2022年5月19日(木曜)~24日(火曜) 5泊6日
奄美群島周辺は梅雨入りしていたので19日は晴、20日は風雨、21日は曇天、
22日は快晴、23日は曇天、24日は雨天であった。
天気予報の雨の日に博物館や資料館を見学した。
トカラ列島、奄美群島
奄美の旧石器・古代の主要遺跡分布
訪問島:奄美大島、加計呂麻島、喜界島
奄美大島は鹿児島から約380km、沖縄から約340㎞、鹿児島と沖縄のほぼ中間に位置する。
奄美大島ジオラマ
北部は平地でサトウキビ畑が多いが、
島全体が山岳地帯でリアス式地形、トンネルの多い道路が続く。
奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡の瀬戸内は波静か、潮流は朝夕変化する。
予定表
奄美大島の旅 日程表(5泊6日)
旅行費用:約80,000円/人 (4名)
(航空券、乗船券、宿泊費、見学料、カヌー代、食事酒代等含む)
内訳
・航空券&乗船券 計¥16,820+α
2022/5/19 成田空港10:10ー13:05奄美空港 Peach MM541(A320-200)
2022/5/20 古仁屋港08:10-08:30生間港 村営定期船
2022/5/20 生間港 13:30-13:50古仁屋港 海上タクシー
2022/5/22 奄美空港9:20ー9:40喜界空港 JAL3831(ATR42-600)
2022/5/22 喜界空港16:40ー17:00奄美空港 JAL3836(ATR42-600)
2022/5/24 奄美空港13:30ー15:35成田空港 Peach MM542(A320-200)
・電車・バス 計¥4,349
2022/5/19 福生駅06:49ー07:55東京駅 ¥814
2022/5/19 東京駅 08:20ー09:35成田空港 京成バス ¥1,300
2022/5/24 成田空港16:10ー17:15東京駅 JRバス ¥1,300
2022/5/24 東京駅17:32ー18:50秋川駅 ¥935
・レンタカー 計¥27,700+燃費約¥10,000 (4人で利用) ⇒9,425/人
奄美大島(6日間)、加計呂麻島(1日間)、喜界島(1日間)
・宿泊費(5泊) 計¥29,840
お宿ネプス、たつみ荘、奄美ポートタワーホテル、伝泊奄美、ホテルカレッタ
・食費(朝1、昼5、夕3、酒5) 計約¥20,000
主な遺跡等訪問先
1.国指定史跡 宇宿貝塚史跡公園
2.奄美市歴史民俗資料館
3.環境省 奄美野生生物保護センター
4.喜界町埋蔵文化財センター
5.喜界島・手久津久地区の遺跡群
6.NPO法人 喜界島サンゴ礁科学研究所
7.あやまる第2貝塚
8.城間トフル墓群
9.土浜イャンヤ洞穴遺跡
10.宇検村生涯学習センター(倉木崎海底遺跡)
11.奄美市立奄美博物館
12.安脚場戦跡公園
13.震洋艇格納壕跡
14.島尾敏雄文学碑公園
15.鹿児島県立 奄美図書館・島尾敏雄記念室
16.田中一村記念美術館(奄美パーク)
17.平家漁法跡
18.西郷南洲翁遺跡
観光地等訪問先
マングローブ原生林(カヌー体験)、ホノホシ海岸、ハートの見える風景、
嘉鉄海岸(ムラサキオカヤドカリ)、安脚場展望台、
「男はつらいよ・紅の花」撮影地(スリ浜、於斉)、諸鈍のデイゴ並木、実久海岸、
元気の出る館、湯湾岳展望台、奄美黒糖焼酎・奄美大島海運酒造、徳浜の断崖、
マレリアの滝、大和浜の群倉(ぼらくら)、大浜海浜公園、モダマの自生地、俊寛の墓、
手久津久のガジュマル、テーバルバン、シュガーロード、伊実久の滝、
喜界空港臨海公園・スギラビーチ、蒲生崎観光公園、ソテツのジャングル、土盛海岸、
大瀬海岸(野鳥)、奄美の郷、ハートロック、総合スーパー・特産品売場ビッグツー、
