2019年11月19日火曜日

アジアの神秘ミャンマー大周遊7日間

2019年11月13日(水曜)~19日(火曜)

バガン遺跡群
点在するパゴダや寺院は11世紀から13世紀に建設され仏塔の数は3000を超える。
世界3大仏教遺跡、2019年7月世界文化遺産登録
バガン遺跡群バルーン遊覧
バガン遺跡群
バガン遺跡の夕日

アジアの神秘ミャンマー大周遊7日間(JTB旅物語 S820-70)


旅行行程

アジアの神秘ミャンマー大周遊7日間(JTB旅物語 S820-70)
パンフレット

 旅行費用 合計 224,110円
1.旅費           205,290円
  内訳
基本旅費          189,800円
成田空港施設使用料      2,610円
海外空港諸税・サービス料等  2,880円
燃油サーチャージ       9,000円
国際観光旅客税        1,000円
2.海外旅行保険(t@biho)   8,540円
3.国内交通費等           5,810円
  内訳
秋川ー自動車ー福生駅-JRー立川駅   170円
立川ーリムジンバスー成田空港    3,700円
成田空港ー京成バスー東京駅八重洲口 1,000円
東京駅ーJRー秋川駅          940円

4.オプション 20,000円≒US$179(成田空港)
US$40≒59600Kyat 4,470円(ヤンゴン空港)
1US$≒111.7円≒1517Kyat、1円≒13.34Kyat
食事時のビール、ワイン代等


e-ticket

搭乗券

第1日目 2019年11月13日(水)


秋川3:50ー自動車ー福生駅4:47-JRー立川駅5:07
立川(パレスホテル)5:50ーリムジンバスー(8:05)8:20成田空港
 秋川自宅出発 3:50
 成田空港着 8:20  13.9℃
成田空港 10:12
NARITA 11:00 (11:10) - ANA NH813便 - (15:47)16:25 YANGON
 隣席のシートベルトがねじれていたので直した。11:01
しかし、CAに「安全確認は整備士が行った方が良い」ということになり
隣席の方は別の席に移動した。
 飛行機出発の順番待ち 11:32
 ヤンゴン国際空港 15:47
 現地ガイド待ち合わせ 16:32
アウンシーピョー氏(ミャンマー人38才)
一般的な民族衣装ロンジーをはいている。
 ヤンゴン市内へ 渋滞 17:02
オートバイ、自転車が通行禁止で走っていない。
 夕食 PADONMAR レストラン 17:15
 レストランにて飲物の注文 17:17
Myanmarビール 17:22
とても美味しかった。
ミャンマーでは酒類別摂取量の割合は、
ビール83.3%、果実酒8.4%、蒸留酒8.3%、その他0.0%である。
(日本:ビール21.6%、果実酒3.5%、蒸留酒42.2%、その他32.7%である。
ミャンマー料理
 バナナを焼いたスイーツ 17:45
 レストランに飾られていた絵 17:57
ナガ族がイノシシ狩りをしている絵
ナガ:この部族がつける耳飾のこと
  レストランに飾られていた絵 17:59
トーモロコシのタバコを吸う老婆
 シュエダゴン・パゴダ駐車場 18:30
 駐車場からパゴダへ行くエレベータ 18:31
シュエダゴン・パゴダの境内は、東西南北の門から入り、階段を上がった上部にある。
現在は写真のようなエレベータもある。
 エレベータからパゴダへ行く廊下 18:39
「触地(そくじ/そくち)」の説明絵 18:42
 右手を大地に触れた釈尊
「釈尊の降魔成道」
12月8日は、釈尊が「成道(じょうどう)」された日、
35歳の釈尊はさとりをひらき、真理(ダルマ)を獲得した。
その直前に、魔(マーラ)から種々の攻撃を受けた。
魔王の攻撃は、名声や愛着に対する誘惑、危害への恐怖などをかきたてるもので
あったが、釈尊はそれらをしりぞけた末に、さとりをひらいた。
さとりをひらく前後の逸話は「降魔成道(ごうまじょうどう)」とよばれている。

『ラリタヴィスタラ』大乗経典に記された逸話

釈尊が、菩提樹の下に座すと、
「苦しみから逃れる方法を見出すまではこの座を離れない」と決意し、
禅定(祈り)を深める。
すると、魔王がやってきて、あの手この手で妨害する。
「さとりなど、どうせ得られるはずがない。
早々に国に帰って王位を継ぎなさい」とそそのかしたり、
娘たちを遣わして色香で誘惑したり、猛獣をけしかけて怖がらせたり、
あらゆる手段を使って禅定を阻害する。 
しかし、釈尊はそれらをものともせず、逆に魔王に次のように詰め寄りる。
「お前が魔王になれたのは、過去になしたたった一つの善い行いの功徳にすぎない。

それに対し、私は数え切れないほどの過去世で、多くの善い行いをしてきた。

その積み重ねの功徳で、今ここに座っている。

お前ごときの攻撃で揺るぎはしない」

 すると魔王は、

「自らボロを出したな! 私の善行は、今まさにお前が証明したが、

お前の善行の証人は誰もいない!」と言い返した。

それを聞いた釈尊は、

生類を支えるこの大地が証人である!と言い放ち、

右手で大地に触れると、次のような偈を唱えた。

「この大地は、全てを支え、全てに対して平等である。大地よ、私の証人になれ!」

すると、大地が大きく揺れ、女神が現れた。

それを見た魔王は、まいりましたとばかりに退散し、

その後、釈尊は決意通りにさとりをひらかれた。

(佐藤直実抄訳)

この「触地」の手の形は、やがて「降魔」、

すなわち「自らの煩悩に打ち勝つ姿」の象徴として定型化され、
「触地印」あるいは「降魔印」と呼ばれるようになる。
東南アジアの仏教圏ではよく見られる。

日本ではあまり馴染みのない形だが、

般若経や法華経など多くの仏典にも登場する。
金剛界曼荼羅の東方に配される阿閦如来が「触地印」像になっている。
 菩提樹の中の仏像 18:44
 シュエダゴン・パゴダ 18:48
 仏像 18:56
 カチン州産のヒスイで造った仏像 (高さ99㎝、324㎏)
2011年に解散した国家平和発展会議(SPDC・軍事政権の最高決定機関)の
キンニョン第一書記(宝石関連企業と鉱業省)の寄付という。
 多くの仏像 19:04
 涅槃仏と仏像 19:08
 シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda) Yangon
黄金に輝く仏塔、黄金プレート8688枚、99.8m、1372年建立、
ミャンマー仏教の総本山、仏陀の8本の髪が納められている。
黄金の仏塔周辺には60余りの尖塔が並んでいる。
 パゴダ尖塔にある76カラットのダイヤモンド
塔頂部の装飾ダイヤモンド4351個(計1800カラット)
パゴダ構造説明 「ローカル地球の歩き方」より転写
「ローカル地球の歩き方」より転写
 黄金の仏像 19:25
 シュエダゴン・パゴダ境内 19:28
境内は黄金のストゥーパを中心に60余りの仏塔や廟が林立している。
ミャンマーでは寺院の境内には裸足で入るものとされてる。

PANORAMA HOTEL着 20:00
 PANORAMA HOTEL 708号室からのヤンゴン市内 4:56
夜中に雷雨があった。
  PANORAMA HOTEL 708号室から 4:47

第2日目 2019年11月14日(木)



4:30起床、5:30集合


 PANORAMA HOTEL ロビー 5:27
 PANORAMA HOTEL 出発 5:30
 PANORAMA HOTEL前 道路陸橋下にバス待機 雨上がり 5:30

朝食弁当 5:37
 朝食弁当 5:37
プレーンパン2枚、ゆで卵2個、バナナ1本
 ヤンゴン国際空港 チェックイン 6:25
ヤンゴン国際空港 7:32
AIR THANLWAI航空  機体:ATR 72-600 7:43

AIR THANLWAI航空搭乗券
  ヤンゴン国際空港 7:45 - YH-935 - 9:20 ヘイホー空港

 ヤンゴン国際空港上空 8:04
 機内軽食 8:34
 バガン上空 9:14
バガン空港着 9:24
AIR THANLWAI航空  YH-935便  機体:ATR 72-600 
フランスイタリア航空機メーカーが合弁したATR社製のターボプロップ双発旅客機
 BAGAN NYAUNG U AIRPORTにて 9:30
バルーンで遊覧飛行の看板 (バガン空港にて) 9:36
乾季に実施、予約は6か月待ちとのこと、費用約4万円。
バガン空港に待機していた観光バスに乗ってバガン遺跡へ出発 9:36
日本の中古バス:スリーエス観光(群馬県太田市)と表示されている。

バガン遺跡
世界三大仏教遺跡(アンコールワット遺跡、ボロブドール遺跡、バガン遺跡)のひとつ。
バガン遺跡群は、マンダレー地方・イラワジ川中流の東側約40kmに渡り広がっている。
点在するパゴダや寺院は11世紀から13世紀に建設された。
仏塔の数は3000を超える。
バガン朝アノヤター王時代の1287年にモンゴル人に滅ばされバガンは放棄された。
2019年7月、「バガンの考古地域と記念建造物群」が世界文化遺産となった。
バガン遺跡群 

シュエズィーゴンパゴダ(SHWE ZI GON PAGODA)

シュエズィーゴンパゴダ表示板 9:50
パーリ語で「祝福された土地」を意味する。
 シュエズィーゴンパゴダ参道 9:54
 「タナカ」の原料木を売る店(化粧用木材) 9:56
ゲッキツ属の複数種の樹木が原料
 タナカ(天然の化粧品)で頬を化粧した女性販売員 9:58
化粧としてだけでなく日焼け止めとしての役目もある。
 タナカの原料木販売店 9:59
手前の丸い挽臼(砥石)でタナカの原料の皮を水を付けて研ぎ、その液を頬に塗る。
シュエズィーゴンパゴ(Shwezigon Pagoda)  10:06
パガン王朝を代表する宗教建築物
シュエズィーゴンパゴ(Shwezigon Pagoda) 
 シュエズィーゴンパゴ(Shwezigon Pagoda)  10:07
ビルマ式パゴダ(仏塔)の原形
11世紀にパガン王朝の創始者アノーヤターと、3代目の国王チャンシッターによって建立
 シュエズィーゴンパゴの床の敷石模様 10:09
シュエズィーゴンパゴ  10:11
三層構造の方形の土台の上に、高さ約40mの塔が建てられている。
パゴダには金箔が張られ、塔の周囲には本生譚が描かれた陶器の板がはめ込まれている。
パゴダの中には釈迦の歯(仏歯)と骨(仏舎利)が奉納されているという。
境内にはパガン王朝期に制作された木彫りの扉が保管されており、
長い期間にわたって保存のために油が塗られてきた。 
黄金の立ち姿の仏像 10:12
これらの仏像は「過去四仏」を表したものであり、
東はコーナーガマナ仏(倶那含牟尼仏)、
西は釈迦牟尼仏(釈迦如来)、
南はカッサパ仏(迦葉仏)、
北はカクサンダ仏(倶留孫仏)になる。
守護の獅子像 10:19
頭1つにして、どちらの方から見ても同じように見えるように体を2つに分けた。
ガイド
仏像

