2019年12月16日月曜日

ミャンマーについて

ミャンマー連邦共和国

インドシナ半島西部に位置する共和制国家
ミャンマー連邦共和国(2010年~)
ミャンマー連邦(1989年から2010年)
ビルマ連邦(1948年1989年)
首都:ネピドー(2016年10月10日~)、旧首都:ヤンゴン(~2016年)
人口:5,142万人(2014年)
ミャンマーは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイ
国境を接する東南アジアの国で、
135 以上の民族が存在している多民族国家

国旗(2010年10月21日制定) 国章(2008年採用)
ミャンマー地図
Myanmar 危険情報(外務省) Level1, Level2, Level3

●ラカイン州マウンドー県:2016年10月及び2017年8月の治安機関に対する襲撃事案以後,情勢が不安定化し,高い緊張状態が継続している。
シャン州コーカン自治地帯,カチン州ライザー周辺:少数民族武装組織の活動地域では依然として不安定な情勢が続いる。

ロヒンギャ問題

バングラデシュと国境を接するラカイン州北部に位置するマウンドー県では,
2012年6月以降,仏教徒とイスラム教徒の間で衝突が発生し,
多くの死傷者及び避難民が出たことから,同州全土に緊急事態宣言が発令された。
その後,情勢は一旦安定し,2016年3月,緊急事態宣言は取り下げられたが,
2016年10月,武装集団による国境警備警察本部などへの襲撃事件が発生した。
また,2017年8月,「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」を名乗る武装集団により,30カ所以上の治安拠点などが襲撃される大規模な事件が発生し,
襲撃後の国軍・治安部隊による掃討作戦を契機として,大きな人的,物的被害が生じ,
70万人以上が避難民としてバングラデシュに流出した。
現在,特に北部マウンドー県内のマウンドー地区やブティダウン地区では,
夜間外出禁止令(21時から5時まで)が依然発出されており,
高い緊張状態が継続してる。

ロヒンギャについて
難民となったロヒンギャ、約90万人(2018年8月)



難民問題 歴史的経緯

ミャウー朝アラカン王国は15世紀前半から18世紀後半まで、
現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた。
この時代、多数を占める仏教徒が少数のムスリムと共存していた。
アラカン王国は1785年にコンバウン朝の攻撃により滅亡し、
その後、旧アラカン王国の地は40年ほどコンバウン朝による統治がなされるが、
それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難した。
コンバウン朝は第一次英緬戦争に敗北し、
1826年にラカインは割譲され英国の植民地となった。
ベンガル側より、コンバウン朝の支配から逃避していた人々が回帰したことに加え、
新しく移住を開始する者も増え、大勢のムスリムが定住していった。
このような急激な移民の流入が、
北部ラカインの仏教徒とムスリムとの共存関係を崩した。
1886年、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡、
ビルマ全土が英領インドに編入された。
これにより多数のインド系移民(印僑)が流入するに至るが、
下層労働者としての移住者であり、3-4年ほどでインドに戻る短期移民であった。
だが、ラカイン北西部に移民したムスリムは、
同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、
仏教徒との軋轢を強めていった。
20世紀初頭からインド系移民への排斥感情が強まり、
1939年、英領ビルマでは、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、
外国人との通婚にさまざまな制限を課す法律が植民地議会を通過して施行され、
実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を制限しようとした。
また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、
日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、
仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。
これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化すると
ラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。
しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、
ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る。
特に、ビルマの戦いにおける1942年の戦闘では、
英軍側のムスリムによって2万人以上のラカイン人が殺されたといわれ、
今日に至るまで、ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている。
1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国からの独立を達成した。
しかし、ビルマは独立直後から、民族対立・宗教対立・イデオロ対立などにみまわれて、混乱は収束することなくそのまま内戦に突入した(ビルマ内戦)。
ラカイン州も例外ではなく、
当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接する北西部は、
1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。
東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人(ムスリム)がラカインに流入し、
そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。
流入したムスリムのなかには、1960年代初頭に政府軍によって鎮圧された、
ムジャヒディンを名乗るパキスタン人の率いた武装反乱勢力も存在した。
この混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として
「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった。 
現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、
1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。
ビルマ人の歴史学者によれば、
アラカン王国を形成していた人々が代々継承してきた農地が、
英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール制度」によって奪われ、
チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。
この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、
この国境地帯で熟成していったと説明している。
日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、
失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。
1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。
そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。
市民権法はロヒンギャに限らず、
1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、
あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった。
現在のミャンマーは、
新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため、
ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い。
ただし、みずからロヒンギャであることを否定し、
「ベンガル人」であることを認めた者については、帰化が認められた例がある。
ミャンマーではリベラル派など「ベンガル人」への国籍付与を容認する論者であっても、「不法移民のベンガル人」が、ロヒンギャを名乗り、
ミャンマー土着民族を「騙る」ことを止めるならば考慮してもよいという見解である。
ロヒンギャの存在自体の否定が、ミャンマー国内では主流となっている。
なお、ロヒンギャのように国籍を剥奪された住民には、
仮の身分証明書として「臨時証明書」が発行された。
2015年6月1日より、これに代わって「帰化権審査カード」が交付されている。
1982年の市民権法に基づいて再審査を行うという意味だが、
前述の理由でロヒンギャのミャンマー国籍は認められない。
1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、
軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、
財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、
ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。
ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、
約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、
国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。
結果、1991年 - 1992年と1996年 - 1997年の二度、
大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、
同国政府はこれを歓迎せず、
国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仲介事業によって
ミャンマーに再帰還させられている。
2017年現在、ロヒンギャの国外流出と難民化の問題は解決していない。