鶏飯、油ソーメン、モズクの天ぷら、クロマグロ(瀬戸内、近大飼育実験)
1.国指定史跡 宇宿貝塚史跡公園
国指定史跡(1986年10月7日)「宇宿貝塚」遺構展示公開保存施設
1933年(昭和8年)12月17日に発見された縄文時代中期から中世にいたる貝塚。
奄美群島の考古学研究の基礎を築いてきた奄美考古学発祥の地。
砂丘台地上に立地し、縄文時代、弥生時代、平安・鎌倉時代の3文化層が形成され
「宇宿下層式土器」「宇宿上層式土器」は南国の土器標識名になっている。
国指定史跡 宇宿貝塚
国指定史跡宇宿貝塚パンフレット
国指定史跡宇宿貝塚パンフレット
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
縄文時代の地層の面(手前)、一段上は中世の地層の面、奥は縄文時代の縦穴住居跡
地下約2mから発掘された約3000年前の縄文時代の縦穴住居跡
右側:中世の地層の面(地下約1m、約1000年前)
深鉢形土器 宇宿貝塚出土(1978年8月)
宇宿下層式土器
宇宿下層式土器
下層から出土する有紋土器(文様はカゴ目を編む文様)
宇宿上層式土器
上層から出土する無紋土器
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
スセン當式土器
奄美大島郡知名町スセン當貝塚出土土器、
奄美諸島の古墳時代並行期を代表する土器
宇宿貝塚史跡公園の説明員(奄美市役所教育委員会文化財課)
丁寧に分かり易く説明してくれた。
カムイヤキ
奄美群島徳之島で11世紀から14世紀にかけて作られていた陶器の名称。
考古学の文脈では「南島系陶質土器」とも呼ばれる。
1983年(昭和58年)徳之島伊仙町阿三の亀焼地区で溜池造成の工事中に窯跡が発見され、地元方言で甕や壷を「カムィ」、亀焼を「カムィヤキ」と発音することから
この陶器の名称に採用された。
2.奄美市歴史民俗資料館
奄美市歴史民俗資料館 パンフレットより
奄美市歴史民俗資料館がある「あやまる岬」から見た風景
ノジュウル(笠利町歴史民俗資料館入口に展示)
笠利半島の段丘面は、砂礫やラテライト質土壌で覆われている。
層のずれによって泥と鉄分が一か所に集まってできた球形の大きな塊。
奄美市歴史民俗資料館
奄美市歴史民俗資料館 パンフレットから
展示室
考古資料展示室と民俗資料展示室の常設展示室がある。
考古資料展示室では、「遺跡・遺物でたどる30,000年の歴史」と題し、
旧石器時代から中世までの出土資料を年代順に展示している。
民俗資料展示室では、戦前に使われていた民具や現在ではほとんど見ることができない
貴重な生活用具類を多数展示している。
奄美市笠利町には、奄美群島では最も多い約100か所の遺跡がある。
旧笠利町教育委員会が昭和40年代から文化財の資料収集を進めていた。
笠利町で行われた考古学的調査の発掘調査資料と記録を保管し展示している。
笠利半島の東海岸は、砂丘上のほとんどが遺跡 言っても過言ではない。
代表的な遺跡には、土器標識名にもなり,宇宿上層式・下層式土器で知られる
国指定遺跡宇宿貝塚や乳房状尖底土器・爪形文土器 が出土した宇宿高又遺跡、
洞窟遺跡のイヤンヤ洞窟遺跡などがある。
考古資料展示室
赤木名遺跡 出土品
爪型文土器(指頭押圧痕と爪痕を有する土器)深鉢の破片
喜子川遺跡出土 縄文早期末~前期(約7000年前)
壺形土器(弥生時代) 喜子川遺跡喜子川遺跡 出土品
概ね、海岸よりの新砂丘上には弥生時代からグスク時代に至る遺跡が多く,
山よりにある古砂丘上は縄文時代の遺跡が多い。
喜子川遺跡は1982年(昭和57年)に畑地総合開発事業で遺跡の断面が露出し発見された。
砂丘に遺物包含層があり、爪形文土器が発見された。
爪形文土器の出土する下層からアカホヤ火山灰層も確認されている。