東の祠堂には、37体のナッ(民間で信仰されている精霊)神像が並んでいる
かつてアノーヤターは民間で信仰されているナッを排除しようとしたが失敗し、
従来民衆の間で信仰されていた36のナッの上に
仏教の守護神タジャーミン(帝釈天)を置いてナッ信仰を認めた
そして37体の像をシュエズィーゴン・パゴダに建て、
ナッ信仰が仏教を支えるものであることを強調した。
パゴダの裏には、パガン王族の墓が建てられている。

黄金の祠堂 
黄金の祠堂
黄金の祠堂の彫刻
祠堂
聖水 10:29
ヒスイの鉢 10:30

参道 飾り物店 10:39
参道 紙の小旗店 10:40
パコダ 内部撮影禁止 10:40
参道 バナナ売り 10:41
外国人観光客はレンタルバイクでバガン遺跡見学 10:28
陶器店 10:50
陶器店  10:51
ほうき 10:53
日傘 10:54
舗装していない道路と畑の中のパゴダや寺院 11:02
畑の中のパゴダや寺院 11:03

ティーローミンロー寺院(Htilominlo Temple)

パガン王朝第8代国王ナンダウンミャー によって1218年に建立。
高さ約46メートル、3層の構造を持つ荘厳な寺院。
ナンダウンミャーの父親で第7代国王だったナラパティシードゥーは、

白い傘を真ん中にして、その周りに5人の息子たちを並ばせ、

倒れた傘がそのうちの一人を示したとき、その息子を次の王とすると決めた。

すると、その傘は傾いてナンダウンミャー を示したため、

次の王に選ばれたと言う。

ビルマ語による王統史には、ナンダウンミャー はティーローミンローと記されていて、

その名前の意味は、「王になるように傘が望んだ者」という。

寺院もその名前に由来し、
建立された場所も、ナンダウンミャーが王として選ばれた場所である。
ティーローミンロー寺院  11:02
ティーローミンロー寺院 11:03
北インドをルーツとした装飾的なタワー “シカラ(sikhara)”があり、
金色に塗られていない以外は、アーナンダ寺院と同じ様式である。
そしてトップは、尖塔装飾品である「hti(ティ)」が飾られているが、
ミャンマー地震 (2016年8月)により尖塔部分が崩壊し現在修復中である。
日本人も修復・支援をしている。
ティーローミンロー寺院の参道にて 11:04
ティーローミンロー寺院入口 
黄金の仏像
寺院内には、4体の大きな黄金の仏像が、それぞれ東西南北を向いて安置されている。
黄金の仏像と壁画 11:15
壁画  11:16
仏教を描写した美しい壁画やフレスコ壁画も見られるが、
かなり色褪せてしまっている。
レンガ造り 11:19
竹材の足場 修復中 11:21
乾燥していない気候なので竹が割れないで強度を保つ
修復中 11:22
レンガ建築で、元々は白いスタッコ(化粧漆喰)が塗られていた。
首長族の女性の機織り 11:24
首長族の織物店 11:24
首長族の女性 11:24
村落内の選ばれた女性が首に金色の真鍮リングを纏う民族。
シャン州、カヤー州に暮らしているカヤン族。
上半身に白を基調とした袖なし寸胴型上衣を羽織り、
下半身には黒い筒型スカートを腰に纏う。
女性は首以外にも、両膝下に真鍮コイルを巻き、
両腕には銀色アルニウム製の輪を4個から10個ほどはめている。
高齢女性には首輪を際立たせるため前髪を短髪にする者が多い。
エアコンで水タンクを冷却 11:29
冷たい飲料水の出る蛇口あり
畑の中のパゴダや寺院 11:36
バガンには約3000を超えるパゴダや寺院が点在している。
畑の中のパゴダや寺院
畑の中のパゴダや寺院
畑の中のパゴダや寺院
畑の中のパゴダや寺院 11:37

アーナンダ寺院(Ananda Temple)

バガン・アーナンダ寺院
アーナンダ寺院 駐車場および馬車待合場所 11:37
アーナンダ寺院 11:38
レンタルオートバイで見学に来ている。
 タナカ自然化粧品の原木を売る露店 11:40
土産屋がたくさん並んでいる。
アーナンダ寺院入口 11:40
アーナンダは釈迦の一番弟子
アーナンダ寺院(Ananda Temple)
バガン王朝 第3代キヤンツィッタ王が、1105年に建立した寺院。
一辺が53メートルの大きな方形の寺院で、高さは51メートル。
ビルマとインドの建築様式を融合、寺院のレイアウトは十字形。
「ビルマのウェストミンスター寺院」と言われている。
 寺院の四隅を守る獅子 11:46
どちらの面から見ても体が見えるように二つに分かれている。
 寺院の守護 11:47
 アーナンダ寺院の尖塔 11:47
特徴的なのは、尖塔の黄金に輝く美しいシカラ(sikhara)である。
インドから影響を受けている。
シカラすべての側面には、仏像が安置されている5つの壁龕がある。
傘型の尖塔装飾品であるhti(ティ)が飾られている。

アーナンダ寺院は、ミャンマー地震 (2016年8月)の影響は 少なく、
多少のひびが入った程度で崩壊はなかった。
女神像 11:49

アーナンダ寺院の仏像は黄金に輝く立ち姿で高さ9.5メートルという。
東西南北それぞれの方向に仏像が安置されている。
 南向き 迦葉仏Kassapa)と守護神 11:49
 南向き 迦葉仏Kassapa) 11:52
創建当時11世紀のままの仏像
 南向き 迦葉仏Kassapa)の左側脇時仏 11:52
西向き 釈迦牟尼仏(Gautama) 11:57
火災で焼失して14~15世紀に再建した仏像

北向き 拘楼孫仏(Kakusandha) と守護神
 北向き 拘楼孫仏(Kakusandha)  12:00
創建当時11世紀のままの仏像
材質は松の木
壁画 12:01
壁画 12:03
仏陀の生涯から80のエピソードを描いた石の仏像が彫られている。
壁画 12:04
壁画 12:05
壁画 12:06
 黄金の女神 12:10
ガラスのケースで保護されている。
 東向き 拘那含牟尼仏  (Konagamana) 12:10
火災で焼失して14~15世紀に再建した仏像

4体の仏像は、「現代の仏陀」「過去四仏」と呼ばれて、
仏陀の「空間と時間を通した偏在感」を表している。

 参道の土産店で、店番の手伝い 12:16

タビニュ寺院(Thatbyinnyu Phaya)

パガン朝第4代国王のアラウンスィードゥー王の治世中の1140年に建立、
二層構造のレンガ造りの建物大型寺院、バガンでは最も高い65m。
タビニュという名前は、仏陀の「無限の知恵」という意味。
アナンダ寺院に隣接している。
土産店もなく、畑に広がる素朴な風景でまだ観光地になっていない。
タビニュ寺院への道
参道脇にサボテン 12:27
タビニュ寺院周辺のパゴダ 12:27
タビニュ寺院 
出入口を飾る炎状の装飾、付け柱などとともに、寺院の装飾技法が豊富に残されている。細かい彫刻が施された屋根をもち、中央に金箔で覆われた塔がある。 .

タビニュ寺院入口 12:36
 上層に上るための中央階段は、
東向きに置かれた二体の守護神像によって守られている。
 タビニュ寺院周辺のパゴダ 12:39
 タビニュ寺院 12:41
 タビニュ寺院 日本軍人慰霊碑 12:42
寺院の前に日本人戦没者慰霊碑があり、
タビニュ僧院の僧侶達により管理されている。
タビニュ寺院周囲 12:54
タビニュ寺院駐車場への近道 12:54

昼食
Nanda Wun By the River Restaurant  13:07
エーヤワディー川左岸
 Nanda Wun By the River Restaurant  13:08
エーヤワディー川左岸にあるレストラン
 黒猫 13:22
昼食・ミャンマー風中華料理 13:41

ミャンマーの漆工芸

5世紀ごろのピューの都で発掘された骨壺に漆が使われていた。
パガン時代(9世紀-13世紀)、漆工芸が盛んであった。
当時から僧侶の托鉢用の鉢に漆が使用されていた。
また、木材に漆を貼り付けた漆品や
土、煉瓦、 石などに漆を貼り付けた仏像や宗教的なものがあった。
パガンは地理的にも気候的にも昔から漆工芸に適していた。
 漆の木が捕れるシャン州からもあまり遠くなく運ぶ海路、陸路の両方が使えた。
基礎素材の竹とやわらかい木材は、 
イラワジ川とチンドゥィン川沿いにある山々から豊富に採れた。
パガンではもっとも盛んな産業が漆工芸である。
パガンでは漆工芸の学校を政府の援助金で設立していて漆博物館もある。
日本、中国、韓国などの伝統漆工芸を研究している。
  漆工芸に使われる漆素材は2種類ある。
ひとつは漆の木から出る樹皮を使うもの、 もう一つは樹に集まった虫が出す液体もの。
前者を西洋ではラッカー(lacquer)と呼び、 後者をシェラックshellacと呼んでいる。
ミャンマーの漆品は前者の樹皮を使用している。
ミャンマーの木は、ねばねばしていて、 より長持ちすると言われている。
漆の種類は主に6種類に分けられる。
1. チャウカ漆、2. マアン漆、3. シュエザワー漆、4. タヨー漆、
5. マンシーシュエチャ漆、6. マン漆
漆工房  UBA NYEIN  14:18
漆に彫刻 14:19
竹ひご漆椀の工程 14:22
竹ひごに馬の尾毛を編む 14:24
竹ひごで椀を造る 14:24
素手で漆塗り 14:26
漆研ぎ 14:27
漆の上塗り 14:28
地下室で温室乾燥 14:30
漆工房内 14:31


漆工房からダーヤマンジー寺院に行く途中のパゴダ
 畑の中のパゴダ
 ダーヤマンジー寺院への道

ダーヤマンジー寺院(Dhammayangyi Temple)

