2021年10月26日火曜日

五島列島潜伏キリシタン関連遺産

  2021年10月16日(土曜)~19日(火曜)

五島列島潜伏キリシタン関連遺産
今回は、五島列島の3か所の潜伏キリシタン関連世界文化遺産
「頭ヶ島の集落」「奈留島の江上集落」「久賀島の集落」を訪ねた。

世界文化遺産
長崎と天草地方の12の構成資産からなる潜伏キリシタン関連遺産は、
日本独自の宗教的伝統として、2018年7月に世界文化遺産に登録された。

キリスト教禁教による宣教師不在の中で、神道や仏教などの日本の伝統的宗教や
一般社会と関わりながら信仰を続けた潜伏キリシタン関連遺産の伝統の
あかしとなる遺産群である。(資料制作:長崎県世界遺産課)
潜伏キリシタン関連構成資産の位置づけ

潜伏キリシタン
キリスト教禁教期の17世紀~19世紀の日本において、
ひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンのことを
学術的に潜伏キリシタンと呼んでいる。
潜伏キリシタンの伝統
「信仰を実践するために独自の対象を拝むという試み」と
「共同体を維持するために移住先を選ぶという試み」を併せて
「潜伏キリシタンの伝統」と呼ぶ。
キリシタン
キリスト教禁教期(1615~1873)よりも前にキリスト教に改宗した人々のことを
同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼んだ。
1549年にキリスト教が伝来。
かくれキリシタン
キリスト教が解禁になった19世紀後半以降(1873)も引き続き
潜伏キリシタン以来の信仰を続けた人々のことを「かくれキリシタン」と呼ぶ。

キリシタン「潜伏」のきっかけ
16世紀半ば、大航海時代に来日した宣教師たちは、貿易による利潤や武器弾薬を
目当てにしていた長崎と天草地方の領主を先ず改宗させた。
キリシタン大名(高山右近、大村純忠、有馬晴信など)と呼ばれた彼らを介して、
その領民を集団で改宗させることで領内にキリスト教を広めていった。
改宗した民衆に組と呼ばれる信仰の共同体がつくられていった。
キリシタン大名や改宗した民衆は、イエズス会や宣教師などの異教撲滅や
偶像崇拝禁止の教唆などにより神社仏閣や仏像を焼き払ったり破壊したり、
僧侶に冒涜を加えたたり殺害したりして、教会を建てていった。
16世紀末(1587)豊臣秀吉により伴天連追放令の発布でキリスト教を禁止した。
17世紀に入り江戸幕府は、一時キリスト教を黙認したが1614年に全国的に禁教令のもとに宣教師を国外追放し、教会堂を破壊した。キリシタン大名は棄教して仏教へ改宗し、ひそかに潜入する宣教師や彼らをかくまった信徒に過酷な拷問を加えて処刑した。
1637年の島原・天草一揆では、約2万人のキリシタンが幕府軍により全員殺された。
この事件をきっかけに江戸幕府は海禁体制(鎖国)を確立した。
1644年、最後の宣教師が殉教すると国内に宣教師が居なくなり、キリシタンは宣教師に
導かれることなく、潜伏して独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされた。

カトリック信徒数と人口に対する割合(2016年) 
◆世界のカトリック信徒数 12億7千万人(17.8%)
◆日本のカトリック信徒数 434,054人(0.3%)   
◆長崎県のカトリック信徒数 60,989人(4.4%)  
◆五島列島のカトリック信徒数 8,375人(14.6%) 
◆五島市のカトリック信徒数 3,113人(8.3%)  

五島列島キリシタン物語
五島列島には50を超える数多くの教会がある。
長崎・離島の観光協会HPより


東京新聞の連載記事(85~102回目:五島列島関連記事)N氏切り抜き

連載記事は「長崎県長崎学アドバイザー」である著者が長崎・天草の潜伏キリシタンの里を訪ね、史料をもとにその魅力と知られざる歴史を分かりやすく解説している。
世界文化遺産「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」の網羅的に記載している。
東京新聞104回の連載記事(2018年から2年半)本間貞夫著