1987年夏に第1次調査から1992年まで計7回調査を行っている。
調査後遺跡は笠利町が公有化し保存されている。
喜子川遺跡 出土品
辺留城遺跡 出土品
辺留グスクは、奄美大島の北に位置する奄美市笠利町の東海岸へ舌状に延びた
海抜約21mの小高い断崖の上に広げられる狭い地に築かれたグスクである。
サンゴ礁の板石壁と蓋石におおわれた古墳墓がある。
辺留グスク発掘調査は鹿児島県大島支庁土木課から委託を受けて笠利町教育委員会が
道路拡幅工事で辺留グスクの一部分が工事にかかるため記録保存と共に
辺留グスクに伴う民俗の記録保存も合わせて平成16年 から17年に発掘調査を行った。
辺留グスクは昭和46年に笠利町指定文化財に登録され文化財の保存と活用がなされてた。笠利地区 はグスクに伴う歴史や伝説が多く残る地区としても知られている。
江戸時代にはグスク下には琉球王府から薩摩藩に行政が移ってから
薩摩の奉行所も置かれ、ここに奄美大島全体をつかさどる奉行所が設置されていた。
辺留グスクは琉球王朝時代とも深いつながりがある。
もともと辺留の港は喜界島の湾港とともに、琉球国時代の主要港で盛んだった。
イヤンヤ洞穴遺跡 爪形文土器出土
深鉢 条痕文土器(貝殻による筋状の文様土器) 宇宿高又遺跡
大きなな土器の中に、同形でやや小さめの土器がはめ込まれていた。
宇宿高又遺跡は宇宿貝塚のそばの高又川近くに位置する遺跡
深鉢 条痕文土器 宇宿高又遺跡
深鉢 条痕文土器 宇宿高又遺跡
曽畑系土器(縄文時代前期) 宇宿高又遺跡
幾何学的な刻線が全面に施されている。
九州本土の曽畑系土器の影響を強く受けている。
面縄前庭式土器(縄文時代中期)
南西諸島の独自性の強い土器
集石遺構(蒸し焼き料理用礫) 万屋下山田遺跡(縄文時代後期)
集石遺構が7基見つかった。
万屋下山田遺跡(縄文時代後期)出土品
嘉徳1B式土器 土浜遺跡
面縄西洞式土器(縄文時代後期) サウチ遺跡
サウチ遺跡 出土品
サウチ遺跡は、笠利湾に突き出た打田原半島西岸の砂丘上に位置する
縄文時代後期末から古代並行期にかけての遺跡。
サウチ遺跡 出土品住居跡 サウチ遺跡
山形口縁土器(縄文時代後期) 宇宿小学校構内遺跡
口縁が方形で山形の突起があり、突起の先端と両縁には押圧沈線を施してある。
宇宿小学校構内遺跡 出土品
面縄西洞式土器(縄文時代後期~晩期) 宇宿小学校構内遺跡
宇宿小学校構内遺跡 出土品
宇宿小学校構内遺跡 出土品
掘立柱建物跡(縄文時代後期) 宇宿小学校構内遺跡
石組住居跡(縄文時代晩期) 宇宿小学校構内遺跡
宇宿小学校構内遺跡 出土品
骨製品
貝製品
オオツタノハ製腕輪 貝製品
ヤコウガイの出土 土盛マツノト遺跡
ヤコウガイは、先史時代からすでに食用として軟体部が利用されている。
土盛マツノト遺跡、用見崎遺跡、小湊フワガネク遺跡などといった6~8世紀の遺跡から
ヤコウガイが大量に出土している。
こうした大量出土の遺跡のほとんどは奄美大島北部に集中しているが、
その貝殻の量は先史時代の遺跡と比べ圧倒的に多いため
単なる食料残滓(ざんし)の廃棄とは考えにくく、
加えて貝殻集積の周辺部分より貝匙(かいさじ)の破片も出土していることから、
貝殻は原料確保としての集積の可能性が考えられる。
あるいは、平安時代以降、ヤコウガイは、螺鈿(らでん)や酒盃(しゅはい)などとして、日本本土で多く消費されているが、
その供給地としての役割をこれらの遺跡付近の地域が果たしていた。
マツノト遺跡 出土品
兼久式土器 マツノト遺跡(6~10世紀ごろ)
兼久式土器 マツノト遺跡(6~10世紀ごろ)
マツノト遺跡 出土品
マツノト遺跡 出土品
マツノト遺跡 出土品
土盛マツノト遺跡、喜子川遺跡
用見崎遺跡 出土品