ナラトゥー王は、父王と兄を殺害し、5代王となる。
また、妻としたインド王族の娘も処刑した。

1167年、その贖罪として建設にかかったが
ナラトゥー王自身が暗殺されて未完のままになった。

 ダーヤマンジー寺院 15:14
 ダーヤマンジー寺院  15:22
呪いのためか土産店や人が殆ど居ない。
荒れたままのダーヤマンジー寺院  15:23
ダーヤマンジー寺院
規模は大きいが装飾も少なく殺風景である。
王の暗殺に関する怖い伝説があり、地元民のはなしではお化けの出るという。
 ダーヤマンジー寺院を見渡せる丘 15:25
 ダーヤマンジー寺院の周辺 15:25
ダーヤマンジー寺院 15:26
ダーヤマンジーは「法の光」を意味する。
基壇一辺の長さ約78メートル、バガンの中で最大規模の寺院。
単層構造だが、上部には崩落した頂部に向かってそびえる
六段のピラミッド型テラスがある。
1170年、パガン王朝第5代ナラトゥー王のもと建設が始めらたが、
王が暗殺され途中で工事中止となりダマヤンジー寺院は未完成のままとなった。
 修復用レンガ 15:28
 2つの仏像 15:29
ゴータマ・ブッダと未来仏マイトレーヤの像
顔に金箔が残っている。
 壁画 15:32
 涅槃仏 15:37
一部金箔が残っている。
ダマヤンジー寺院の回廊 15:40
寺院の内部の回廊はレンガで覆い塞がれている。
4か所の出入口と外周の回廊部分だけが通行可能である。
 仏陀坐像 15:42
 ダマヤンジー寺院の天井 15:45
 精密なレンガ組み 15:55
何度もの地震を経験しているが、基本構造はしっかりと残されてる。
レンガは緊密かつ丁寧に敷き詰められいる。
 人形劇用の人形が木に吊るしてあった。 15:56
 ダマヤンジー寺院近くのパゴダ 15:58
ダマヤンジー寺院近くの露店 16:01

ミンナントゥ村へ
畑の先にパゴダや寺院 
約3000を超えるパゴダや寺院が点在している。
オールドバガン周辺にはパゴダや寺院が多数点在している 16:04
立ち話する村人 16:08
ミンナントゥ村にあるパゴダ 16:18
パヤトンズ遺跡群の南側にミンナントゥ村がある。
バガン遺跡の中でも例外的な居住地区である。
昔から住んでいた人々はオールドバガンに住めるが、
他の人々はニューバガンに住むことになった。
ミンナントゥ村 16:18
竹で組み立てた素敵な塀 16:19
落花生の収穫作業 16:20

ミンナントゥ村見学 16:21
バガン地区の村の中で、外国人観光客が村を見たいとの要望の応じてきた村。
英語の達者な村の案内人が居る。
普段は見る事のないミャンマーの村の人々の生活風景を見ることができる。
村民約600人/約120世帯
2016年からミンナントゥ村に電気が来るようになった。
村人の中にはこの機会を捉えて自宅を簡易カフェに一部改装したり、
手作りの竹細工や織布などを販売している家も出てきている。

居間、台所 16:21
洗濯干し 16:22
機織り 16:28
住居 16:29
牛小屋
屋根はシュロの葉で葺かれている。
牛の餌作り 16:30
種を撮った後の落花生を裁断している。
台所 16:31
糸紡ぎ 16:34
糸紡ぎしていた家族
家族の写真等 16:40
ヤシの実の灰皿を持ちながらトウモロコシの葉巻を吸う老婆
トウモロコシの煙草

バガンの夕日を見に近くの丘に行く
ゴマ畑とパゴダ 16:56
ミャンマーはゴマと落花生の生産が多い。
土産品の菓子にも、ゴマと落花生が使われている。
落花生は日本のものより実が小さい。
バガン遺跡では珍しい白い寺院 16:56
プラスター(石膏、漆喰)で白く光っている。
他のパゴダや寺院はレンガむき出しの茶色である。
道端にサボテンの花が咲いていた 16:57
牛の群れが家に帰る 17:07
夕日を見る丘の近くにある池 17:02
夕日を見る丘の駐車場 17:08
夕日見物の人々 17:09
夕日 19:09
夕日とパゴダ 19:09
夕日とパゴダ 19:11
バガンの夕日を見る大勢の見物人 19:15
夕日 19:22
夕日とパゴダ 地平線に沈む太陽 19:24
夕日とパゴダ 地平線に沈む太陽 19:25
夕日とパゴダ 地平線に沈んだ直後の夕日 19:26
夕日見物修了 17:26
丘周辺の池 17:27
帰る観光客 17:30
傾いた小さなパゴダ 19:32
ナンダ レストラン(NANDA RESTAURANT) 17:45
ナンダ レストラン(NANDA RESTAURANT) 17:45
ナンダ レストラン 17:46
奥の舞台で人形劇を行う。
夕食 ミャンマー伝統料理 18:28
人形劇 18:32
人形劇 18:37
人形劇 18:38
人形劇 19:07

HOTEL SINCERE SMILE(ホテル シンシアー スマイル) 19:30着 
盛りだくさんの長い1日であった。 
日本から持ってきた日本酒を軽く一杯飲んで就寝した。

第3日目 2019年11月15日(金)


起床7:00、ロビー集合8:45


ホテル シンシアースマイル113号室から眺め 7:13
ホテル シンシアースマイル正面入口  7:14
朝食 屋外レストラン  7:38
朝日が眩しかった。

朝食  7:38
小型トラックバス  8:00
ピックアップトラックを改造したミャンマーではよく見かける。
ホテル シンシアースマイル正面入口にて 8:02
シュロぶきの屋根  9:16
シュロぶきの屋根の建物  9:16

シュロ酒と砂糖作りの工場訪問
 落花生をすり潰して油を取っている。 9:19 
訪問客に乗ってみたらと勧めていた。

シュロ酒を作る原料と道具  9:17
シュロ樹液やトッディなどのヤシ科の植物の実
シュロ(サトウヤシ)の木の樹液を採りに登る。 9:25
毎日採取するので梯子がかけられている。
毎日シュロの花柄を切って樹液を取るので花柄を少しづつ削る。
樹液を壺に溜めるため壺の交換に毎日登る。
5月中旬から雨季に入ると、壺に雨が入るので樹液を溜める採取を行わない。
回収してきたシュロの樹液の入った壺  9:28
溜めている間にも発酵が進んでいる。 

シュロ樹液と米、砂糖を入れておく  9:40
2~3日で発酵しシュロ酒「タンイエ」ができる。
シュロ酒(ヤシ酒)から蒸留酒である「アラック(arak)」を造る。9:41
土釜に置かれたシュロ酒が入った壺を加熱して、金属の上皿に水を入れて蒸留する。
上皿の下に受け皿があり、滴り落ちた蒸留酒をパイプで瓶に導いている。

シュロ酒を試飲 9:24
ミャンマーでは自家醸造は無税だという。
ミャンマーの酒税は1リットル当たり29001チャット(約2230円)以下なら
価格の約12%である。

シュロの樹液を煮詰めて砂糖を造っている。 9:34
燃料は落花生の殻

シュロの樹液で造った黒砂糖  9:34
土産として販売している。

竹ひごで飾りものを作って売っている。
落花生を乾燥させる作業 9:45
混ぜたりザルで移動したりしている。
お茶とピーナッツ、ゴマ等のつまみ  9:47
混ぜて食べるととても美味しかった。

ポッパ山(ポッパ山国立公園)
喜捨を求める人 10:23
バガンから南下する道路から左折して
ポッパ山に向かう道路(Byat Ta Pan Sat Road)だけでの喜捨。
ポッパ山への参詣者が喜捨はみずからの功徳を積むために金品を差し出す。
(施した功徳は本人に返ってくるという)
受け取っている人も、お互いに参詣の時は喜捨をする。
政府はこの喜捨行為を禁止しているが止まらない。
牛車 10:29
ポッパ山(標高:1,518m)  10:35
マンダレー地方域にある玄武岩の火山、バガン南東の平原に位置する。
喜捨を求める人  10:36
喜捨を求める人 10:37
Nay Min Thar Hotelからの展望  10:55
ポッパ修道院(Mont Popa Monastery)  10:51
寄生火山の突岩(岩頸)であるタウン・カラット(標高737m)には
ミャンマーの土着信仰であるナッ信仰の総本山がある。
「天空の寺院」と呼ばれている。777段の階段を上ってたどり着く。
寄生火山(側火山):大きな火山の側面に付随して生じた小火山体
ポッパ修道院麓のマーケット  11:04
ナッ神に捧げる糸付きの黄色い花飾り  11:07
地元でたくさん咲いているという。
「ポッパ」はサンスクリット語で「花が溢れた」を意味する。
ナッ神に捧げる黄色い花
レンギョウとか蝋梅の花に似ている。
ナッ神洞窟の入口  11:08
ハリコの虎が置いてあった。
37人のナッ神を祀る  11:09
ナッ信仰は仏教伝来以前から存在した。
ナッ神はみな元は実在した人間
ナッ神のひとり  11:10
ナッ神について説明するガイド  11:11
バナナとヤシの実の捧げもの  11:12
ナッ神達  11:17
2匹の象が守る寺院  11:20
見上げるとポッパ修道院  11:21
ポッパ山の中腹にポッパ・マウンテン・リゾートが見える  11:24
ポッパ・マウンテン・リゾート入口  11:34
ポッパ・マウンテン・リゾート入口  11:35
 ポッパ・マウンテン・リゾート 象のお迎え  11:38
 ?  11:39
  ポッパ・マウンテン・リゾート レストラン  11:41

ポッパ山標高1518m寄生火山である玄武岩のタウン・カラット(標高737m)11:41
ポッパ・マウンテン・リゾートでランチしながらタウン・カラット方面を眺める。
 昼食  11:53
 昼食 アジア料理と記載されている  12:03 
 ポッパ・マウンテン・リゾート レストラン  12:49
 ポッパ・マウンテン・リゾートからの展望  12:50
 ポッパ・マウンテン・リゾートからの展望  12:50

 ポッパ・マウンテン・リゾートからの展望  12:50

玄武岩のタウン・カラット(標高737m)を掌に乗せる
ポッパ山(マンダレー)

玄武岩のタウン・カラット(標高737m)をつまむ

玄武岩のタウン・カラット(標高737m)

