2022年5月24日(火曜)
ホテルカレッタと赤尾木湾(奄美クレーター) 6:21
ホテルカレッタ宿泊棟
ホテルカレッタ朝食 7:08
ホテルカレッタ朝食 7:19
ホテルカレッタ朝食 7:19
大勢の客が居た。
ホテルカレッタと赤尾木湾(奄美クレーター)
星窪や赤尾木湾の円形地形は隕石落下が原因でできたものと推定され、
隕石物質として金属の玉粒・ニッケル・鉄の破片・微細隕石質・隕石質塊等が発見された。
奄美クレーター
パンノキ 8:59
クワ科パンノキ属の常緑高木
ホテルカレッタ ロビー 9:02
奄美市歴史民俗資料館
ノジュウル 9:36
笠利町歴史民俗資料館入口に展示
笠利半島の段丘面は、砂礫やラテライト質土壌で覆われている。
層のずれによって泥と鉄分が一か所に集まってできた球形の大きな塊。
奄美市歴史民俗資料館 展示室 9:36
アマミノクロウサギ剥製
奄美市歴史民俗資料館 展示室
考古資料展示室と民俗資料展示室の常設展示室がある。
考古資料展示室では、「遺跡・遺物でたどる30,000年の歴史」と題し、
旧石器時代から中世までの出土資料を年代順に展示している。
民俗資料展示室では、戦前に使われていた民具や現在ではほとんど見ることができない
貴重な生活用具類を多数展示している。
奄美市笠利町には、奄美群島では最も多い約100か所の遺跡がある。
旧笠利町教育委員会が昭和40年代から文化財の資料収集を進めていた。
笠利町で行われた考古学的調査の発掘調査資料と記録を保管し展示している。
笠利半島の東海岸は、砂丘上のほとんどが遺跡 言っても過言ではない。
代表的な遺跡には、土器標識名にもなり,宇宿上層式・下層式土器で知られる
国指定遺跡宇宿貝塚や乳房状尖底土器・爪形文土器 が出土した宇宿高又遺跡、
洞窟遺跡のイヤンヤ洞窟遺跡などがある。
奄美市歴史民俗資料館 展示室
考古資料展示室
旧石器時代
喜子川遺跡 出土品
概ね、海岸よりの新砂丘上には弥生時代からグスク時代に至る遺跡が多く,
山よりにある古砂丘上は縄文時代の遺跡が多い。
喜子川遺跡は1982年(昭和57年)に畑地総合開発事業で遺跡の断面が露出し発見された。
砂丘に遺物包含層があり、爪形文土器が発見された。
爪形文土器の出土する下層からアカホヤ火山灰層も確認されている。
1987年夏に第1次調査から1992年まで計7回調査を行っている。
調査後遺跡は笠利町が公有化し保存されている。
赤木名遺跡 出土品
辺留城遺跡 出土品
辺留グスクは、奄美大島の北に位置する奄美市笠利町の東海岸へ舌状に延びた
海抜約21mの小高い断崖の上に広げられる狭い地に築かれたグスクである。
サンゴ礁の板石壁と蓋石におおわれた古墳墓がある。
辺留グスク発掘調査は鹿児島県大島支庁土木課から委託を受けて笠利町教育委員会が
道路拡幅工事で辺留グスクの一部分が工事にかかるため記録保存と共に
辺留グスクに伴う民俗の記録保存も合わせて平成16年 から17年に発掘調査を行った。
辺留グスクは昭和46年に笠利町指定文化財に登録され文化財の保存と活用がなされてた。笠利地区 はグスクに伴う歴史や伝説が多く残る地区としても知られている。
江戸時代にはグスク下には琉球王府から薩摩藩に行政が移ってから
薩摩の奉行所も置かれ、ここに奄美大島全体をつかさどる奉行所が設置されていた。
辺留グスクは琉球王朝時代とも深いつながりがある。
もともと辺留の港は喜界島の湾港とともに、琉球国時代の主要港で盛んだった。
チャート製旧石器の出土状況
赤木名城(あかきなぐすく)遺跡出土