用見崎遺跡発掘調査は、長島植物園の大規模開発に伴う植物園敷地内の文化財の
確認をするために笠利町教育委員会が行った。
この調査は平成 4年 12月 11日から平成 4年 12月 22日にかけて実施し、
小規模遺跡の全貌が奄美で初めて発掘調査によって明らかにされた。
安良川遺跡 出土品
7世紀前後の人々が生活を始めていた安良川遺跡は、昭和45年頃に発見された。
平成15年度から16年度まで文化庁と鹿児島県文化財課で発掘調査。
用集落は笠利町東海岸の北端に位置し、リーフと珊瑚礁は長さ約 2kmに及ぶ。
安良川遺跡からは夜光貝が小さいものから大き なものまでたくさん採集され
食用と貝製品に利用されていた。
安良川に住んでいた人々が使用した鉄製釣り針や員製装飾品、豊富な土器などとともに
食用にされた魚員類、植物、動物骨などの調査も行われた。
笠利町教育委員会
安良川遺跡 出土品
カムイヤキ (11~14世紀ころ)
カムイヤキ (11~14世紀ころ)
カムイヤキ (11~14世紀頃)
倉木崎海底遺跡 宇検村 (12~13世紀頃)
倉木崎海底遺跡 宇検村
倉木崎海底遺跡 宇検村
骨壺(厨子甕)
葬墓制について
埋葬墓、風葬墓、崖葬墓、、火葬墓、再葬(改葬)
仏像と骨壺(厨子甕)
スブネ
民俗資料展示室
トーグラ 9尺2間(6条一間)
高倉高倉
大和浜の群倉(ぼれくら) 2022年5月21日撮影
3.環境省 奄美野生生物保護センター
奄美野生生物保護センター
http://kyushu.env.go.jp/okinawa/awcc/exhibition-room.html
地域特有の野生生物展示により来訪者への解説や普及啓発を行うとともに、
国内希少野生動植物種の保護増殖事業、調査研究等を維持する拠点となっている。
絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律
鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律
国指定湯湾岳鳥獣保護区内の鳥獣
奄美大島に生息している希少野生動植物種
アマミノクロウサギ、アマミトゲネズミ、ケナガネズミ、アマミヤマシギ、
アカヒゲ、オオトラツグミ、オーストンオオアカゲラ
展示室
アマミノクロウサギの剥製(ウサギ科)
世界中で奄美大島と徳之島にのみに生息している。
耳や手足が短く、ウサギの仲間でもっとも原始的な姿を残している。
頑丈な爪で繁殖や休息のための巣穴を掘って生活している。
夜行性で、開けた場所で食事やフンをする。
また仲間と声を使ってコミュニケーションをとる。
子育て専用の巣穴に赤ちゃんを埋めて育てるというユニークな子育てをする。
近年、森林伐採やマングースやノネコなどの外来生物による捕食によって
生息が脅かされている。
種指定等
・種の保存法(国内希少野生動植物種)
・文化財保護法(国指定天然記念物)
・絶滅危惧ⅠB類(環境省レッドリスト2020)
アマミノクロウサギの糞
モダマ自生地にて(2022年5月19日撮影)
リュウキュウサンコウチョウ(カササギヒタキ科)
4月ごろに南方から渡ってきて9月ごろに帰っていく夏鳥
雄は黒紫色で尾羽が極端に長いのが特徴
ハブ(クサリヘビ科)
奄美諸島(喜界島・沖永良部島・与論島などを除く)と
沖縄諸島(伊是名島・粟国島などを除く)に生息している。
体色も様々で、「金ハブ・銀ハブ・黒ハブ」など個体差があり、
大きいもので2m近くまで成長し、最長のものでは2m43㎝もあった。
毒の種類は出血毒で、タンパク質を溶かし血管組織を破壊する。
夜行性で、気温が18度~27度、湿度が70%~80%で活発に活動する。
展示室 いのちの方舟 奄美群島
奄美群島の蝶①
オキナワカラスアゲハ (アゲハチョウ科):左上