課題
国際社会と人道主義団体(NGO)には、「人間の安全保障」の観点からすれば、
英領植民地時代の遺恨である宗教・民族間の怨讐から生じる差別と迫害
存在することは明らかであるため、
冷静な対応と同時に早急なロヒンギャの身柄保護と
効果的な人道支援を急がねばならない、というジレンマに陥っている。 
一方で、ミャンマーには官民共に強い反ロヒンギャ感情があり、
特にラカイン州の上座部仏教徒住民のそれは甚だしい。
そのため、ミャンマー現地での活動を妨害されないために、
国連や援助団体などは、ロヒンギャ問題の公言を避け、
ミャンマー側の嫌がる「ロヒンギャ」表記さえ避ける傾向にあった。
敢えて問題にする者は「トラブルメーカー」のレッテルを貼られたという。
この難しい局面を打開するために周辺諸国の協力も必要とする声があるが、
マレーシアがロヒンギャの流出にある程度同情的なのに対し、
タイ、バングラデシュ、インドネシアなどは、国連やNGOの批判に取り合わず、
ロヒンギャの正規受け入れを拒否し続けている。
一方、人権団体アムネスティ・インターナショナルは、
「まずは、ミャンマー国内におけるロヒンギャの人権が確保されるべき」と
主張している。 
また、ロヒンギャの側にもアラカン・ロヒンギャ救世軍という武装集団がおり、
彼らはミャンマー軍の暴虐に乗じる形で
ヒンドゥー教徒などの異教徒の村への襲撃を繰り返している。
しかし、国際社会においてロヒンギャは被害者であるため、
ロヒンギャから襲撃を受けた者たちの被害は無視される傾向にあるという主張がある。 

ミャンマー人ガイドによると、
ロヒンギャは、大多数がバングラディシュからの不法移民であり
ミャンマー国籍が欲しくて移住してきている。
そして移住先を自治領か独立国にしたがっている。
彼らは一夫多妻制で出生率が非常に高く脅威である。
国際社会やメディアは、ミャンマー人の被害を報道せず、
ロヒンギャの被害だけを報道しているという。