上五島(中通島・頭ヶ島・若松島)
1.カソリック江袋教会
カソリック江袋教会 長崎県指定文化財   2021/10/16 9:15
長崎県南松浦郡新上五島町曽根郷字浜口195-2
江袋教会説明板 新上五島町教育委員会
明治15年パリ外国宣教会の神父のもと、外海(そとめ)・黒崎村の川原久米吉が建築した。
久米吉はカトリック教徒で江袋の17戸の信徒たちとこの教会堂を建てた。
平成19年2月12日、漏電が原因で火災になったが、平成22年3月に復旧した。
江袋教会説明板
江袋教会創設百年記念 1981年
「私のところに来る者を わたしは決して追いださない」
江袋教会 ステンドグラス窓
江袋教会前の漁港 

2.カトリック青砂ヶ浦天主堂 
カトリック青砂ヶ浦天主堂  
国指定重要文化財 2021/10/16 10:14
カトリック青砂ヶ浦教会 案内版
明治43年8月竣工、10月献堂式、鉄川与助設計施工
煉瓦造り重曹屋根構造
縦長アーチ窓
天主堂内部
漆喰仕上げのコウモリ天井とポインテッドトアーチ
大正15年、旧まかない部屋建設
敷地造成・レンガ運びに汗を流す信徒たち
カトリック青砂ヶ浦教会から奈摩湾を望める。
昭和初期までは自動車道路がなく、資材は船で運搬した。
旧青砂ヶ浦墓地
カトリック青砂ヶ浦教会 平和の聖母

3.大曾教会
大曾教会
大正5年竣工、設計施工:鉄川与助、八角形ドーム型の鐘楼
主要な構成部分がほぼすべて当時のまま温存されている。

4.頭ヶ島天主堂
頭ヶ島天主堂
1887年に木造教会が建てられたのち、1910年大崎八重神父による発注、
鉄川与助の設計施工により1919年に現在の石造りとなった。
〒857-4102 長崎県南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638番地
頭ヶ島天主堂拝観ポイント
砂岩の教会堂、円花窓、アーチ、キーストーン、内部の花模様
頭ヶ島天主堂 国指定重要文化財
周辺より産出される砂岩が使われた石造りの教会堂
仮の聖堂の跡地に建てた頭ヶ島天主堂
頭ヶ島とロクロ島
病人(天然痘など)の療養地として人が近づかなかった頭ヶ島を移住の適地として選び、
仏教徒の開拓者のもとで信仰をカモフラージュしつつ移住しひそかに共同体を維持した。
解禁後は、カトリックに復帰して指導者の屋敷の近くに教会堂を建てた。
教会堂の前にロクロ島があり、外海から見透しできないところにあった。
頭ヶ島天主堂 前方:ロクロ島
頭ヶ島天主堂墓地

5.旧鯛の浦教会
旧鯛の浦教会
旧教会の正面入口の鐘棟は、浦上天主堂の被爆レンガが使用されている。
外海の出津から移住して来たキリシタンの子孫にはじまる集落で、
五島崩れで迫害を受けた。
長崎県南松浦郡新上五島町鯛之浦郷326
旧鯛の浦教会案内板
明治13年(1880)パリ外国宣教会ブレル師によって、現在の希望の灯学園の前身である養育院が建てられ、翌14年(1881)地区信徒が待ち望んだ旧鯛ノ浦教会堂が建立された。
その後明治36年(1903)クゼン師によって建て替えられ、さらに潮風のため、
破損いちじるしく昭和54年(1979)不漁続きで不況の最中、
信徒世帯当り80万円という巨額な拠出により現在のスマートな聖堂に建て替えられ、
3月14日里脇大司教によって献堂された。
 明治3年の鯛ノ浦六人斬りで知られるように他の五島各地と同じように信徒の信仰は篤く、上五島を訪れる観光客、巡礼者を引きつける魅力を持っている鯛ノ浦教会は敷地内に
聖地ルルドを設け、優しい慈愛の微笑みをたたえたマリア様を祀リ、
毎年5月と10月にはルルドヘの信仰を深めている。
美しい佇まいの旧聖堂の鐘楼は、原爆で崩壊した浦上天主堂の被爆レンガで造られており、現在、資料館として保存されている。この地域の信徒の信仰は篤く、
上五島を訪れる観光客、巡礼者を引き付ける魅力を持っている。