中琉球の固有種で、奄美亜種は奄美大島から徳之島にかけて分布する。
奄美大島では3月から10月頃まで、年に4回発生する。
発生の時期には花に来る姿をどこでも見かけ、雄はしばしば水溜り近くで吸水している。
幼虫はカラスザンショウやハマセンダンの葉を食べる。
琉球列島にはほかに、大隅諸島にミヤマカラスアゲハ、カラスアゲハ(トカラ亜種)、
ヤエヤマカラスアゲハ(八重山の固有種)が生息している。
オキナワカラスアゲハ
加計呂麻島生間港待合室で撮影 (2022年5月20日)
4.喜界町埋蔵文化財センター
喜界町埋蔵文化財センター
喜界島の遺跡分布図
喜界島で一番古い土器(約7000年前)
川尻遺跡 剝ぎ取り土層断面
国指定遺跡 城久遺跡
土師器甕型土器
焼骨再葬墓 小ハネ遺跡
墓に収められた副葬品(カムイ焼き壺、白磁碗)
石器と縄文土器
崩り遺跡出土品
川尻遺跡 大型円形土抗(縄文時代後期~晩期)
褐釉陶器、越州窯系青磁水注 平安時代ごろ
6.NPO法人 喜界島サンゴ礁科学研究所
NPO法人 喜界島サンゴ礁科学研究所
地球規模での気候変動解析と未来予測のために必須である一次記録を
次世代に残すための事業を展開している。
将来の人と地球環境の持続可能な発展を目指し、次世代のグローバルリーダーの育成と、
サンゴ礁と社会を結ぶプラットフォームとしての役割を担い活動している。
Picarro 同位体水蒸気分析装置
Agilent 7100 キャピラリ電気泳動システム
Thermo Scientific 高性能多機能イオンクロマトグラフ用オートサンプラーDIONEX AS-AP,
イオン交換クロマトグラフィー DIONEX ICS-2100ICS-2100
二枚貝シャコガイの化石殻の日輪に含まれるストロンチウムとカルシウムの比を
最新の二次元高分解能二次イオン質量分析計で解析し、
文書の記録がない先史時代の日々の日射量を3時間ごとの精度で明らかにする。
10万年前から続くサンゴ礁と現生のサンゴが息づく喜界島
7.あやまる第2貝塚
ソテツのジャングル
あやまる第2貝塚
埋め戻し場所に浜木綿が育つ
あやまる第2貝塚
8.城間トフル墓群
鹿児島県指定遺跡 1993年(平成5年)3月24日指定
大島郡笠利町万屋字笠利地区に所在する。
城間集落の西側外れに位置しており、付近は小高い丘を成している。
墓地はこの丘の斜面に横穴を掘って作られている。
城間トフル墓群
1号トフル墓
トフルは、「天国に通ずる道」という意味
1号トフル墓
2号トフル墓
9.土浜イャンヤ洞穴遺跡
土浜イャンヤ洞穴遺跡
土浜イャンヤ洞穴遺跡
草原にハブが出る恐れがあるため土浜イャンヤ洞穴遺跡に近づけない。
土浜イャンヤ洞穴遺跡に地元の方に案内してもらった。
標識もなくハブがでるところでは自力では捜せない。
土浜イャンヤ洞穴遺跡
倉木崎海底遺跡
平成6年8月発見、平成7年6月、宇検村 教育委員会が独自に予備調査を実施した。
海底一帯に中国製陶磁器が多数散乱していた。
その後、文化庁と鹿児島県教育委員会の助成で重要遺跡確認調査として実施した。
水中考古学の調査で青磁、白磁の碗や皿などの破片36点の遺物を採取した。
平成8年の調査では478点、平成9年度758点、平成10年の調査では 1054点、
4年間で合計2326点の遺物を採取した。
平成10年の調査では天目碗片が1点が発見された。
海底遺物の広がりは、東西約900ⅿ、幅約200ⅿの広さに及ぶ。
倉木崎海底遺跡パンフレット
倉木崎海底遺跡パンフレット
採集した海底遺物
宇検村倉木崎沈没船、韓国新安沈没船 調査
倉木崎海底遺跡調査
11.奄美市立奄美博物館
オモテ、床の間、ナンド、ネショ
奄美の民家 配置図
展示用高倉
アマミノクロウサギ
奄美の民家 配置図
展示用高倉