日本におけるロヒンギャ
難民条約加盟国である日本でもロヒンギャが難民申請しているが、
入国管理局によって退去を強制させられている事例がある。
日本の法廷で争われているとおり、
ロヒンギャ難民の問題には不可解な点が多く認められ、
加えて「難民条約」の定義では解決し難いため、
難民認定は低調な数字のままである。
 在日ビルマロヒンギャ協会によると、2015年6月現在、
日本には約230人のロヒンギャが生活している。
そのうち約200人が、群馬県館林市に集中している。
また、日本政府は、ロヒンギャをミャンマー国籍として扱っているが、
国籍を剥奪されたためにそのほとんどが無国籍である
実態とかけ離れた国籍認定が懸念されている。
その一方で、在日ミャンマー人社会との対立は深まっている。
1988年9月に在日ミャンマー人協会が設立された当初は、
ロヒンギャが協会書記長を務めたことがあるなど、表だった排斥は見られなかった。
しかし2000年以降、ミャンマーの政情が落ち着くと、
在日ミャンマー人の間に
「ロヒンギャ(「ベンガル人」)はミャンマー人ではない」という認識が浸透し、
表だった迫害こそ起きていないが、ロヒンギャは排除されるようになった。
2017年9月13日、東京・渋谷の国際連合大学本部前で、
ミャンマー人らが反過激派、反ロヒンギャのデモを行った。
デモはロヒンギャ過激派(武装勢力)によるテロを非難し、
アウンサンスーチーの支持と、ロヒンギャはミャンマー人ではないと主張した。
ロヒンギャへの迫害とされるものは、
欧米やイスラム教勢力のプロパガンダとする報道を行った。
ロヒンギャの保護を引き受けるべきは、
イギリスとバングラデシュであるとの見解を示した。
日本政府は、2017年、武装勢力による襲撃を「強く非難」した。
一方で人道状況や住民殺害の疑惑、この時点で40万人にのぼる難民流出に
「深刻な懸念」を表明し、治安回復や避難民帰還の実現を求めた。
日本政府はバングラデシュへの避難民支援として、
1500万ドル(支出レートで16億5000万円)の緊急資金協力を決定した。
12月に日本政府はミャンマー政府に対し下記の発言をした。
1.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)支援を引き続き進める。
2.「自由で開かれたインド太平洋戦略」の下、
官民合わせて8千億円の資金投入、文化交流の推進などを行う。
3.ラカイン州の人権・人道状況を「懸念」している。
避難民帰還に関するミャンマー・バングラデシュ合意を歓迎する。
ミャンマー国軍の人権侵害疑惑について、必要があれば処罰を行うよう求めた。
ミャンマー政府は「バングラデシュに流出した避難民」について、
審査の上で受け入れる用意がある」と述べた。

2019年11月25日(月)朝日新聞朝刊記事

2018年、ARSAが最大で99人のヒンドゥー教徒を虐殺したとする報告書を発表した。

国際連合人権理事会(UNHRC)は、UNHRCミャンマー調査団の報告書によると、
「ラカイン州のイスラム教徒に人権はない」と指摘し、
2017年からの掃討作戦は「即時で、残忍で、(武装勢力の脅威に対し)不均衡」であり、
少なくとも1万人が殺害され、ロヒンギャ居住地の4割が焼き払われたとした。
また、治安部隊や他民族がロヒンギャ居住地への「再定住」を進めていると指摘した。

国連安保理においてミャンマー大使は、ARSA「250人以上の非ムスリム少数民族
および、100人以上のヒンドゥー教徒を虐殺」したと主張し、
人道的問題は全てARSAおよび、それを支援した外国のテロ組織に責任がある
とする見解を示した。

BBC 取材 2019.9.11 News

ロヒンギャの村、潰され政府施設に一変
イン・ディン村の変化が上空からの写真で見ることができる。
 2017年9月22日撮影
 2019年4月19日撮影

イン・ディンの住民の約4分の3はイスラム教徒で、残りはラカイン仏教徒だった。
現在、イスラム教徒が暮らした地区は跡形もない。
ラカイン仏教徒の地区は静かで平和だ。
だが、ロヒンギャの家々があった場所に行くと、木々はなくなっていて、代わりに
新たに広範囲に建設された国境警備警察の宿舎を取り囲む鉄条網が張り巡らされている。

ラカイン仏教徒の住民は、

隣にイスラム教徒が暮らす状況は2度と受け入れられないと語った。



カイン・チャウン難民キャンプが建設されたロヒンギャの村の変化

 2017年9月16日撮影
2018年12月23日撮影
ミョ・トゥ・ジーにはかつて、8000人以上のロヒンギャが暮らしていた。

2017年9月、住宅の多くが焼け落ちていたが、大型の建物はまだ残っていた。
ラカイン州の村によく見られる、周囲を取り囲む木々も立っていた。
しかしいま、ミョ・トゥ・ジーがあったところを通ると、
政府と警察の大きな合同庁舎が立っている。木々はない。