ポッパ山の寄生火山であるタウン・カラットにある寺院  12:50
ミャンマーの土着信仰であるナッ信仰の総本山

ナッ信仰の神々
 帰路 ポッパ山を望む  13:13
 喜捨を求める人、日陰に居る 13:20
ポッパ山道路(Byat Ta Pan Sat Road)
喜捨を求める人、日陰に居る  13:20
ポッパ山道路(Byat Ta Pan Sat Road)
 喜捨を求める人、日陰に居る  13:21
 ガソリン価格 オクタン価92 945チャット/リットル(約73円/L)  14:00
 ガソリンスタンド、トイレ休憩 14:02

スラマニ寺院(Sulamani Temple)

スラマニ寺院(Sulamani Temple) 14:33
バガン王朝の最盛期の1183年に建立した優美な寺院。
スラマニは、「最高の宝石」「小さなルビー」を意味する。
タビィニュ寺院やダマヤンジー寺院に似ている。
またティーローミンロー寺院のモデルとなった。

ミャンマー地震 (2016年8月)により尖塔部が崩壊・修理中 14:34

ミャンマー地震 M6.8 (2016年8月)により崩壊した説明用写真パネル
1975年にも地震があった。
ミャンマー地震 (2016年8月)前のスラマニ寺院(2015年旅のアシアトより)

スラマニ寺院 正面門  14:34
スラマニ寺院  14:35

スラマニ寺院 14:40
スラマニ寺院 レンガの天井・壁
精密なレンガ組み
レンガは緊密かつ丁寧に敷き詰められいる。
レンガの隙間に針を刺して検査したという。
何度もの地震を経験しているが、基本構造はしっかりと残っている。

黄金の仏像 14:40
東西南北それぞれに仏像が安置されている。

花売りと壁画 14:40

フレスコ壁画1 14:41
回廊に描かれたフレスコ画で有名な寺院
いろいろなデザインのフレスコ壁画が見られる。
仏陀の生涯を描いた多くのフレスコ壁画2 14:44
フレスコ壁画3
フレスコ壁画4
フレスコ壁画5
フレスコ壁画6
涅槃仏 フレスコ壁画7
フレスコ壁画8
色彩の仏像  14:51
フレスコ壁画9
フレスコ壁画10
フレスコ壁画11
フレスコ壁画12
フレスコ壁画13
色彩の仏像  14:56
こんな髪型の仏像もあるのかと思ったが天蓋であった。
フレスコ壁画14
フレスコ壁画15
フレスコ壁画16
フレスコ壁画17
フレスコ壁画18
フレスコ壁画19
黄金と色彩のある仏像 15:02
1994年に修復された。
フレスコ壁画20
フレスコ壁画21
フレスコ壁画22

振り返ってみたスラマニ寺院 15:08
スラマニ寺院 土産店 15:08
スラマニ寺院 土産店 15:10
人形劇用の人形が並んでいた。
スラマニ寺院 絵画土産店 15:11
スラマニ寺院 木彫り土産店 15:12
 スラマニ寺院からホテルに戻るときに見かけたパゴダ 15:14
 スラマニ寺院からホテルに戻るときに見かけた 15:31
自転車で集団帰宅する生徒たち
 スラマニ寺院からホテルに戻るときに見かけた寺院やパゴダ 15:28
 スラマニ寺院からホテルに戻るときに見かけた寺院やパゴダ 15:31
一旦 ホテル・シンシアースマイルに戻る  17:14
今日のレート 1550チャット/US$(ロビーにて)、両替は、US$とEuro のみ

バガン・ガーデン・ホテルへバスで夕食に行く。
 バガン・ガーデン・ホテル入口 17:31
 パゴダを見ながらのディナーへ 17:33
バガン・ガーデン・ホテルにて
 ディナー前に乾杯 17:43
 バガンの夕暮れ 17:48
ディナー(西洋料理とのこと)18:40

ホテル・シンシアースマイル着19:00
軽く一杯飲んで就寝

第4日目 2019年11月16日(土)


5:00起床、6:00朝食、6:45出発
 ホテル シンシアースマイルにて朝食 6:11
 ホテルに置いてあったかつての装飾のある乗用牛車 6:42
観光用気球と鳥  6:51
別なツアー参加者が泊まっていたホテルで見かけた  6:51
 気球を見上げる 6:51
 プルメリア 6:54
 バガン空港に行く途中で見かけた観光用気球 6:58
観光用気球は乾季の早朝飛ぶ、約1時間約4万円。
観光用気球とパゴダ  7:01
バガン空港  7:09
Air Thanlwin YH-917  8:04
バガン空港8:15ー8:46マンダレー国際空港
Gateから歩いて飛行機に乗る。


Air Thanlwin YH-917 荷物の搭載  8:06
エーヤワディー川 Ayeyarwady (イラワジ川 Irrawaddy)全長2170km  8:20
ヒマラヤ山脈の南端を源泉として、ミャンマーを北から南に縦断する。
マンダレー国際空港  8:46
 マンダレー国際空港手荷物引渡場(バゲッジクレーム)にて 8:58
89才(1930年・昭和5年生れ)一人参加のツアー客。
心身ともしっかりしていて自分のスーツケースも難なく運んでいた。

アマラプラ

アマラプラは、ビルマ王朝が点々と都を移し続けていた18-19世紀の動乱期に
1783年~1823年と1841年~1857年と二度に渡り王都が置かれた古都である。
マハガンダー僧院 朝食へ行く修行僧の行列  10:17
1000人近い僧侶のいるミャンマー国内で最大級、最高位の僧院。
マハガンダー僧院 10:18

黄色ナンバーは僧侶の車  9:54
自動三輪タクシー 10:28

運賃交渉制のタクシー、庶民の交通機関としての役割を担っている。

乗車価格は1キロメートル以内の場合 1,000 チャット(=約 82 円)
 マハガンダー僧院  10:31
 マハガンダー僧院  10:32
マハガンダー僧院からウーベイン橋 へ  10:35
ウーベイン橋(U Bein Bridge)   10:38
ウーべイン橋  10:38
タウンタマン湖をまたいでかかる全長1.2kmのチーク材のみで建設された歩道橋。

1849年に王都をインワからアマラプラに移す際に、
ウーべイン市長の指示により使われない旧王宮のチーク材を使ってつくられた。
一部地震で崩壊したためコンクリートで補修した部分がある。
対岸にある街や寺院に行くための生活道路として現在も使われている。
アマラプラ ウーベイン橋
ウーベイン橋  10:44
タウンタマン湖を観光している小舟 10:47
ホテイアオイがたくさん浮かんでいる 10:54
タウンタマン湖で漁をする人 10:55
近くに作業小屋がある。
ウーベイン橋のベント部分 10:58
先方の曲がったところから少し下がった段差がある。
対岸へ続く橋 10:59
乾季の干上がった場所で野菜等を作っている 11:00
ウーベイン橋で記念撮影をする若い親子 11:09
ロンジースタイルがよく似合う。
1086本のチーク材の橋脚 11:17
1000チャットの喜捨で写真を撮らせてもらった。 11:18

マハムニパゴダ・旧王宮・シュエナンドー僧院

世界3大仏教遺跡として「バガン」よりも歴史は古い「マンダレー」
マハムニパゴダ入場券売り場  11:39
マハムニパゴダ入口  11:48
マハムニパゴダで記念撮影 11:54
マハムニパゴダで記念撮影(上の写真の親) 11:54
マハムニパゴダ鐘楼の鐘 11:55
本堂に祀られているマハムニ仏  11:56
ハムニパゴダは、コンバウン朝第6代ボードーパヤー王(在位1782-1819年)が
ビルマ南西部のヤカイン地方を制圧した際、
ヤカインの都から招いたマハムニ仏を祀るために建設された。
金箔が貼られたマハムニ仏(高さ4m)  11:59
このパゴダはブロンズ製で長い年月を掛けて参拝者らの手によって金箔が貼られた。
自分の体の悪い場所に金箔を貼ると良くなるという言い伝えがある。
マハムニ仏の周り内側は、女性立入禁止なので、
男性が金箔を貼っているところを外側からモニターで見られるようになっていた。
1988年から毎朝4時に僧侶がマハムニ仏の顔を洗い、歯を磨く儀式がある。
1901年と1935年のマハムニ仏の比較写真  12:01
 マハムニパゴダ 12:14
19世紀末にパゴダは火災で焼失したが再建された。
青銅の象  12:14
1569年タイからミャンマーに持ってきたクメール様式の青銅像
 クメール様式の青銅像 12:16
かつてこのように展示していた青銅像  12:16
青銅像  12:17
青銅の象  12:17
  マハムニパゴダ 12:18
自分の誕生曜日の仏像に水をかける習わし  12:22
私の誕生曜日は木曜日であった。
マハムニパゴダ本堂までの回廊の両側は土産店が並ぶ  12:23

昼食(ミャンマー料理・Myanmar Cuisine) 14:23
A little Bit of Mandalay ホテルにて

旧王宮

 ビルマ・コンパウン朝の旧王宮 14:42
コンパウン朝は、1885年イギリスに占領されたためミャンマー最後の王朝となった。
財宝の多くはイギリスに持っていかれ、
現在、ロンドンのヴィクトリア・アルバート美術館に展示されている。
王と王妃の像  14:45
旧王宮  14:45
敷地は1辺3km、高さ8mの城壁、要所要所に物見の塔、
城壁の外側に70mの堀、
完成当時はこの国の建築芸術の粋を集めて造られた王宮であったが、
第二次大戦で焼失し、1990年に再建された。
 旧王宮  14:56
Thibaw王と王妃の像  14:59
Thibaw (born 1858, Mandalay, Burma—died Dec. 19, 1916, Ratnagiri Fort, India),
last king of Burma, whose short reign (1878–85) ended with the occupation of Upper Burma by the British.
 旧王宮  15:07
 旧王宮  15:07
建物群で金色に縁どられているものが公的なエリアの施設
 旧王宮  15:11
えんじ色の建物は王のプライベートエリア
 旧王宮内の展示物 15:14
 旧王宮内の展示物 15:16
 旧王宮内の展示物 15:16
 旧王宮内の展示物 15:17
 旧王宮内の展示物 15:21
タナカ(化粧用の砥石)

シュエナンドー僧院前のアトゥマシー僧院  15:52
火災によって焼失したが再建された。

シュエナンドー僧院(Shwenandaw Kyaung)
シュエナンドー僧院  15:53
外壁、内部ともチーク材を用いた緻密な彫刻が施された木造建築。
かつて王宮の一角にあったがティーボー王がここに移築した。

シュエナンドー僧院  15:53
シュエナンドー僧院の高床式床下   15:56
太いチーク材の柱で支えられている。
手の込んだ彫刻 16:05
屋根や壁面に見事な彫刻や浮彫が施されている。
シュエナンドー僧院本堂  16:07
ティーボー王が瞑想に訪れた寺院、ここは女性立入禁止場所。
 見事な彫刻や浮彫 16:14
精密な木彫