昭和30年代の大和村大和浜の群倉(ぼれぐら)
奄美市立奄美博物館
奄美市立奄美博物館 パンフレット
1階:黒潮に育まれた奄美(海見)
2階:奄美の歴史と文化(木辺に奄 美)
3階:亜熱帯雨林に育まれた奄美(雨見)
哺乳綱兎形目ウサギ科アマミノクロウサギ属
本種のみ絶滅危惧種
天然記念物 ムラサキオカヤドカリ
軟甲網エビ目オカヤドカリ科オカヤドカリ属
ゲットウ ショウガ科ハナミョウガ属
花の蕾が桃のような形をしていることから「月桃」と名づけられた。
ゲットウ 奄美パークにて撮影
コンロンカ アカネ科
安脚場(加計呂麻島)にて撮影
奄美群島は幕藩体制に組み込まれ、黒糖地獄と呼ばれる時代が到来した。
薩摩藩の奄美支配と砂糖生産
奄美の一文字姓
薩摩藩と差異化するため、二文字苗字は許可せず一文字の苗字のみと決めた。
奄美諸島は、昭和28年(1953年)12月25日に日本に返還された。
12.安脚場戦跡公園
大島海峡に潜水艦の侵入を防ぐ防潜網、機雷とを敷設し、潜水艦の接近を監視し、
13.震洋艇格納壕跡
呑之浦の震洋隊基地跡へ
250キロ爆弾を搭載し、体当たり攻撃を計画した海軍の木製小型モーターボート、
この一帯に数カ所あった奥行き50m程の格納壕には、50艇が格納されていた。
昭和20年2月11日、第40震洋隊187人が配置された。
塩道グスンガァー山中に拠を構えて出撃命令を待ったが米軍上陸部隊が接近することはなく終戦を迎え、ついに1艇も出撃することはなかった。
終戦まで約6,000艇が製造された震洋は、
終戦まで約6,000艇が製造された震洋は、
オーストラリア・シドニーの戦争記念博物館に現存する1艇を残す。
14.島尾敏雄文学碑公園
特攻隊指揮官として加計呂麻島を訪れた島尾敏夫の、数々の作品の舞台となった場所。
近年の映画「海辺の生と死」にも登場している。
島尾敏雄文学碑のある場所は、きれいに道が整備されている。
静かな海のそばを散策できる。
島尾敏雄の墓へ
島尾敏雄について
島尾敏雄文学碑公園
島尾敏雄が亡くなった後、呑之浦の震洋隊基地跡に彼の文学碑が建てられた。
後に小説家となる島尾敏雄が率いる第十八震洋隊は、この地で命令を待った。
いつ自分に死の命令が下るか分からない生と死のぎりぎりの狭間に置かれたが、
結局出撃せずに終戦になった。
島尾敏雄の墓
1986年(昭和61年)11月逝去
島尾敏雄について
1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日
大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、
奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、
出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」なる概念を考案したことでも知られる。
作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの系列、
戦争中の体験を描いた『出発は遂に訪れず』などの系列、
さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの系列に大別される。
また生涯書き続けられ、小説作品との決定的な差異は無いとされる日記や紀行文など
記録性の高いテキスト群や南島論なども高い比重を占める。
妻はのちに作家となった島尾ミホ。
島尾の浮気に起因する心因性の精神症状に悩む妻との生活を描いた『死の棘』は
小栗康平によって1990年に映画化され、第43回カンヌ国際映画祭にて
最高賞パルム・ドールに次ぐ、 審査員グランプリ受賞となった。
長男は写真家の島尾伸三で、漫画家の「しまおまほ」は孫にあたる。