2017年9月に、拘束された10人のイスラム教徒が虐殺された事件で悪名高い村だ。

この虐殺は、ミャンマー軍が認めた数少ない残虐行為のひとつとなっている。


ARSA
Arakan Rohingya Salvation Army(アラカン・ロヒンギャ救世軍という武装集団)
2012年3月、ミャンマー国内で抑圧されてきたロヒンギャが中心となって結成。
指導者のアタウラーはパキスタン出身で、サウジアラビアに移住し教職に就き、
富裕層の庇護で豊かな生活をしていた。
しかし、2012年にミャンマーでロヒンギャ「掃討」により、
10万超の難民が発生したのを機に、アタウラーはパキスタンに帰国した。
ターリバーンをはじめとするアフガニスタン・パキスタンのイスラム武装勢力に資金提供し、ジハードへの協力を求めたが、色よい返事は得られなかった。
アタウラーはイスラム武装勢力への不信を強め、
「熱心な民族主義者になって」パキスタンを出国し、ARSA結成に携わった。 
2016年10月に国境検問所など3カ所を約400人で襲撃して、
広く内外に活動が知られるようになった。
2017年8月25日には、再び警察など多数の施設を襲撃した。
ミャンマー軍側は6,500人程度が襲撃に関与したと推定している
救世軍側の武器は乏しく、わずかな銃器の他は、
刃物鉈や鋭くとがらせた竹の棒など簡素なものであったが、
軍側は徹底な反撃を実行した。
軍の掃討作戦を避けるために数十万人規模のロヒンギャが、
隣国のバングラディシュ難民として流出するきっかけとなった。
2016年10月より、新たに難民となりバングラデシュに逃れたロヒンギャは、
2017年6月15日までに7万5千人に達した。
さらに、8月25日の武力衝突から2018年8月までの間だけで、72万5千人に達した。
以前の難民を含めると、90万人以上が難民となっている.

2019年12月8日(日)朝日新聞朝刊記事

2019年12月12日(木)朝日新聞朝刊記事

2019年12月14日(土)朝日新聞朝刊記事

国家顧問:アウンサンスーチー
アウンサン将軍の長女

2015年11月8日の総選挙で国民民主連盟(NDL)が圧勝した。
スーチー氏は、大統領になりたかったが国軍の反対と
外国籍のある家族がいると大統領になれないという憲法59条F項によりなれなかった。
スーチー氏の息子は英国籍なのでスーチー氏は大統領になれない。
2016年3月30日、ティンチョー大統領とする新政権が発足した。
その時、スーチー氏の新役である国家顧問とは、大統領をも指導することができるという
憲法の抜け道をイスラム教徒である顧問弁護士のコーニー氏がみつけ実権を握った。
そのため、後にコーニー氏は反対勢力から暗殺(射殺)された。
国家顧問には国軍を指揮する権限がないので国軍の行動を把握できない。
憲法で国軍が必ずミャンマー議会の25%を握ることになっている。
スーチー氏の国民民主連盟と国軍は、相いれない敵対同志である。
国軍議員からはスーチー氏を「死んだ虎を生き返らせるのか?」とか
「連邦議会に反逆者が来るぞ」とも言った。
23年以上の独裁軍事政権と民主政権は何事も180度違う。
民主政権は「国民によって善かれ悪しかれ支配される」もので軍事独裁政権とは違う。
ロヒンギャ問題などの解決には、スーチー氏は国軍の支援がいる。
スーチー国家顧問は、現在ロヒンギャ問題について沈黙しているが、
今後どのような発言をして解決して行くのか?
スーチー氏は民主政権維持のため国軍と敵対しない(国軍との安定)ことを選んだ
とも言われている。
また、国民の大多数の仏教徒はロヒンギャを憎んでいる。

ビルマ建国の父アウンサン将軍・独立運動家(1940年代)
1947年7月19日暗殺(32歳没)

少数民族武装組織問題

ミャンマー国軍と,2007年までシャン州北部のコーカン地域を実質支配していた
ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)との間では,2014年末に戦闘が再発し,
2015年2月,コーカン自治地帯における緊急事態宣言等が発出され,
軍による空爆等が行われた。
2015年11月,ミャンマー政府は,同宣言等を解除しましたが,
現在も同自治地帯周辺では不安定な情勢が続いている
(コーカン族は漢民族系移民、中国雲南省の国境付近)
反乱軍化したのは同地区で長年行っていたケシ栽培がミャンマー政府によって徐々規制され
経済的に豊かだった同地域が、苦境・飢餓が発生するようになり
2009年8月8日にケシの関連工場の摘発時に突発的衝突が発生してからである。
それが大規模な軍事衝突・反乱に結び付いた。
2016年1月現在、
MNDAA軍はコーカン地区の北端にてミャンマー政府軍との戦闘を継続しており、
度々の政府軍の攻撃にも耐え、紅岩地区で政府軍と対峙している。
未だ遊軍がコーカン地区中部のKonkyan、Tarshwetan付近に出没し、
政府軍へのゲリラ戦を行っている。 