旧石器時代遺跡(約2万数千年~約3万年前)
当時は氷河期にあたり海水面が現在より約140mも低かった。
縄文時代
縄文時代
爪型文土器(指頭押圧痕と爪痕を有する土器)
喜子川遺跡出土 縄文早期末~前期(約7000年前)
爪型文土器(指頭押圧痕と爪痕を有する土器)深鉢の破片
喜子川遺跡出土 縄文早期末~前期(約7000年前)
爪型文土器(指頭押圧痕と爪痕を有する土器)深鉢の破片
喜子川遺跡出土 縄文早期末~前期(約7000年前)
土器使用のはじまり
爪型文土器とほぼ同程度の古さ(縄文早期末~前期・約7000年前)の土器
喜界町総合グランド遺跡
爪型文土器 イヤンヤ洞窟遺跡
イヤンヤ洞窟遺跡
イヤンヤ洞窟遺跡
条痕文土器(貝殻による筋状の文様土器)
土浜イヤンヤ洞窟遺跡
イヤンヤ洞窟遺跡 出土品
イヤンヤ洞窟遺跡 出土品
城間トルフ墓群
深鉢 条痕文土器(貝殻による筋状の文様土器) 宇宿高又遺跡
大きなな土器の中に、同形でやや小さめの土器がはめ込まれていた。
宇宿高又遺跡は宇宿貝塚のそばの高又川近くに位置する遺跡
深鉢 条痕文土器 宇宿高又遺跡
深鉢 条痕文土器 宇宿高又遺跡
深鉢 宇宿高又遺跡
曽畑系土器(縄文時代前期) 宇宿高又遺跡
幾何学的な刻線が全面に施されている。
九州本土の曽畑系土器の影響を強く受けている。
面縄前庭式土器(縄文時代中期)
南西諸島の独自性の強い土器
宇宿高又遺跡
集石遺構(蒸し焼き料理用礫) 万屋下山田遺跡(縄文時代後期)
集石遺構が7基見つかった。
万屋下山田遺跡(縄文時代後期)出土品
万屋下山田遺跡(縄文時代後期)
嘉徳1B式土器 土浜遺跡
面縄西洞式土器(縄文時代後期) サウチ遺跡
宇宿小学校構内遺跡 出土品
宇宿小学校構内遺跡
山形口縁土器(縄文時代後期) 宇宿小学校構内遺跡
口縁が方形で山形の突起があり、突起の先端と両縁には押圧沈線を施してある。
宇宿小学校構内遺跡 出土品
宇宿小学校構内遺跡 出土品
宇宿小学校構内遺跡
埋葬された犬の骨 宇宿小学校構内遺跡
面縄西洞式土器(縄文時代後期~晩期) 宇宿小学校構内遺跡
宇宿小学校構内遺跡 出土品
掘立柱建物跡(縄文時代後期) 宇宿小学校構内遺跡
石組住居跡(縄文時代晩期) 宇宿小学校構内遺跡
宇宿小学校構内遺跡 出土品
宇宿小学校構内遺跡出土品 石器 土器
骨製品
貝製品
オオツタノハ製腕輪 貝製品
オオツタノハ製腕輪 貝製品
貝交易
本土の弥生時代にも稲作農耕の道には進まず貝との交換で本土の産物を手に入れていた。
ヤコウガイの出土 土盛マツノト遺跡
ヤコウガイは、先史時代からすでに食用として軟体部が利用されている。
土盛マツノト遺跡、用見崎遺跡、小湊フワガネク遺跡などといった6~8世紀の遺跡から
ヤコウガイが大量に出土している。
こうした大量出土の遺跡のほとんどは奄美大島北部に集中しているが、
その貝殻の量は先史時代の遺跡と比べ圧倒的に多いため
単なる食料残滓(ざんし)の廃棄とは考えにくく、
加えて貝殻集積の周辺部分より貝匙(かいさじ)の破片も出土していることから、
貝殻は原料確保としての集積の可能性が考えられる。
あるいは、平安時代以降、ヤコウガイは、螺鈿(らでん)や酒盃(しゅはい)などとして、日本本土で多く消費されているが、
その供給地としての役割をこれらの遺跡付近の地域が果たしていた。
サウチ遺跡 出土品
サウチ遺跡は、笠利湾に突き出た打田原半島西岸の砂丘上に位置する
縄文時代後期末から古代並行期にかけての遺跡。
サウチ遺跡 出土品
サウチ遺跡
サウチ遺跡 出土品