島尾敏雄のヤポネシア論
15.鹿児島県立奄美図書館・島尾敏雄記念室
島尾敏雄記念室
鹿児島県立奄美図書館内
奄美での生活と執筆活動
永遠の時間の流れの中で 「死の棘」
島尾敏雄 資料
泉壮三氏宅にて(昭和35年)写真左:島尾敏雄「日の移ろい」の原稿
昭和30年、奄美大島に移住
もう一つの日本、ヤポネシア
島尾敏雄文学碑
昭和40年から50年にかけて住んでいた分館長住宅の一室を再現
奄美での生活と執筆活動
永遠の時間の流れの中で 「死の棘」
島尾敏雄 資料
泉壮三氏宅にて(昭和35年)写真左:島尾敏雄「日の移ろい」の原稿
昭和30年、奄美大島に移住
もう一つの日本、ヤポネシア
島尾敏雄文学碑
昭和40年から50年にかけて住んでいた分館長住宅の一室を再現
16.田中一村記念美術館(奄美パーク)
田中一村記念美術館へ
田中一村 ポスター
芸術の完成へ、奄美での転換点
彫刻家を父に栃木県で生まれた田中一村(1908~77)は
幼少期から南画を学び神童と呼ばれた。
奄美大島に単身移住したのは50歳を過ぎたころ。
日展や院展での落選が続き、中央画壇への絶望が背景にあったといわれる。
奄美を描いた日本画科「田中一村」
田中一村記念美術館
田中一村記念美術館 展示室へ
田中一村記念美術館 展示室パンフレットより
作品の撮影禁止
「初夏の海に赤翡翠」1962年ごろ、「岩上の磯鵯」1959~60年ごろ
パンフレットより
一村の社 案内
サネン カシャの花 (優秀賞)
2022年5月4日16:00撮影 山根香枝
奄美地方では月桃のことをサネンという。
沖縄ではサンニン、石垣島、八重山地方ではサミンという。
北から南へ移るとともにサネン、サンニン、サミンと変化する。
クマタケランのことをカシャという。
ゲットウ(月桃)
ゲットウ ショウガ科ハナミョウガ属の常緑性多年草
アダン タコノキ科タコノキ属の常緑小高木
17.平家漁法跡
瀬留のカキ漁跡(平家漁法跡)
潮が引いたときに龍郷湾の浅瀬に現れるのが「カキ(垣)跡」
浅瀬に石を積んで垣を巡らし、潮の干満を利用して魚を獲る漁法で、
平家が伝えたといわれていることから「平家漁法跡」とも呼ばれている。
龍郷湾での平家漁法跡
正式には「ナーガキ」と呼ばれ、
九州の西海岸から奄美・沖縄・台湾・フィリピンまで広く分布している。
以前は二尺ぐらいの高さであったが、現在は埋め立てられ道路工事などに使用され、
その姿をほとんど留めていない。
瀬留のカキ漁跡(平家漁法跡)
龍郷湾での平家漁法跡 鹿児島県大島郡龍郷町屋入
国道58号線沿い、海中に石が並べてある。
龍郷湾
龍郷湾での平家漁法跡
龍郷湾での平家漁法跡
18.西郷南洲翁遺跡
西郷南洲翁遺跡 表札:龍
鹿児島県文化財史跡 西郷南洲翁遺跡
西郷南洲翁遺跡周辺
西郷南洲翁遺跡周辺
愛加那碑文
龍一族の次男家の娘として1837年(天保8年)生まれた。愛加那(23歳)は、
1859年(安政6年)遠島になった西郷吉之助(33歳)と結婚し、この家で暮らす。
菊次郎と菊草の二児が生まれた。吉之助は3年後に島を去り、
やがて二人の子・菊次郎(9歳)と菊草(14歳)も西郷本家に引き取られた。
愛加那はこの家でひっそりと暮らした。1902年(明治35年)66歳で逝去した。
愛加那は島妻の生涯を終えた。
西郷南洲翁記念碑 西郷南洲翁記念碑と住居
西郷南洲翁記念碑 明治31年建立
碑文
天の此人に大任をくださむとするや、まず其のしん志をくるしめ
其身を窮乏すと、まことなる哉此言や唯友人西郷氏に於て是を見る、
今年君の謫居せられし旧所に碑石を設くるの挙あり、島民我が一言を需む、
我卒然としてこれを誌し以てこれに応ず。
明治29年晩夏 勝安房(海舟)
西郷南洲翁百周年祭記念碑 昭和52年9月24日施行西郷南洲訓より