旧鯛の浦教会
1880年ブレル神父が赴任して上五島の司牧の拠点となる。1903年建立。
旧教会は終戦間近、海軍に接収された。戦後、復員などで手狭になり1949年に増築した。
老朽化により、1979年旧教会の下の幼稚園跡地に新教会が建てられた。
旧鯛の浦教会
図書館兼資料室になっている旧聖堂は、単層屋根の桟瓦葺き木造建築。
旧鯛の浦教会 聖地ルルド マリア様を祀る
旧鯛の浦教会堂内 祭壇側
堂内は三廊式で、天井は尖頭形のアーチが美しいリブ・ヴォールト天井
旧鯛の浦教会堂内 出入口側

6.中の浦教会
中の浦教会 「水鏡の教会」と呼ばれる。
水辺に教会が写る一帯は美しい光景。
1925年建立の木造教会
長崎県南松浦郡新上五島町宿ノ浦郷中ノ浦
中の浦教会
中の浦教会 大正15年建設の木造教会
中の浦教会
ルルド 聖母マリア像
中の浦教会説明板
中の浦教会堂内
天井や花の装飾が特徴的

7.桐教会
桐教会
若松瀬戸を往来する船舶の安全を祈るように丘の上に静かにたたずんでいる。
長崎県南松浦郡新上五島町桐古里郷357-4
桐教会
桐教会からの眺望 若松大橋を望む
桐教会案内板
外海地方から移住した信徒により信仰の種がまかれた。
明治30年、ぱり外国宣教会のフューゼ神父によって建立された。
昭和33年改築された。
桐教会からの眺望
桐教会からの眺望
桐教会 
昭和46年、ガスパル与作親子と清川沢次郎の「信仰の先達者顕彰碑」建立。
五島では、桐古里郷のガスパル与作が治療のために長崎に行き、
偶然、大浦天主堂に入ってプティジャン神父を訪ね、
五島キリシタンのカトリックへの復活を導いた。
桐教会堂内

五島市(奈留島・久賀島・福江島)
奈留島

8.江上天主堂
江上天主堂 2021/10/17  9:11
世界文化遺産構成資産
1918年建立、設計施工は鉄川与助、大正期の日本を代表する木造教会
平成20年(2008年)に国の重要文化財に指定された。
クリーム色の板張り壁と水色の窓枠が周囲の森林と調和して美しい。
江上天主堂
江川地区には、1881年に外海(現長崎市)から4家族が移住し洗礼を受けた。
明治39年に民家を利用した簡素な教会を建設していたが、大正6年3月再建に着手し、
大正7年3月に50坪の教会(現在の天主堂)が完成した。
木造ロマネスク様式の天主堂として完成度が高いといわれている。
内部のアーチ形の美しい天井、木目塗りの装飾が美しい。

江上天主堂 管理事務所
江上天主堂 
湿気対策のために高床式都市、の軒先には独特の通気口を設けるなど、
随所に在来工法を用いているが、内部は本格的な教会建築様式になっており、
風土的特徴と西洋的特徴が融合した教会建築と待っている。
水色の窓の通風孔から堂内を見た
水色の窓の通風孔から堂内を見た
世界文化遺産登録年2018年
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

「潜伏」の終焉を可視的に示す構成資産である。
19世紀、外海地域から各地に広がった潜伏キリシタンの一部は、
奈留島の人里離れた海に近い谷間に移住し、自分たちの信仰をひそかに続け、
解禁後はカトリックに復帰して地勢に適応した江上天主堂を建てた。
江上天主堂は、禁教期の集落との連続性を高く示し、
風土に溶け込むように立地するとともに、
在来の技術が用いられた教会堂の代表である。
奈留町立江上小学校廃校記念碑(左側) 平成10年3月31日
江上小学校創立百年記念碑(右側)
江上天主堂前の大串湾

久賀島
久賀島
島全体が「五島市久賀島の文化的景観」として
文化財保護法の重要文化的景観に選定されている。
地形条件に応じて形成された集落およびその生活・生業の在り方、
また島内に二カ所展開するヤブツバキの自然林はじめ、
外海側に発達するヤブツバキ林・集落近傍に自生するツバキ樹と
その利用によって特徴づけられる価値の高い文化的景観と評価されている。
特に自然林から移植した栽培樹が集落景観を形成している。

五島列島で3番目に大きな馬蹄形の島 37.35k㎡
最盛期の人口は2000人以上であったが現在260人(2021年)になった。
過疎化が進んでいる。キリスト教徒26%とのこと。
空海が乗った遣唐使船も田ノ浦港に寄港した。