建物側面の彫刻 16:15
 建物側面の彫刻 16:15
  シュエナンドー僧院から見たアトゥマシー僧院 16:15
 シュエナンドー僧院 16:17

クトードォーパゴダ)(Kuthodaw Pagoda)
世界最大の経典を治めた730の白い仏塔群。
1874年にミンドン王が経典をそのまま後世に残すため建造した。
経典38冊分、A4用紙で印刷すると400ページ分を729枚の大理石版に刻みこんある。

730枚目にこれを作った経緯と完成まで6か月かかったことが記載された。

世界最大の経典は、2400名の僧侶を集め約6カ月かけて完成させた。
クトードォーパゴダ入口 16:29
クトードォーパゴダ入口近くにいた子猫 16:31
クトードォーパゴダの模型(真っ白な小仏塔群と黄金のパゴダ)
ミンドン王が世界最大の経典を作ろうと1860年に建設を開始し8年間で完成させた。
仏陀の説教をまとめた経典を刻んだ石板が、729の小仏塔に1枚ずつ納められている。
 真っ白な小仏塔群 16:32
 真っ白な小仏塔群  16:33
真っ白な小仏塔群 16:35
経典を刻んだ石板  16:37
1枚の石板は幅1.1m、高さ1.5m、厚さ15cmである。
クトードォーパゴダ  16:39
黄金の仏塔(高さ57m)
 経典を刻んだ大理石を納めるパゴダ 16:43
 LED光を光背にした金色の仏陀を祈る人々 16:48
 夕日を背景にした白いパゴダ 17:01
 花売りの少女 17:15
 AROMAレストラン(ミャンマー風タイ料理) 17:48
  夕食(ミャンマー風タイ料理) 17:52
 夕食(ミャンマー風タイ料理) 17:55
ホテル マンダレー ロビー 19:51
部屋122号室、軽く一杯飲んで就寝

第5日目 2019年11月17日(日)


5:00起床、6:00朝食、7:00集合
マンダレーホテル朝食 6:05 
マンダレーホテル 122号室宿泊  7:00
マンダレー国際空港へ行く途中の風景  7:31
マンダレー国際空港へ行く途中の風景  7:42
マンダレー国際空港  7:55
出発案内 8:24
8:55  Yadanarpon  Airlines  7Y131  HEH-Heho  Gate12
Yadanarpon Airlines 7Y131便  8:33
 Yadanarpon Airline 7Y131
マンダレー国際空港8:55ー(7Y131便)-9:20ヘイホー空港
 マンダレー国際空港上空 8:45
マンダレーの中央高原地帯  8:59
 雲が中央高原地帯から発生し平地に流れて行く 9:12
 ヘイホー空港上空 9:16
ヘイホー空港  9:21
インレー地域観光に便利なローカル空港
Yadanarpon Airlines 7Y131便( 機体ATR72-600) 9:22
フランスイタリア航空機メーカーが合弁したATR社製のターボプロップ双発旅客機
ヘイホー空港 9:41
空港名が見当たらない超ローカルな空港
インレー地区入域ゲート・料金所 10:18
インレー地区(インレー湖・カックー遺跡等)に入るのに
外国人一人当たり15000チャット(約1150円)を支払う。
 インレー湖の北側の港(Nyaung Ahwe) 10:23
インレー湖周辺概略地図 10:26

インレー湖

シャン州タウンジー県ニャウンシェ郡区
ミャンマーの古代湖、シャン丘陵に位置する淡水湖
かつて、インレー湖は4つの小さな湖だった。
イン:「湖」、レー:「4」を意味する。
標高:約884m、南北約18㎞・東西約5㎞、平均水深約2m
Yadanapon Airlinws Magazine  8 July 2019発行
足で櫓を操りながら独特な漁をする村民たち

インレー湖遊覧 10:35
北端の船着場からボートに乗って出発
 川幅が広くなってきた 10:41
ボートで南下  10:44
現地の人達は1艘に10人位乗るが、外国人は4~5名だけ乗せる。
外国人用ボート 10:45

伏せ網漁法
網を仕掛けた釣鐘状の枠を湖に沈め、
湖底をかき回した時に浮かぶ魚を刺し網で捕獲する。
伏せ網
伏せ網を使うインダー族の漁師・立ち漕ぎ
片足で船尾に立ち、もう片方の足を櫂を操る独特のボートの漕ぎ方をしている。
伝統的にフレーと呼ばれる小型のボートが利用されている。
 伏せ網漁船 10:45
 伏せ網漁  10:50
 投網漁 10:54
 投網漁  10:55
 漁師と水上家屋 10:58
 投網漁  11:19
あちこちで漁をしていた。

 浮き畑
流されないように竹竿で水底に固定している
浮き畑ではトマトナスキュウリトウガラシなどの野菜が栽培されている。
トマトはミャンマーの8割を生産している。
上空から見た浮き畑
バガン空港にあった気球遊覧看板
 浮き畑
流されないように竹竿で水底に固定している

浮き畑と湖上に建てられた家屋
 湖上に建てられた家屋
インダー族は湖上の浅瀬に建てた高床式の水上家屋で生活を営む。
水上村落に葉巻工房、織物工房などある。
 高床式の水上家屋 11:24
 湖上にかかる送電線 11:29

 湖上にかかる送電線 11:30
 高床式の水上家屋 11:30
ホテイアオイをロープで固定し境界にしている。
手織物工場  11:31
  KHIT UNN YIN(ハス繊維、絹織物手織物センター)  11:34
 4人乗りボートで到着 11:34
機織り場 11:35
 ハス繊維で手織り中 11:47
手織りの絹織物で高品質の織物は「インレー・ロンジー」と呼ばれている。
ハスの繊維を利用した独特の生地はインレー地域でのみ作られており、
ハスの生地からは仏像に着せる服「ハスの着物」が作られる。 
 ハスの茎から繊維を取り出している  11:37
 ハスの繊維でできた織物  11:40
機織り機 11:43
機織り休憩中
 ハス畑 12:40
運河にかかる橋 12:32
パウンドーウーパゴダ(Phaung Daw Oo Pagoda) 12:33
金箔でダルマ状態になった仏像 12:41
参拝者が金箔を仏像に貼り続けるためダルマ状になった。
金箔仏像の経過写真 12:46
花売り 12:51

パウンドーウー祭
パウンドーウー祭
9月から10月にかけての3週間開催される。
伝説上の鳥ヒンターを模した黄金の船カラウェイが湖に現れる。
4隻用意されパウンドーウー寺院に安置されている仏像を格納する。

黄金の船カラウェイ 12:54
伝説上の鳥ヒンター 12:54
ボートレースの船を保管している  12:55
カラウェイが帰還する最終日にはボートレースが開かれる。 

Phaung Daw Oo Pagoda近くにある小学校 12:56

パウンドーウーパゴダ境内 12:59

パウンドーウーパゴダ境内  13:01

インレー湖の環境問題

浮き畑の開発
インレー湖の水面面積は69.10km2から46.69 km2に減少した。(AFPより)
インレー湖の浮き畑 (Google Map)
湖の両側に浮き畑が作られている。

インレー湖の環境問題
人口の増加と農業と観光産業の急速な発展、浮き畑の開発、
湖に注ぐ河川へのシルト(沈泥)と栄養分の流入増加、
湖の水位の年々低下
土壌の堆積、湖の富栄養化公害が発生している。
インレー湖に自生していないホテイアオイも、大きな問題となっている。
大規模な浚渫機とポンプを使用した汲み上げは、
ホテイアオイの増加抑制に一定の効果を上げている。
未処理の汚水と家庭からの排水が湖に流れ込むため、
公衆衛生局は湖の周辺の村の衛生状態に継続的に注意を払っている。
湖の水質を調査した結果、飲食への使用には不適であることを示す結果が報告された。
衛生面で安全な水を確保するため井戸水を飲用・調理に使用している。
湖での騒音も大きな問題になっている。
ボートに搭載された安価で低質なディーゼルエンジンが船尾に付けられたプロペラを
駆動させる音が大きく、静寂な環境が壊されている。 
古代湖(世界で20ほどしかない)は一般に、その地域だけに生息する固有種が
進化・生息するため、生物学的にも貴重な自然環境であるが、
2016年の淡水魚類調査で約4割が外来魚になっていた。

 昼食(郷土料理) 13:16
 湖畔に建つレストラン 13:18
 レストランからホテルに行く途中で見た漁船 14:20
 INLE GARDEN HOTEL入口 14:21
浮き畑の奥にホテルがある。
  INLE GARDEN HOTEL 14:26
  INLE GARDEN HOTELで観光バスに乗車 14:30
カックー遺跡に行く(約50㎞、約1時間半)

カックー遺跡
インレー湖東側の山を越えた山中に、パオ族の人々が生活をしている農村にある。
2,000年に外国人旅行者に開放された。
紀元前3世紀にインドのアショーカ王によって建て始め、
大きな仏塔は12世紀に、小さな仏塔は16~18世紀のバガン王朝の時に
地域住民の各家ごとに地位や予算に合わせて建てられた。
現在2478塔が林立している。
1975年の地震によりほとんどの仏塔が壊れ、
2016年4月の台風でも大きな被害があったが現在周辺を固めて丈夫に修復されている。
仏塔の上の金の飾りも台風で壊れたが修復された。
カックー遺跡 16:03
上空から見たカックー遺跡  16:08
GoogleMapより

カックー遺跡 16:10

2019年11月17日(日)16:10
カックー遺跡(シャン州タウンジー県ニャウンシェ郡区)(インレー湖の東側)
カックー遺跡は裸足で廻る。
カックー遺跡  16:11
カックー遺跡  16:13
飾りを付けた仏塔  16:22
多くの飾りを付けた仏塔  16:23
 多くの仏像の飾りを付けた仏塔 16:24
仰向けに横たわる涅槃仏と弟子たち  16:26
仰向けに横たわる仏陀は珍しい。
太陽に輝く白い仏塔  16:27
金色の仏塔  16:31
塔の上部の飾りが風が吹くと風鈴のように鳴る。
 白く一番高いのがアショカ王の仏塔という 16:32
地震や台風で荒れたところは修復中  16:33
裸足なので足が痛い。
 金色の豚 16:34
カックーという名前が付けられる前は、ワックーという名前であった。
ワックーは「豚に助けられた」という意味。
シャン族の農民が探し求めていた仏像を豚が掘って見つけたという。
カックー遺跡は丘の上にある 16:36
カックーというのは「境」を意味する。
カックー遺跡の近くを流れている川がシャン族とパオ族の州境であった。
 下の川沿いからカックー遺跡に登る階段 16:40
黄金の仏像  16:42
仏塔を守るスフィンクス  16:44
夕日を浴びた仏塔群 16:48
参道の奥の白い塔は、アショーカ王が建てたという。