宗教

2014年国勢調査によると、
仏教が87.9%、キリスト教が6.2%、イスラム教4.3%、ヒンドゥー教0.5%、
その他1%、無宗教0.1%という構成になっている。



ナッ神という土着神への信仰も根強く残っている。

ナッ神は仏教に深く溶け込んで、パゴダにもナッ神の祠がある。
庶民もナッ神信仰と仏教信仰との間に矛盾を感じていない。



上座部仏教は輪廻転生を説くため、遺体は魂の容れ物という考え方が強く、

仏教徒は基本的に墓を造らない。
骨が残らないように高温で焼く為、骨は拾わずに遺灰はゴミとして処分する。

少年修行僧
仏教は、各自がブッダの教えを守り悟りを開くことを第一とする
上座部仏教が信仰されている。戒律を守ることに熱心な信徒が多い。
大乗仏教:大衆の中に入ってその苦しみを救うことを目的とする。

昔の芸人たち
ミャンマーの踊り
インド神話に登場する音楽の神々

交通事情

自動車は右側通行。
自動車の9割は、日本の右ハンドルの中古車という。
日本の会社の名前がそのままにして走っている。
2018年から右ハンドルの車の輸入禁止になった。

ヤンゴン市中央部ではオートバイや自転車の走行が禁止されている。
軍事政権が2003年頃、通行規制をかけた。
黒ナンバーは自家用車、赤ナンバーは業務用自動車、黄色ナンバーは僧侶の車。
地方道の多くが砂利道で狭い。

ロンジー

ミャンマーで日常的に着用されている伝統的な民族衣装である。
ロンジーは、下半身に着用するもので輪状に縫った布である。
腰に巻きつけて固定し、通性男性は体の正面で結び、
女性は左右いずれかに布の端を脇に折り込む。
男性用のロンジーはパソー、女性用のロンジーはタメインと呼ばれている。
生地には一般的に木綿、式典や特別な行事では高価な絹織が使われる。
ロンジーはミャンマーでの日常生活に適している。
高温多湿でも涼しい、布地に余裕があるので階段を昇りやすい、
また、パゴダや寺院の参拝で足を隠せる。
裾をたくし上げれば水浸しの場所でも歩ける。
民俗や職業によってロンジーの色や模様が異なる。
2019年11月13日(水) 16:32
 ヤンゴン国際空港にて現地ガイド待ち合わせ
アウンシーピョー氏(ミャンマー人38才)
一般的な民族衣装ロンジーをはいている。
男性の上着はワイシャツやTシャツなどと合わせて着る。
2019年11月16日(土)11:09
ウーベイン橋で記念撮影をする若い親子
ロンジースタイルがよく似合う。
女性はTシャツやブラウスなどと合わせて着る。
2019年11月17日(日)8:12
マンダレー国際空港にて、ロンジースタイル
同行した日本人ツアー客が土産店で購入し「気持ち良い」と言って着ていた。

Wi-Fi事情

ホテルで時々つながるときがある程度。
ホテル到着時は、多くの宿泊客が使うのでほとんどつながらない。
深夜や早朝にメール確認などはできたが、地図のダウンロード等はできなかった。

教育制度
小学校5年間(0~4年生)
中学校4年間(5~8年生)

高等学校2年間(9,10年生)

5歳から小学校に通う。 義務教育は小学校のみ。

学校は6月から始まる。

現在のところ、現地の小・中・高等学校への外国人の入学は困難。

各種職業学校

高等教育には短期大学、大学がある。

GDP、賃金
ミャンマーの一人当たりの名目 GDP:1,225US$(2019年)
日本:40,847US$(2019年)
ミャンマーの一人当たりの購買力平価 GDP:6,707US$(2019年)
日本:45,546US$(2019年)

日本の35年~40年前の状況
大学卒公務員の初任給は約2~3万円という。
織物工場の中学卒の女子工員の給与は1万円くらい。
ミャンマーの最低賃金は、
2018年5月、33%引上げられて日額4800チャット(約368円)、
時給600チャット(約46円)になった。
(東京の時給958円、沖縄の時給737円)

各国の賃金事情(一般工員の賃金)
2017年5月調査(三菱東京UFJ銀行資料)