1566年、ルイス・デ・アルメラが布教したことでキリシタンが急増した。
江戸時代、久賀島は流刑の地であった。罪人による開拓が進められた。
1797年以降、外海からの移住が始まり潜伏キリシタンが来島した。

9.旧五輪教会堂
駐車場から旧五輪教会堂へ向かう海岸沿いの細道
一般の観光客は遊覧船を利用する。
旧五輪教会堂周辺地図
五島市蕨町五輪
西海国立公園 九州自然歩道
久賀島の九州自然歩道は過疎化で整備していないので歩けないと地元の人は言う。
山林の遊歩道は、イノシシが多く危険とのこと。
「牢屋の窄殉教地」から「旧五輪教会堂」まで九州自然歩道を使えば近道になる。
川崎市在住の方が九州自然歩道を利用しようとしたが地元の人に止められて
折紙展望台近くの「蕨」部落経由の一般道を大回りで歩いて行った。
五輪教会堂
旧五輪教会堂は海辺に建つ木造建築であるため老朽化が激しく、
昭和59年新しい教会堂建設のため解体にさらされたことがあるが、
関係者の努力で修復・保存されることになった。
そのため新しい教会堂を旧五輪教会堂の隣に建設した。
五輪教会堂堂内
五輪教会堂見学遊覧船
五輪教会堂
教会見学は事前連絡必要
東京で事前に4人文の連絡済み
旧五輪教会堂 世界文化遺産
五島市蕨町五輪
18世紀後半以降、外海地区から各地に広がった潜伏キリシタンの一部は、
五島藩が積極的に久賀島に開拓移民を受け入れていることを知り、
既存の部落と共存できそうな場所として選んで移住し、
漁業や農業で彼らと互助関係を築きながら、ひそかに共同体を維持した。
解禁後はカトリックに復帰し、島内の各集落に教会堂を建てたことにより、
彼らの潜伏は終わりを迎えた。
旧五輪教会堂 祭壇
内部は3廊式の会堂、コーモリ天井、ゴシック風の祭壇
旧五輪教会堂 堂内
旧五輪教会堂案内板
明治14年(1881)久賀島浜脇の地に浜脇教会堂として建てられたものを
昭和6年に現地に移築された。建物は木造瓦葦平屋建ての和風建築。
窓は教会堂特有のピオンテドアーチ型である。
大工棟梁は久賀田ノ浦の平山亀太郎と伝わる。
長い禁教政策の下、弾圧と迫害に耐え、ようやく禁教が解かれた明治初期、
五島各地には信仰の証として教会堂が建設され始めた。
旧五輪教会堂は、その当時の教会建築史を物語る歴史的建築様式を持つ
貴重な文化財である。
世界文化遺産登録年2018年
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
久賀島の集落
旧五輪教会堂は、牢屋の窄殉教事件を乗り越えた久賀島の潜伏キリシタンが、
1881年に島内で初めて建てた教会堂(初期浜脇教会堂)であり、
久賀島の潜伏キリシタンの伝統に終わりを示すのみならず、
彼らが250年もの間、継承してきた信仰の証として価値づけられている貴重な遺産である。
キリスト教解禁後に各集落に建てられた木造教会堂がそのままの形で
残されているのは日本全国でも珍しく、大変貴重な建築物である。
現在は国の重要文化財であり、五島市が所有・管理している。
旧五輪教会堂
旧五輪教会堂
旧五輪教会堂(左側)、五輪教会堂(右側)

10.牢屋の窄殉教地
牢屋の窄 牢屋の跡
(五島市久賀町大開)
牢屋の窄殉教地は、キリスト教解禁の直前に潜伏キリシタンへの弾圧が
加えられた最後の場所になった。

1868年(慶応4年・明治元年)、久賀島の潜伏キリシタンが大浦天主堂へ出向き、
宣教師から寺社の護符類は所持してはならないと諭され、
帰島後に護符を焼却し寺社との係わりを絶ちキリシタンであることを
庄屋を通して代官へ上奏した。
この結果、大規模弾圧となる「牢屋の窄殉教事件」に端を発する「五島崩れ」が発生した。