住居跡 サウチ遺跡
壺形土器(弥生時代) 喜子川遺跡
宇宿貝塚出土の人骨
若い女性と赤ちゃんの人骨が一緒に出土した。
(赤ちゃんの人骨は展示していない。)
宇宿貝塚出土の人骨 説明板
古墳時代~古代並行期
マツノト遺跡 出土品
兼久式土器 マツノト遺跡(6~10世紀ごろ)
兼久式土器 マツノト遺跡(6~10世紀ごろ)
マツノト遺跡 出土品
マツノト遺跡 出土品
マツノト遺跡 出土品
マツノト遺跡 出土品
マツノト遺跡 出土品
土盛マツノト遺跡、喜子川遺跡
土盛マツノト遺跡出土土器
長浜金久第1遺跡の土器分類図
用見崎遺跡 出土品
用見崎遺跡発掘調査は、長島植物園の大規模開発に伴う植物園敷地内の文化財の
確認をするために笠利町教育委員会が行った。
この調査は平成 4年 12月 11日から平成 4年 12月 22日にかけて実施し、
小規模遺跡の全貌が奄美で初めて発掘調査によって明らかにされた。
用見崎遺跡 出土品
用見崎遺跡 出土品
用見崎遺跡 出土品
用見崎遺跡 出土品
用見崎遺跡 出土品
安良川遺跡 出土品
7世紀前後の人々が生活を始めていた安良川遺跡は、昭和45年頃に発見された。
平成15年度から16年度まで文化庁と鹿児島県文化財課で発掘調査。
用集落は笠利町東海岸の北端に位置し、リーフと珊瑚礁は長さ約 2kmに及ぶ。
安良川遺跡からは夜光貝が小さいものから大き なものまでたくさん採集され
食用と貝製品に利用されていた。
安良川に住んでいた人々が使用した鉄製釣り針や員製装飾品、豊富な土器などとともに
食用にされた魚員類、植物、動物骨などの調査も行われた。
笠利町教育委員会
安良川遺跡 出土品
安良川遺跡 出土品
安良川遺跡 出土品
カムイヤキ(1200℃程度)と縄文土器(700℃程度)の違い
カムイヤキ:灰色で硬い、縄文土器:赤みをおびてややもろい
カムイヤキ
カムイヤキ (11~14世紀ころ)
カムイヤキ (11~14世紀ころ)
カムイヤキ (11~14世紀ころ)
倉木崎海底遺跡 宇検村
倉木崎海底遺跡 宇検村
倉木崎海底遺跡 宇検村
骨壺(厨子甕)
葬墓制について
埋葬墓、風葬墓、崖葬墓、、火葬墓、再葬(改葬)
仏像と骨壺(厨子甕)
民俗資料展示室
スブネ
民俗資料展示室
トーグラ 9尺2間(6条一間)
高倉
高倉
昭和22年から昭和28年頃の小中学校の様子
民俗資料展示室 10:16
国指定史跡宇宿貝塚史跡公園
国指定史跡宇宿貝塚史跡公園 10:28
国指定史跡(1986年10月7日)「宇宿貝塚」遺構展示公開保存施設
1933年(昭和8年)12月17日に発見された縄文時代中期から中世にいたる貝塚。
奄美群島の考古学研究の基礎を築いてきた奄美考古学発祥の地。
砂丘台地上に立地し、縄文時代、弥生時代、平安・鎌倉時代の3文化層が形成され
「宇宿下層式土器」「宇宿上層式土器」は南国の土器標識名になっている。
国指定史跡宇宿貝塚史跡公園
国指定史跡 宇宿貝塚 10:29
国指定史跡 宇宿貝塚公園
国指定史跡 宇宿貝塚
国指定史跡 宇宿貝塚 10:30
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
宇宿貝塚のあゆみ
縄文時代の地層の面(手前)、一段上は中世の地層の面、
奥は縄文時代の縦穴住居跡
宇宿貝塚の説明
宇宿貝塚の説明
宇宿貝塚 地層
宇宿貝塚 地層
宇宿貝塚 地層
砂丘の形成と遺跡の関係
シロナス層とクロナス層
宇宿貝塚 地層
地層の剝ぎ取り作業について
宇宿貝塚 地層
宇宿上層式土器の層