水面に映った仏塔群   16:52
カックー遺跡   16:58
風が吹くと仏塔の上部の金属の飾りがきれいな音色を奏でる。
カックー遺跡のレストラン前の星形にした野菜畑 19:03
パオ族の女性 17:08
カックー遺跡のレストランの裏手で洗濯物を取り込んでいた。
パオ族の黒い衣装と独特な頭飾り(スカーフを龍の形に巻く) 
カックー遺跡のレストランからの展望 17:10

カックー遺跡からヘイホーにあるHuPin Hotelまでは、夜道になるので
狭い道を避けて広い道を大廻して観光バスは走った。
 夕食(インレー料理)19:21
 フーピンホテル(Fu Pin Hotel) 20:20
 夕食後ホテルの客室でシュロ酒をたしなむ 21:23
ミャンマーのローゼワイン 21:50
16000チャット(約1230円)
 Hupin Hotelの近くのマーケットで買ってきたて飲んだ。

第6日目 2019年11月16日(月)

5:00起床、6:00朝食、7:45集合
フーピンホテル(Fu Pin Hotel)804号室からの風景  6:39
インレー湖の北、ニャウンシェ(Nyaung Shwe)町
 フーピンホテル(Fu Pin Hotel)804号室からの風景  6:40
 フーピンホテル(Fu Pin Hotel)804号室からの風景  6:40
フーピンホテル(Fu Pin Hotel)804号室からの風景  6:41
首長族(カヤン族)の絵  6:43
ホテルに飾ってあった絵  6:43
 フーピンホテル(Fu Pin Hotel)804号室から修行僧を見る 6:48
托鉢の修行僧たち  6:48
変圧器と電柱 6:54
  フーピンホテル(Fu Pin Hotel) 6:55
  フーピンホテル(Fu Pin Hotel)近くのマーケット 6:56
T&T Mini Marketを散歩  6:57
 T&T Mini Market朝市 野菜 7:00
T&T Mini Market朝市 7:01
 T&T Mini Market朝市 魚 7:01
 T&T Mini Market朝市 7:04
T&T Mini Market朝市 花  7:05
 T&T Mini Market朝市 ヤシの実 7:09
T&T Mini Market朝市 スイカ  7:12
少年  7:20
ターッチ池を背景にBogyoke公園にて
ミャンマー語や手振りで写真を撮ってくれという少年。
 手作りした荷物用三輪自転車 7:26
 フーピンホテル(Fu Pin Hotel) 出発 7:48
 ヘイホー空港へ行く途中でバルーンを見た 7:55
ヘイホー空港 8:38
かなりローカル空港なのに外国人観光客が多いので入国管理がある。
Yadanarpon  Airlines  7Y131便  9:48
Yadanarpon  Airlines   Heho 9:45 -(7Y131便)-11:10 Yangon
座席は全て自由席(初めての経験)

ヤンゴン国際空港到着11:10


ヤンゴン(Yangon)

ヤンゴン(旧ラングーン)はミャンマー(旧ビルマ)最大の都市。
首都は、人口集中や交通渋滞解消のため2006年にヤンゴンからネピドーに移転した。
英国植民地時代の建築物と近代的な高層建築、黄金に輝くパゴダが混在している。
ヤンゴンの人口は約550万人。熱帯モンスーン気候。
1989年、「ラングーン」から「戦いの終わり」を意味する「ヤンゴン」に改称。


ヤンゴンは、6世紀当時は小さな漁村だったが「モン族」によって開発された。
1755年に「アラウンパヤー王」がこの地を征服し「ヤンゴンと改名」した。
1852年、英国は第二次英緬戦争によってヤンゴンを占領し「ラングーン」に変更した。
1942年から1945年にかけて、ヤンゴンは日本軍により占領された。
ヤンゴンは、第二次世界大戦中に甚大な被害を受けた。
1948年1月4日、英国から独立しヤンゴンをビルマ連合の首都となった。
1988年以降23年間も続いた軍事政権であったが、
2011年3月、テインセイン大統領を国家元首とする民政に移行した。

 ヤンゴン市内の渋滞 12:03
ヤンゴン中央部は、オートバイの通行が禁止なので走っていない。
自転車も大通りは通行禁止。
軍事政権が2003年頃、通行規制をかけた。
黒ナンバーは自家用車、赤ナンバーは業務用自動車、黄色ナンバーは僧侶の車。
12:19
 ヤンゴン市内の渋滞 12:30
 聖マリア大聖堂 12:33
ミャンマー最大のカトリック大聖堂、1895年建設、1996年世界遺産認定
官庁  12:37
Monsoon Restaurant & Bar Yangon  12:42
昼食(モヒンガー料理)、シャン族料理でナマズ麺
 Monsoon Restaurant & Bar Yangon 12:43
ヤンゴン市街南部(スーレーパゴダ)付近
ヤンゴン市街南部(スーレーパゴダ)
スーレーパゴダ(高さ48m、八角形)、市庁舎、マハバンドゥーラ公園
ラウンドアバウト(環状交差点)
ミャンマー独立記念塔(高さ46m、1950年建設) 14:06
1948年1月4日独立
ヤンゴン市庁舎 14:07
英国領時代の1903年に建てられた。
前の最高裁判所 14:11
現在の最高裁判所はネピドーにある。
 露店屋台 14:13
昼から夕方にかけてはマハバンドゥーラ公園の東側
マハバンドゥーラ・ガーデン・レーン沿いに屋台・露店が立ち並ぶ。
露店屋台 14:14
 露店屋台 14:16
露店屋台 
ヤンゴン市街  14;21
ヤンゴン市街  14:21
 ヤンゴン市街 モール 14:45
土産購入のため立寄る。
モールを小銃を持った多くの警察官があちこちで警備していた。 14:47
 パノラマホテルからの景色 16:28
帰国前にホテルでシャワータイム
  パノラマホテルロビーにて 17:06
 タイン・イン・ター(TAING YIN THAR) レストラン 18:05
ミャンマー民族料理レストラン
 サウン・ガウ(ビルマの竪琴) 18:05
ミャンマーの伝統的楽器、9世紀頃から王宮音楽・仏教音楽で使われている。
タイン・イン・ター(TAING YIN THAR) レストランに飾られていた。
 タイン・イン・ター(TAING YIN THAR) レストラン 18:05
 夕食(シャン料理) 18:41
ヤンゴン国際空港にて集合写真 20:00
ツアー参加者12名、ガイド:アウンシーピョー氏

ANA(ALL NIPPON AIRWAYS CO., LTD.)
全日本空輸株式会社、14,242名(2019年3月31日現在)
Yangon 22:10-(NH814)-6:45 Narita

第7日目 2019年11月19日(火)


2019年11月19日(火)6:30
ANANH-814便 成田国際空港着
2019年11月19日(火)7:14
成田空港7:30発ー東京駅八重洲口前9:00着 
高速乗合バス(京成バス)1,000円

東京駅ー(中央線)ー立川駅ー(青梅線)-拝島駅ー(武蔵五日市線)ー秋川駅
11:30 自宅着

集合写真等

2019年11月13日(水)19:24 
シュエダゴンパゴダ(YANGON)
2019年11月14日(水)9:23
BAGAN NYAUNG U 空港
2019年11月14日(水)9:23
BAGAN NYAUNG U 空港
2019年11月14日(水)10:08
シュエジーゴンパゴダ(BAGAN)
 2019年11月14日(水)11:06
ティーローミンロー寺院(BAGAN)
2019年11月14日(水)11:43
アーナンダ寺院(BAGAN)
2019年11月14日(水)12:05
タビニュ寺院(BAGAN)
2019年11月14日(水)15:58
ダマヤンジー寺院(BAGAN)
 2019年11月14日(水)17:26
バガン・ニャウングー間の盛土展望台からの夕日鑑賞
 2019年11月15日(金)10:56
ポッパ山(マンダレー)
 2019年11月15日(金)11:50
ポッパ山(マンダレー)
ポッパ・マウンテン・リゾートからの眺望
 2019年11月15日(金)
ポッパ山(マンダレー)
 2019年11月15日(金)14:37
スラムニ寺院(BAGAN)
 2019年11月15日(金)17:43
パゴダを見ながらの夕食(マンダレー地区・バガン)
タジン・ガーデン・ホテルにて
 2019年11月16日(土)10:44
ウーベイン橋(アマラプラ)
 2019年11月16日(土)11:16
ウーベイン橋(アマラプラ)
 2019年11月16日(土)15:08
旧王宮(マンダレー)
2019年11月16日(土)16:42
クトードォーパゴダ(729パゴダ・パーリ語仏典)
2019年11月17日(日)7:02
ホテル・マンダレーにて
2019年11月17日(日)8:12
マンダレー国際空港にて、ロンジースタイル
2019年11月17日(日)16:10
カックー遺跡(シャン州タウンジー県ニャウンシェ郡区)(インレー湖の東側)
2019年11月17日(日)16:53
カックー遺跡
2019年11月18日(月)14:09
ヤンゴン市庁舎・スーレーパゴダ前(YANGON) 
マハバンドゥーラ公園にて
2019年11月18日(月)17:06
パノラマ・ホテル(YANGON)
2019年11月18日(月)20:00
ヤンゴン国際空港(YANGON)
2019年11月18日(月)20:00
ヤンゴン国際空港(YANGON)
ツアー参加者12名
ミャンマー人ガイド:アウンシーピョー氏(38才)

土産





Ywar Ngan Organic COFFEE 250g  @7,500Kyat
ゴマ・ピーナッツ@1,250Kyat         黒ゴマブリトル@1,100Kyat
Myanmar Pure Honey @4,400Kyat
竹ひご+馬の尾の毛+漆塗りカップ $10+$8
カエルの鳴き声が出る玩具 3,000Kyat


ミャンマー連邦共和国

インドシナ半島西部に位置する共和制国家
ミャンマー連邦共和国(2010年~)
ミャンマー連邦(1989年から2010年)
ビルマ連邦(1948年1989年)
首都:ネピドー(2016年10月10日~)、旧首都:ヤンゴン(~2016年)
人口:5,142万人(2014年)
ミャンマーは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイ
国境を接する東南アジアの国で、
135 以上の民族が存在している多民族国家