その状況は外国使節団のしるところとなり、明治新政権の外交問題に発展した。
翌年、駐日英国公使のハリー・パークスが現地調査を実施し、
明治政府に抗議したことで隠れキリシタン達は釈放され、
カトリックに復帰を果たした。
ついに太政官布告によって明治6年キリシタン禁制の高札が下ろされ、
信者たちは信仰の自由を勝ち取った。
牢屋の窄殉教地
世界文化遺産登録年2018年
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 久賀島の集落
牢屋の窄 殉教者の石碑
明治元年(1868)長崎の浦上の地においてキリシタン迫害が始まると
多くの信者がいた五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。
久賀島では、6坪ほどの牢屋に信者200名を8か月間押し込み
連日悲惨な拷問がおこなわれたという。
その結果、死者39名、出牢後に死んだ者3名という悲惨な弾圧であった。
牢屋の窄 「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」説明石板
「粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」
牢屋の窄 信仰の碑
牢屋の窄 殉教記念教堂
この歴史的場所である牢屋の窄一帯を殉教の聖地として永久に保存しようと
地域の信者たちが浄財をを出し合い地虫より買い受け、
殉教の牢屋の跡に信仰の碑(殉教記念碑)を建立し、昭和59年には新聖堂も建立された。
牢屋の窄 殉教記念教聖堂案内板
五島市久賀町大開

11.潜伏キリシタン資料館
潜伏キリシタン資料館 入口
潜伏キリシタン資料館 聖母マリヤ像
三菱自動車の電気自動車で訪ねた。
潜伏キリシタン資料館 
管理人が留守で見学できなかった。

12.浜脇教会
浜脇教会 高くそびえる三角の鐘塔
(五島市田ノ浦町263)
1881年建立された木造の教会であったが、潮風にさらされて老朽化したことと
信者が増えたため新築することになり、旧教会は五輪地区(旧五輪教会堂)に移築した。
1931年、台風に備えて五島で最初の鉄筋コンクリート造り教会となった。
浜脇教会は第二次世界大戦中、空襲の標的となるのを避けるため
真っ黒に塗りつぶされた時期があった。
浜脇教会
浜脇教会
浜脇教会 無原罪の聖女像
浜脇教会から田ノ浦瀬戸越しに福江島を望む

福江島
福江島には14か所のカトリック教会がある
福江島 五島列島で最大の島(326.43km2
  五島市の人口:38,481人(2016年7月31日) 
五島市のピーク人口:60,947人(1980年)
 五島市の人口予測: 8,904人(2040年)

13.井持浦教会
井持浦教会
日本最古で最大のルルドがある。
旧教会堂は五島列島最古のレンガ教会であったが、
昭和62年(1987年)の台風被害を受け建て替えられた。
井持浦教会
井持浦教会 堂内
井持浦教会(ルルド)案内板
井持浦教会のルルド
明治28年、当時の五島教区のアルベルト・ペルー神父により提唱され、
明治30年(1897年)に建設された。
ルルド(Lourdes)とは、南フランスのピレネー山麓にある街の名前で
1858年に薪拾いに出かけた少女・ベルナデッドが近くの洞窟でっ聖母マリアに出会い、
聖泉を示されたとの故事に由来するカトリックの聖地で、
その聖水の水を飲んだり浴びたりした者は、
病が癒されるなどの奇跡が現れるとされている。
井持浦のルルドの岩石は、五島各地から選ばれて築造された。
内部には聖母マリア像が安置されている。
傍らに掘られた井戸には、聖地ルルドの聖水の水が混入され祝別されており、
以降この地は第2のルルド霊泉地として全国各地から熱心な信徒が訪れている。

聖母マリア像

14.貝津教会
貝津教会
木造瓦葺の屋根に載った尖塔は素朴な雰囲気を漂わせている。
大正13年に木造で建てられたが老朽化のため
昭和37年(1962年)に増改築した。
貝津教会 案内板
貝津教会
貝津教会 
色鮮やかなステンドグラス

15.三井楽教会
三井楽教会
教会のモザイク聖画は、島内各地から採取した貝殻を用いて平成17年に完成した。
モザイクタイルで装飾された壁画がこの教会のシンボルになっている。
(長崎県五島市三井楽町岳1420)

