えられている古ドラヴィダ語に最も近いものであると
考えられている。
ドラヴィダ語族に属する言語を使用していたと学問的に認められているインダス文明



未解読文字を読み解く時にも、非常に重要な鍵となる言語であると見做されている。

ヒンドゥー教の成り立ち
1.インダス文明: 
  南インドあたりに住んでいる肌の黒いドラヴィダ人はインダス文明を築いた末裔で、
  土着信仰をしていた。
2.アーリア人の侵入
  BC1500頃、肌の白いアーリア人が北インドあたりに住み着いた。
  彼らは自分たちに都合の良いように肌の色と職業によって身分制度「カースト制度」
  を作り上げた。
3.バラモン教の成立
  バラモン(僧侶、宗教関係の偉人)
  クシャトリア(貴族、兵士)
  シュードラ(奴隷、上位のカーストに奉仕)
  その他(アウトカースト)
  身分や職業は世襲制にした。
4.ヴェーダの時代
  BC500頃、バラモンたちは神々を支配するパワーをもっているという「ヴェーダ」
  聖典を作った。「リグ・ヴェーダ」は現在でも重要な聖典になっている。
  「ヴェーダ」の神々は、天候とかを新格化した自然の神々である。
  バラモンたちは「ヴェーダ」を唱えて火を焚いて神々に祈った。
  形式的な決めことばかり多く民衆の心から離れて行った。
5.仏教、ジャイナ教の成立
  バラモン教が形式的な祭式ばかりになったとき、修行者たちが反対して新しい宗教
  ジャイナ教とか仏教を作った。仏教はバラモンばかりが権力を握ることを嫌った
  クシャトリアなどの王族に支持された。
6.ヒンドゥー教の成立
  AD500頃までは、仏教は隆盛であったが時間とともに土着の信仰を取り入れて密教化
  してくる。13世紀にイスラム教は入ってきて偶像崇拝を排除するため仏教寺院を
  破壊した。そして学問主体の仏教も民衆から見放されてインドから消滅した。
  同時期に、仏教に押されていたバラモン教も土着の信仰を取り込んで伸びて行った。
  バラモンの宗教や神話と地元の神々を同一視させたりしてバラモン教はインド宗教・
  ヒンドゥー教として復活した。仏教も最終的にはヒンドゥー教に取り込まれ、仏教は
  ヴィシュヌ紳の生まれ変わりとして登場する。
7.ヒンドゥー教の体系
  土着の蛇信仰や女神信仰を取り入れ、タントリズムという密教的な思想が色濃く
  入っている「シヴァ派」と土着のクリシュナやラーマが登場する叙事詩を主とした
  信仰を取り入れた「ヴィシュヌ派」に分かれて発展した。
  明確な創始者が居ない宗教なので、聖典も経典もバラバラ、内容もまちまち、神話も
  「どれも正しい」と思うこと、それがまかり通ってしまう考え方が基本にある。

  ヒンドゥー教は「キリスト教もイスラム教もインドの神も全部いっしょ」と考え、
  「神は本来一つでそれぞれが形を変えているのにすぎない」という考え方である。
  ヴィシュヌ神は10の化身を持ち、シヴァ神は奧さん共々二重人格者である。
  神が優しいときは恵みをくれるが、怖いときは殺される。
  これらは神というイメージが、いろいろな形で表に出てくるだけのこと。
  宗派によって考え方は異なるが、お互いに改宗させたり紛争を起こしたりしない。
  宗派に関係なく、神は同じという考え方である。
  現在のインドの80%以上はヒンドゥー教徒である。
  インドの大地に生まれ、ヒンドゥー教の家に生まれ、カーストの中で生き、
  毎日の生活、思想、規範、建築、音楽、道徳観、食生活など、すべてにおいて
  神々や神話と共に生きることが、ヒンドゥー教徒であるということなのであろう。
                         (天竺奇譚からの抜粋)

サフラン栽培
Saffron [ Dolly Gold ]  1g=\1500

サフラン
ギリシャ神話によると、ハンサムなクロッカスは美しいニンフスミアと恋に落ちた。
しかし、悲しいかな、彼の好意はスミラックスによって拒絶され、
彼は美しい紫色のクロッカスの花に変わった。