国旗(2010年10月21日制定) 国章(2008年採用)
ミャンマー地図
Myanmar 危険情報(外務省) Level1, Level2, Level3

●ラカイン州マウンドー県:2016年10月及び2017年8月の治安機関に対する襲撃事案以後,情勢が不安定化し,高い緊張状態が継続している。
シャン州コーカン自治地帯,カチン州ライザー周辺:少数民族武装組織の活動地域では依然として不安定な情勢が続いる。

ロヒンギャ問題

バングラデシュと国境を接するラカイン州北部に位置するマウンドー県では,
2012年6月以降,仏教徒とイスラム教徒の間で衝突が発生し,
多くの死傷者及び避難民が出たことから,同州全土に緊急事態宣言が発令された。
その後,情勢は一旦安定し,2016年3月,緊急事態宣言は取り下げられたが,
2016年10月,武装集団による国境警備警察本部などへの襲撃事件が発生した。
また,2017年8月,「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」を名乗る武装集団により,30カ所以上の治安拠点などが襲撃される大規模な事件が発生し,
襲撃後の国軍・治安部隊による掃討作戦を契機として,大きな人的,物的被害が生じ,
70万人以上が避難民としてバングラデシュに流出した。
現在,特に北部マウンドー県内のマウンドー地区やブティダウン地区では,
夜間外出禁止令(21時から5時まで)が依然発出されており,
高い緊張状態が継続してる。

ロヒンギャについて
難民となったロヒンギャ、約90万人(2018年8月)



難民問題 歴史的経緯

ミャウー朝アラカン王国は15世紀前半から18世紀後半まで、
現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた。
この時代、多数を占める仏教徒が少数のムスリムと共存していた。
アラカン王国は1785年にコンバウン朝の攻撃により滅亡し、
その後、旧アラカン王国の地は40年ほどコンバウン朝による統治がなされるが、
それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難した。
コンバウン朝は第一次英緬戦争に敗北し、
1826年にラカインは割譲され英国の植民地となった。
ベンガル側より、コンバウン朝の支配から逃避していた人々が回帰したことに加え、
新しく移住を開始する者も増え、大勢のムスリムが定住していった。
このような急激な移民の流入が、
北部ラカインの仏教徒とムスリムとの共存関係を崩した。
1886年、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡、
ビルマ全土が英領インドに編入された。
これにより多数のインド系移民(印僑)が流入するに至るが、
下層労働者としての移住者であり、3-4年ほどでインドに戻る短期移民であった。
だが、ラカイン北西部に移民したムスリムは、
同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、
仏教徒との軋轢を強めていった。
20世紀初頭からインド系移民への排斥感情が強まり、
1939年、英領ビルマでは、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、
外国人との通婚にさまざまな制限を課す法律が植民地議会を通過して施行され、
実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を制限しようとした。
また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、
日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、
仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。
これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化すると
ラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。
しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、
ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る。
特に、ビルマの戦いにおける1942年の戦闘では、
英軍側のムスリムによって2万人以上のラカイン人が殺されたといわれ、
今日に至るまで、ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている。
1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国からの独立を達成した。
しかし、ビルマは独立直後から、民族対立・宗教対立・イデオロ対立などにみまわれて、混乱は収束することなくそのまま内戦に突入した(ビルマ内戦)。
ラカイン州も例外ではなく、
当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接する北西部は、
1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。
東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人(ムスリム)がラカインに流入し、
そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。
流入したムスリムのなかには、1960年代初頭に政府軍によって鎮圧された、
ムジャヒディンを名乗るパキスタン人の率いた武装反乱勢力も存在した。
この混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として
「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった。 
現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、
1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。
ビルマ人の歴史学者によれば、
アラカン王国を形成していた人々が代々継承してきた農地が、
英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール制度」によって奪われ、
チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。
この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、
この国境地帯で熟成していったと説明している。
日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、
失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。
1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。
そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。
市民権法はロヒンギャに限らず、
1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、
あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった。
現在のミャンマーは、
新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため、
ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い。
ただし、みずからロヒンギャであることを否定し、
「ベンガル人」であることを認めた者については、帰化が認められた例がある。
ミャンマーではリベラル派など「ベンガル人」への国籍付与を容認する論者であっても、「不法移民のベンガル人」が、ロヒンギャを名乗り、
ミャンマー土着民族を「騙る」ことを止めるならば考慮してもよいという見解である。
ロヒンギャの存在自体の否定が、ミャンマー国内では主流となっている。
なお、ロヒンギャのように国籍を剥奪された住民には、
仮の身分証明書として「臨時証明書」が発行された。
2015年6月1日より、これに代わって「帰化権審査カード」が交付されている。
1982年の市民権法に基づいて再審査を行うという意味だが、
前述の理由でロヒンギャのミャンマー国籍は認められない。
1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、
軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、
財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、
ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。
ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、
約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、
国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。
結果、1991年 - 1992年と1996年 - 1997年の二度、
大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、
同国政府はこれを歓迎せず、
国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仲介事業によって
ミャンマーに再帰還させられている。
2017年現在、ロヒンギャの国外流出と難民化の問題は解決していない。

課題
国際社会と人道主義団体(NGO)には、「人間の安全保障」の観点からすれば、
英領植民地時代の遺恨である宗教・民族間の怨讐から生じる差別と迫害
存在することは明らかであるため、
冷静な対応と同時に早急なロヒンギャの身柄保護と
効果的な人道支援を急がねばならない、というジレンマに陥っている。 
一方で、ミャンマーには官民共に強い反ロヒンギャ感情があり、
特にラカイン州の上座部仏教徒住民のそれは甚だしい。
そのため、ミャンマー現地での活動を妨害されないために、
国連や援助団体などは、ロヒンギャ問題の公言を避け、
ミャンマー側の嫌がる「ロヒンギャ」表記さえ避ける傾向にあった。
敢えて問題にする者は「トラブルメーカー」のレッテルを貼られたという。
この難しい局面を打開するために周辺諸国の協力も必要とする声があるが、
マレーシアがロヒンギャの流出にある程度同情的なのに対し、
タイ、バングラデシュ、インドネシアなどは、国連やNGOの批判に取り合わず、
ロヒンギャの正規受け入れを拒否し続けている。
一方、人権団体アムネスティ・インターナショナルは、
「まずは、ミャンマー国内におけるロヒンギャの人権が確保されるべき」と
主張している。 
また、ロヒンギャの側にもアラカン・ロヒンギャ救世軍という武装集団がおり、
彼らはミャンマー軍の暴虐に乗じる形で
ヒンドゥー教徒などの異教徒の村への襲撃を繰り返している。
しかし、国際社会においてロヒンギャは被害者であるため、
ロヒンギャから襲撃を受けた者たちの被害は無視される傾向にあるという主張がある。 

ミャンマー人ガイドによると、
ロヒンギャは、大多数がバングラディシュからの不法移民であり
ミャンマー国籍が欲しくて移住してきている。
そして移住先を自治領か独立国にしたがっている。
彼らは一夫多妻制で出生率が非常に高く脅威である。
国際社会やメディアは、ミャンマー人の被害を報道せず、
ロヒンギャの被害だけを報道しているという。

日本におけるロヒンギャ
難民条約加盟国である日本でもロヒンギャが難民申請しているが、
入国管理局によって退去を強制させられている事例がある。
日本の法廷で争われているとおり、
ロヒンギャ難民の問題には不可解な点が多く認められ、
加えて「難民条約」の定義では解決し難いため、
難民認定は低調な数字のままである。
 在日ビルマロヒンギャ協会によると、2015年6月現在、
日本には約230人のロヒンギャが生活している。
そのうち約200人が、群馬県館林市に集中している。
また、日本政府は、ロヒンギャをミャンマー国籍として扱っているが、
国籍を剥奪されたためにそのほとんどが無国籍である
実態とかけ離れた国籍認定が懸念されている。
その一方で、在日ミャンマー人社会との対立は深まっている。
1988年9月に在日ミャンマー人協会が設立された当初は、
ロヒンギャが協会書記長を務めたことがあるなど、表だった排斥は見られなかった。
しかし2000年以降、ミャンマーの政情が落ち着くと、
在日ミャンマー人の間に
「ロヒンギャ(「ベンガル人」)はミャンマー人ではない」という認識が浸透し、
表だった迫害こそ起きていないが、ロヒンギャは排除されるようになった。
2017年9月13日、東京・渋谷の国際連合大学本部前で、
ミャンマー人らが反過激派、反ロヒンギャのデモを行った。
デモはロヒンギャ過激派(武装勢力)によるテロを非難し、
アウンサンスーチーの支持と、ロヒンギャはミャンマー人ではないと主張した。
ロヒンギャへの迫害とされるものは、
欧米やイスラム教勢力のプロパガンダとする報道を行った。
ロヒンギャの保護を引き受けるべきは、
イギリスとバングラデシュであるとの見解を示した。
日本政府は、2017年、武装勢力による襲撃を「強く非難」した。
一方で人道状況や住民殺害の疑惑、この時点で40万人にのぼる難民流出に
「深刻な懸念」を表明し、治安回復や避難民帰還の実現を求めた。
日本政府はバングラデシュへの避難民支援として、
1500万ドル(支出レートで16億5000万円)の緊急資金協力を決定した。
12月に日本政府はミャンマー政府に対し下記の発言をした。
1.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)支援を引き続き進める。
2.「自由で開かれたインド太平洋戦略」の下、
官民合わせて8千億円の資金投入、文化交流の推進などを行う。
3.ラカイン州の人権・人道状況を「懸念」している。
避難民帰還に関するミャンマー・バングラデシュ合意を歓迎する。
ミャンマー国軍の人権侵害疑惑について、必要があれば処罰を行うよう求めた。
ミャンマー政府は「バングラデシュに流出した避難民」について、
審査の上で受け入れる用意がある」と述べた。

2019年11月25日(月)朝日新聞朝刊記事

2018年、ARSAが最大で99人のヒンドゥー教徒を虐殺したとする報告書を発表した。

国際連合人権理事会(UNHRC)は、UNHRCミャンマー調査団の報告書によると、
「ラカイン州のイスラム教徒に人権はない」と指摘し、
2017年からの掃討作戦は「即時で、残忍で、(武装勢力の脅威に対し)不均衡」であり、
少なくとも1万人が殺害され、ロヒンギャ居住地の4割が焼き払われたとした。
また、治安部隊や他民族がロヒンギャ居住地への「再定住」を進めていると指摘した。