この地区のキリシタンの歴史は、1772年(安永元年)に70人の農民が渕ノ元へ、
翌年の1773年(安永2年)には大勢が三井楽へ移住してはじまり、
この3年後には78人が渕ノ元に住居を定めてた。
1839年(天保10年)には、長崎の浦上2番崩れで放免された信徒の一部が
三井楽(嶽集落)に住みついた。
1868年(明治元年)、久賀島に端を発したキリシタン迫害は三井楽にも及んだ。
信徒たちは弾圧に耐え、棄教者や死亡者を出すことなく大半は1ヵ月で出牢できたが、
一部の者は牢に残され、全員が放免されたのは1871年(明治4年)のことであった。
三井楽教会
明治13年(1880年)ゴシック様式の木造聖堂を建立した。
三井楽教会は寛政9年(1797年)大村藩から迫害を避けて逃げてきた
潜伏キリシタンの流れを汲む信徒が明治13年に完成させた。
昭和7年、信徒の増加とともに鐘楼、玄関、香部屋が増築されたが、
老朽化とシロアリ被害のため昭和46年に現聖堂が建設された。
三井楽教会の駐車場
三井楽教会の鐘楼
三井楽教会と信徒会館
三井楽教会と鐘楼
三井楽教会内部
三井楽教会のルルド

16.水ノ浦教会
水ノ浦教会
明治13年(1880年)宣教師の指導を受けて教会を建設した。
昭和13年(1938年)老朽化のため鉄川与助によって新築された。
ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の木造教会となった。

水ノ浦教会
水ノ浦教会
「私は門である」「私を通って入る人は救われる」
水ノ浦教会
水ノ浦教会
水ノ浦は半農半漁の村
信徒達の祖先は、外海地方からの移住キリシタンである。
水ノ浦教会
水ノ浦教会
水ノ浦教会と水ノ浦修道院
水ノ浦修道院 創立者・ドミニカ水浦カネ像
明治6年(1873)2月24日、太政官布告によってキリシタン禁制の高札は撤去されるが、
明治6年3月30日当地のキリシタン復活に力を尽くした水浦久三郎は70歳の生涯を閉じた。
そして久三郎の遺志は残された信者と、
その後水の浦修道院の創立者となった娘の水浦カネに引き継がれていった。

17.カトリック堂崎天主堂
カトリック堂崎天主堂
住所:長崎県五島市奥浦町堂崎2019
長崎で殉教した二十六聖人の一人、ヨハネ五島を記念して創立された。

設計はペルー神父、施工は野原与吉・鉄川与助が担当し、1908年に完成した。
煉瓦造・ゴシック様式の平屋で、五島初の洋風建築とされ、
その美しい外観は五島内の他の天主堂の模範となった。

1974年(昭和49年)4月9日、長崎県指定有形文化財に指定された。
2007年平成19年)にユネスコ世界文化遺産暫定リストへ掲載が
決まった長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、
現在は資料館となっていてミサなどには使われていないため
構成資産の見直しにより外され
「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている



堂崎教会
赤レンガのゴシック様式の天主堂内には、
1977年(昭和52年)堂崎天主堂キリシタン資料館が開設され、
布教時代から迫害を経て復活にいたる信仰の歴史が展示されている。

1873年(明治6年)フレノー師が来島し禁教の高札撤去後、
五島で初めてのクリスマスミサが堂崎の浜辺で捧げられた。
1877年(明治10年)司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始された。
以後島内各地に小教区制度が整うまで、
堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになった。

1880年(明治13年)パリ外国宣教会マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が建立された。
後任のペリュー師によって建て替え工事がおこなわれ、
1907年(明治40年)に現在の教会が完成し、翌年1908年(明治41年)に祝別された。

さらにこの地は宣教再開と同時期に、宣教師の指導のもとにはじまった子部屋と、
その事業母体となった女部屋発祥の地でもあり、
信仰に貫かれたもうひとつの歴史が刻まれている。

堂崎教会 
マルマン・ペリュー像(復活の夜明け)

教会前の広場は約6000年前の縄文時代前期の堂崎遺跡もあり、
冬から春頃にかけて天主堂横に珍しいマングローブ植物のハマジンチョウが
薄紫色の可憐な花を咲かせる。
ハマジンチョウ (ゴマノハグサ科)

聖ヨハネ五島
五島出身でただ一人の聖人である「聖ヨハネ五島」の聖像
日本26聖人の一人、1578年福江生まれ、1597年2月5日19歳で長崎にて殉教した。
「聖ヨハネ五島」
1862年教皇ピオ9世により聖人の位に挙げられた。

五島キリシタン史跡
五島キリシタン略史