サフランクロッカスに由来するスパイスであるサフランは、

歴史を通じて世界で最も高価な物質として残った。

サフランの起源は、ギリシャ、トルコ、イラン、中央アジアなどの広大な地域にある。
サフランは紀元前500年頃にペルシャの支配者によってインドに持ち込まれた。

サフランの使用については、
クレオパトラや他のファラオによって芳香族的で魅惑的なエッセンスとして使用され、
寺院や神聖な場所でのブルートを作るために使用された。

古代ギリシャ人とローマ人は、香水や消臭剤としてサフランを使用した。
サフランの使用はローマ帝国では一般的であった。
皇帝ネロは、ローマの街へ入るときにはサフランを振りかけたと言われている。

中年期には、サフランはイギリスでよく知られるようになった。

伝説によると、エドワード3世の時代、巡礼者は中東からウォルデンの町に

棒の穴に隠されたサフランの球根を持って来たと言われている。

ウォルデンの町で球根が成長し町に繁栄を与えた。
しかし、長期的なサフラン栽培は、
北エセックスの排水のよいチョークベースの土壌でのみ生き残った。
サフランウォルデンのエセックスの町は、
サフランの成長と貿易センターとして有名になった。


14世紀以来、スペインは世界でサフランの高品質な輸出国となった。

過去には、スペインのサフランは大きな土地に栽培された。

1970年、約6000ヘクタールのサフランを栽培した世界最大のサフラン生産国であった。しかしその後、栽培面積の合計は100ヘクタール未満に減少した。

サフラン栽培の急速な減少にもかかわらず、
数百人のスペインの農民はこの労働集約的なコテージ産業を維持しいる。

一部の歴史家は、最初のサフランはイランであると言っている。
サフランは自生するイランの植物であり、その栽培は古代から存在したという。
栽培プロセスと消費は、イランから世界中に広く広がった。
南ホラサン地域は、イランのサフランの成長のための最も理想的な場所である。
歴史的な文書には、昔からイラン人がサフランの栽培と植え付けていたと示している。

イランの王がサフランの混合物で構成される香りの良い油で彼の体をこすっていた。
サフランベースの顔料は、現在のイラクで50,000年前の洞窟芸術で獣を描くために
使用される先史時代の塗料であるとされている。
サフランはヘブライ語で3000年以上前に甘い香りのスパイスとして記されている。

サフランが他のスパイスと共に、ペルシャの支配者を介して最初にインドに広がった。

古代ペルシャがカシミールを征服した後、ペルシャのサフランクロッカストウモロコシがカシミールの土壌に移植された。最初の収穫は紀元前500年以前であった。


マディアンティカというインド仏教宣教師は紀元前5世紀にカシミールに送られた。
彼はカシミールに最初のサフラン作物をまいたと伝えられている。
中国の医療専門家は、サフランの生息地はカシミールにあり、

人々は主に3世紀に仏陀にそれを提供するためにそれを栽培していると報告した。



現代では、サフラン栽培はアフガニスタンに広がっている。
サフランクロッカスの成長に最適な日当たりの良い半乾燥した気候があった。
アヘンの生産と共にアフガニスタンの農家の間でサフラン栽培が促進された。

すべてのインド人は、サフランがカシミールに迷い込んだ2人のスーフィー禁欲者、
クワジャ・マスード・ワリとシェイク・シャリフ・ウディン・ワリによって
カシミール地域に持ち込まれたというカシミール伝説を信じている。
感謝の祈りは、晩秋のサフラン収穫期に2人の聖人を提供されている。

しかし、サフランは2000年以上前からカシミールで栽培されている。
当時のカシミールタントリックヒンドゥー教の叙事詩は、
サフラン栽培についても言及している。
最大のサフラン生産国はイラン、スペイン、インド、ギリシャである。
サフラン輸入業者はドイツ、イタリア、アメリカ、スイス、英国、フランスなどである。


行程表