国連安保理においてミャンマー大使は、ARSA「250人以上の非ムスリム少数民族
および、100人以上のヒンドゥー教徒を虐殺」したと主張し、
人道的問題は全てARSAおよび、それを支援した外国のテロ組織に責任がある
とする見解を示した。

BBC 取材 2019.9.11 News

ロヒンギャの村、潰され政府施設に一変
イン・ディン村の変化が上空からの写真で見ることができる。
 2017年9月22日撮影
 2019年4月19日撮影


イン・ディンの住民の約4分の3はイスラム教徒で、残りはラカイン仏教徒だった。
現在、イスラム教徒が暮らした地区は跡形もない。
ラカイン仏教徒の地区は静かで平和だ。
だが、ロヒンギャの家々があった場所に行くと、木々はなくなっていて、代わりに
新たに広範囲に建設された国境警備警察の宿舎を取り囲む鉄条網が張り巡らされている。

ラカイン仏教徒の住民は、

隣にイスラム教徒が暮らす状況は2度と受け入れられないと語った。



カイン・チャウン難民キャンプが建設されたロヒンギャの村の変化

 2017年9月16日撮影
2018年12月23日撮影
ミョ・トゥ・ジーにはかつて、8000人以上のロヒンギャが暮らしていた。

2017年9月、住宅の多くが焼け落ちていたが、大型の建物はまだ残っていた。
ラカイン州の村によく見られる、周囲を取り囲む木々も立っていた。
しかしいま、ミョ・トゥ・ジーがあったところを通ると、
政府と警察の大きな合同庁舎が立っている。木々はない。

2017年9月に、拘束された10人のイスラム教徒が虐殺された事件で悪名高い村だ。

この虐殺は、ミャンマー軍が認めた数少ない残虐行為のひとつとなっている。


ARSA
Arakan Rohingya Salvation Army(アラカン・ロヒンギャ救世軍という武装集団)
2012年3月、ミャンマー国内で抑圧されてきたロヒンギャが中心となって結成。
指導者のアタウラーはパキスタン出身で、サウジアラビアに移住し教職に就き、
富裕層の庇護で豊かな生活をしていた。
しかし、2012年にミャンマーでロヒンギャ「掃討」により、
10万超の難民が発生したのを機に、アタウラーはパキスタンに帰国した。
ターリバーンをはじめとするアフガニスタン・パキスタンのイスラム武装勢力に資金提供し、ジハードへの協力を求めたが、色よい返事は得られなかった。
アタウラーはイスラム武装勢力への不信を強め、
「熱心な民族主義者になって」パキスタンを出国し、ARSA結成に携わった。 
2016年10月に国境検問所など3カ所を約400人で襲撃して、
広く内外に活動が知られるようになった。
2017年8月25日には、再び警察など多数の施設を襲撃した。
ミャンマー軍側は6,500人程度が襲撃に関与したと推定している
救世軍側の武器は乏しく、わずかな銃器の他は、
刃物鉈や鋭くとがらせた竹の棒など簡素なものであったが、
軍側は徹底な反撃を実行した。
軍の掃討作戦を避けるために数十万人規模のロヒンギャが、
隣国のバングラディシュ難民として流出するきっかけとなった。
2016年10月より、新たに難民となりバングラデシュに逃れたロヒンギャは、
2017年6月15日までに7万5千人に達した。
さらに、8月25日の武力衝突から2018年8月までの間だけで、72万5千人に達した。
以前の難民を含めると、90万人以上が難民となっている.

2019年12月8日(日)朝日新聞朝刊記事

2019年12月12日(木)朝日新聞朝刊記事

2019年12月14日(土)朝日新聞朝刊記事

国家顧問:アウンサンスーチー
アウンサン将軍の長女

2015年11月8日の総選挙で国民民主連盟(NDL)が圧勝した。
スーチー氏は、大統領になりたかったが国軍の反対と
外国籍のある家族がいると大統領になれないという憲法59条F項によりなれなかった。
スーチー氏の息子は英国籍なのでスーチー氏は大統領になれない。
2016年3月30日、ティンチョー大統領とする新政権が発足した。
その時、スーチー氏の新役である国家顧問とは、大統領をも指導することができるという
憲法の抜け道をイスラム教徒である顧問弁護士のコーニー氏がみつけ実権を握った。
そのため、後にコーニー氏は反対勢力から暗殺(射殺)された。
国家顧問には国軍を指揮する権限がないので国軍の行動を把握できない。
憲法で国軍が必ずミャンマー議会の25%を握ることになっている。
スーチー氏の国民民主連盟と国軍は、相いれない敵対同志である。
国軍議員からはスーチー氏を「死んだ虎を生き返らせるのか?」とか
「連邦議会に反逆者が来るぞ」とも言った。
23年以上の独裁軍事政権と民主政権は何事も180度違う。
民主政権は「国民によって善かれ悪しかれ支配される」もので軍事独裁政権とは違う。
ロヒンギャ問題などの解決には、スーチー氏は国軍の支援がいる。
スーチー国家顧問は、現在ロヒンギャ問題について沈黙しているが、
今後どのような発言をして解決して行くのか?
スーチー氏は民主政権維持のため国軍と敵対しない(国軍との安定)ことを選んだ
とも言われている。
また、国民の大多数の仏教徒はロヒンギャを憎んでいる。

ビルマ建国の父アウンサン将軍・独立運動家(1940年代)
1947年7月19日暗殺(32歳没)

少数民族武装組織問題

ミャンマー国軍と,2007年までシャン州北部のコーカン地域を実質支配していた
ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)との間では,2014年末に戦闘が再発し,
2015年2月,コーカン自治地帯における緊急事態宣言等が発出され,
軍による空爆等が行われた。
2015年11月,ミャンマー政府は,同宣言等を解除しましたが,
現在も同自治地帯周辺では不安定な情勢が続いている
(コーカン族は漢民族系移民、中国雲南省の国境付近)
反乱軍化したのは同地区で長年行っていたケシ栽培がミャンマー政府によって徐々規制され
経済的に豊かだった同地域が、苦境・飢餓が発生するようになり
2009年8月8日にケシの関連工場の摘発時に突発的衝突が発生してからである。
それが大規模な軍事衝突・反乱に結び付いた。
2016年1月現在、
MNDAA軍はコーカン地区の北端にてミャンマー政府軍との戦闘を継続しており、
度々の政府軍の攻撃にも耐え、紅岩地区で政府軍と対峙している。
未だ遊軍がコーカン地区中部のKonkyan、Tarshwetan付近に出没し、
政府軍へのゲリラ戦を行っている。 

宗教

2014年国勢調査によると、
仏教が87.9%、キリスト教が6.2%、イスラム教4.3%、ヒンドゥー教0.5%、
その他1%、無宗教0.1%という構成になっている。


ナッ神という土着神への信仰も根強く残っている。

ナッ神は仏教に深く溶け込んで、パゴダにもナッ神の祠がある。
庶民もナッ神信仰と仏教信仰との間に矛盾を感じていない。


上座部仏教は輪廻転生を説くため、遺体は魂の容れ物という考え方が強く、

仏教徒は基本的に墓を造らない。
骨が残らないように高温で焼く為、骨は拾わずに遺灰はゴミとして処分する。

少年修行僧
仏教は、各自がブッダの教えを守り悟りを開くことを第一とする
上座部仏教が信仰されている。戒律を守ることに熱心な信徒が多い。
大乗仏教:大衆の中に入ってその苦しみを救うことを目的とする。

昔の芸人たち
ミャンマーの踊り
インド神話に登場する音楽の神々

交通事情

自動車は右側通行。
自動車の9割は、日本の右ハンドルの中古車という。
日本の会社の名前がそのままにして走っている。
2018年から右ハンドルの車の輸入禁止になった。

ヤンゴン市中央部ではオートバイや自転車の走行が禁止されている。
軍事政権が2003年頃、通行規制をかけた。
黒ナンバーは自家用車、赤ナンバーは業務用自動車、黄色ナンバーは僧侶の車。
地方道の多くが砂利道で狭い。

ロンジー

ミャンマーで日常的に着用されている伝統的な民族衣装である。
ロンジーは、下半身に着用するもので輪状に縫った布である。
腰に巻きつけて固定し、通性男性は体の正面で結び、
女性は左右いずれかに布の端を脇に折り込む。
男性用のロンジーはパソー、女性用のロンジーはタメインと呼ばれている。
生地には一般的に木綿、式典や特別な行事では高価な絹織が使われる。
ロンジーはミャンマーでの日常生活に適している。
高温多湿でも涼しい、布地に余裕があるので階段を昇りやすい、
また、パゴダや寺院の参拝で足を隠せる。
裾をたくし上げれば水浸しの場所でも歩ける。
民俗や職業によってロンジーの色や模様が異なる。
2019年11月13日(水) 16:32
 ヤンゴン国際空港にて現地ガイド待ち合わせ
アウンシーピョー氏(ミャンマー人38才)
一般的な民族衣装ロンジーをはいている。
男性の上着はワイシャツやTシャツなどと合わせて着る。
2019年11月16日(土)11:09
ウーベイン橋で記念撮影をする若い親子
ロンジースタイルがよく似合う。
女性はTシャツやブラウスなどと合わせて着る。
2019年11月17日(日)8:12
マンダレー国際空港にて、ロンジースタイル
同行した日本人ツアー客が土産店で購入し「気持ち良い」と言って着ていた。

Wi-Fi事情

ホテルで時々つながるときがある程度。
ホテル到着時は、多くの宿泊客が使うのでほとんどつながらない。
深夜や早朝にメール確認などはできたが、地図のダウンロード等はできなかった。

教育制度
小学校5年間(0~4年生)
中学校4年間(5~8年生)

高等学校2年間(9,10年生)

5歳から小学校に通う。 義務教育は小学校のみ。

学校は6月から始まる。

現在のところ、現地の小・中・高等学校への外国人の入学は困難。

各種職業学校

高等教育には短期大学、大学がある。

GDP、賃金
ミャンマーの一人当たりの名目 GDP:1,225US$(2019年)
日本:40,847US$(2019年)
ミャンマーの一人当たりの購買力平価 GDP:6,707US$(2019年)
日本:45,546US$(2019年)

日本の35年~40年前の状況
大学卒公務員の初任給は約2~3万円という。
織物工場の中学卒の女子工員の給与は1万円くらい。
ミャンマーの最低賃金は、
2018年5月、33%引上げられて日額4800チャット(約368円)、
時給600チャット(約46円)になった。
(東京の時給958円、沖縄の時給737円)

各国の賃金事情(一般工員の賃金)
2017年5月調査(三菱東京UFJ銀行資料)

第2日目 2019年11月14日(木)バガン遺跡             
ミャンマーについて