地下約2mから発掘された約3000年前の縄文時代の縦穴住居跡
右側:中世の地層の面(地下約1m、約1000年前)
蔵骨器
蔵骨器の出土状況
宇宿貝塚の貝層2
宇宿貝塚の貝層2
宇宿貝塚のあゆみ
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
宇宿下層式土器 約4500年~3300年前(縄文時代後期)
深鉢形土器 宇宿貝塚出土(1978年8月)
宇宿下層式土器
宇宿下層式土器
下層から出土する有紋土器(文様はカゴ目を編む文様)
宇宿上層式土器 約3300年~2300年前(縄文時代晩期)
宇宿上層式土器
上層から出土する無紋土器
兼久式土器(10世紀頃)
スセン當式土器
奄美大島郡知名町スセン當貝塚出土土器
奄美諸島の古墳時代並行期を代表する土器
宇宿貝塚史跡公園の説明員(奄美市役所教育委員会文化財課)
丁寧に分かり易く説明してくれた。
滑石混入土器 (中世 11~12世紀)
カムイヤキ
奄美群島徳之島で11世紀から14世紀にかけて作られていた陶器の名称。
考古学の文脈では「南島系陶質土器」とも呼ばれる。
1983年(昭和58年)徳之島伊仙町阿三の亀焼地区で溜池造成の工事中に窯跡が発見され、地元方言で甕や壷を「カムィ」、亀焼を「カムィヤキ」と発音することから
この陶器の名称に採用された。
ガラス小玉
宇宿貝塚東地区(ダンベ山)遺跡について
宇宿貝塚東地区(ダンベ山)遺跡の出土品
昔話
昔のトイレ
人骨に伴うガラス玉ネックレス(昭和53年)
炭化したシイの実
母子埋葬人骨が出土した場所
宇宿貝塚出土の母子埋葬人骨
宇宿貝塚出土の母子埋葬人骨
若い女性と赤ちゃんの人骨が一緒に出土した。
(赤ちゃんの人骨は展示していない。)
宇宿貝塚出土の人骨 説明板
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
「宇宿貝塚」遺構展示公開・保存施設
宇宿貝塚 発掘時の写真
宇宿貝塚 発掘時の写真等
宇宿貝塚 発掘時の写真等
国指定史跡宇宿貝塚 11:22
奄美パーク 11:37
奄美パーク
奄美パーク レストランゆらん郷
奄美パーク レストランゆらん郷 11:43
奄美パーク レストランゆらん郷
奄美パーク レストランゆらん郷 11:44
塩そうめん 11:49
鶏飯 12:01
レンタカー返車後、奄美空港までの送迎バス 12:18
雨の奄美空港 12:18
雨の奄美空港
奄美空港 12:19
奄美空港
奄美空港 12:28
奄美空港 12:28
奄美空港 12:59
奄美空港 13:00
奄美空港13:30ー15:35成田空港 Peach MM542(A320-200)
待合室 13:00
14:06
奄美空港13:30ー15:35成田空港 Peach MM542(A320-200)
15:27
奄美空港13:30ー15:35成田空港 Peach MM542(A320-200)
成田空港上空 15:29
成田空港 15:43
成田空港
成田空港バス乗り場 15:56
成田空港16:10ー17:15東京駅 JRバス ¥1,300
四街道市周辺 16:35
成田空港16:10ー17:15東京駅 JRバス ¥1,300
東京駅 17:28
通勤特快高尾行き17:32待ち
東京駅17:32ー18:50秋川駅 ¥935
拝島駅 駅そば 18:36
拝島駅 18:51
拝島駅 18:51
拝島駅18:56発-武蔵五日市線ー19:07着秋川駅
午後7時20分ごろ無事帰宅