長崎県・佐賀県・伊万里市
長崎スカイホテルー平和記念公園ー長崎歴史文化博物館ー眼鏡橋ー出島ー魚市場(昼食)ー
西海橋公園ー佐賀県立陶磁文化館ー伊万里セントラルホテル
長崎スカイホテルから長崎港を望む 06:14
朝食 07:06
鬼鯖鮨(三井楽水産)前日、福江島で購入、しじみ汁付き
東シナ海より水揚げされた真鯖を使用し、
独自の旨酢に浅く漬け込むことにより鯖の旨さを引き出している。
鬼鯖鮨 07:06
長崎スカイホテル ロビー 08:00
平和記念公園 平和祈念像前にて記念撮影 08:28
高く掲げた右手は原爆の脅威を
水平に伸ばした左手は平和を表し
軽く閉じた瞼は原爆犠牲者の冥福を祈る。
平和祈念像建立のことば
平和祈念像
作者:長崎県出身の彫刻家・北村西望
平和祈念像
平和祈念像
像台座後部に刻まれている作者の言葉
顔は戦争犠牲者の冥福を祈る、是人種を超越した人間、時に佛、時に神
北村西望
平和祈念像
平和祈念像
モデルは長崎県に暮らしたことがあるプロレスラーの力道山という説もある。
平和祈念像
平和記念公園から浦上教会を望む 08:36
平和記念公園から浦上教会を望む 08:36
原爆で倒壊した後、1959 年に再建されたカトリック教会
平和記念公園からの眺め 08:36
折り鶴の塔 08:41
折り鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、
被爆から10年後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんが大きくかかわっている。
浦上教会を見る 08:49
平和記念公園から長崎歴史文化博物館へ行く途中で寄った。
長崎歴史文化博物館 山のサンタマリア教会跡
地下駐車場から上がったところ 09:07
山のサンタマリア教会は1600年に建立、1614年には禁教令により破壊に至った。
その後、長崎奉行所がこの地に設置された。
歴史文化博物館建設の事前調査で石組み地下室や側溝の跡が確認された。
長崎歴史文化博物館 長崎奉行所ゾーン
長崎歴史文化博物館 長崎奉行所ゾーン
長崎歴史文化博物館 エントランスホール
坂本龍馬像の傍で記念撮影
長崎歴史文化博物館 エントランスホール
坂本龍馬像の傍で記念撮影
長崎歴史文化博物館 ミュージアムショップの女性:鉄川与助の子孫
長崎奉行所ゾーン 奉行所の池
長崎歴史文化博物館 雨森芳洲(対馬藩儒学者)
朝鮮外交との友好親善に努めてた。「誠信の交隣」
明治31年ころの長崎の地図 出島がある
長崎歴史文化博物館 学生たちが見学
長崎歴史文化博物館 御用棹銅百斤入り箱
1箱に200本入りで重さ60㎏で輸出した。
長崎歴史文化博物館 黄檗宗の文化
長崎に暮らす中国人に招かれて、福建省から長崎に隠元は渡来した。
隠元が宇治の万福寺で開いた黄檗宗は幕府や大名の支援もあり全国に広がった。
長崎歴史文化博物館 黄檗宗の文化
中国風の建築様式の唐寺(興福寺、福済寺、崇福寺)創設。
中国の祭祀が営まれ、長崎で亡くなった中国人の墓地もある。
長崎歴史文化博物館 写真機
長崎歴史文化博物館 展示品
国際海底電線小ヶ倉陸揚庫配電盤
長崎歴史文化博物館 展示品
千本海底線陸揚室
長崎歴史文化博物館 展示品
大北電信海底ケーブル経路図
長崎奉行所ゾーン
長崎奉行所ゾーン 玄関
長崎奉行所ゾーン 白砂
長崎歴史文化博物館 展示品 10:12
坂本龍馬写真撮影風景
坂本龍馬は新しもの好きでハイカラな最新技術である写真の撮影を好んだ。
明治時代の写真は非常に高価な物で当時の写真撮影料は1枚撮影するのに
現在の貨幣価値で6~8万円、焼き増しに1万円かかった。
龍馬は上野写真館で5回も撮影し、名刺代わりにその写真を焼き増しして配った。
上野彦馬は、幕末の科学者で日本で最初のカメラマンである。
ダゲレオタイプの写真機(撮影時間約2分間~30分間)を輸入し、
撮影技術を身に付けたことで、それを最新式の湿式写真の技術を独自で学んで、
20~30秒という短い撮影時間に改良した。
眼鏡橋 10:33
眼鏡橋 駐車場なし
眼鏡橋周辺地図
眼鏡橋
中島川に架かる眼鏡橋は1634年(寛永11年)、
中国から来日して興福寺の二代目住職だった黙子如定によって建造された。
日本初の石造りアーチ橋で1960年に国の重要文化財に指定された。
中島川に架かる飛び石橋
眼鏡橋 10:36
出島の傍を通るカラフルな市電 10:52
出島 駐車場 10:52
出島 築造当時の護岸石垣
出島 南側護岸石垣
石垣と木の杭
出島 西側門閉鎖中 10:56
国指定史跡 大正11年10月12日石碑
出島和蘭商館跡
1634年江戸幕府の対外政策の一環として長崎に築造された人工島。
扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)、日本初の本格的な人工島である。
東インド会社を通して対オランダ貿易が行われた。
出島全体は1922年(大正11年)10月12日、
「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。
明治以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、
扇形の人工島であった頃の面影は失われたが、1996年(平成8年)より、
江戸当時の姿への復元を目指す出島復元整備事業計画が長崎市により進められている
出島 西側から見る
出島 表門橋
出島マップ
出島展示品 銅倉 御用棹銅百斤
1箱に200本、重量60㎏を入れて輸出した。
出島 展示品 鮫皮
南シナ海やインド洋にいるエイや様々な魚の川の総称。
日本では刀の鞘や柄の装飾に用いた。
出島 芝生広場
修学旅行生徒が説明を聞いている
出島 キリシタン橋とぶどう棚
ミニ出島
旧出島神学校
デジマノキ(和名コパールニキ)日蘭交流の記念樹
東南アジアに分布するナンヨウスギ科の常緑樹。
オランダ人が東洋貿易の拠点としたジャカルタから幕末の頃、移植した。
旧長崎内外クラブ
出島中通り 西側を見る
出島中通り 西側を見る
出島 一番船船頭部屋 天秤秤
出島 西側水門
屋根の修復工事
ヘトル部屋(南側)
カピタン部屋
シュガーロード
砂糖文化を広めた長崎街道
砂糖流通量
宝暦3年(1759年)には、現在の金額で24億円相当が輸入されていた。
丸山遊女たちのプレゼントされた砂糖は、銀に替えられていた。
中島川沿いの1番館、2番館、3番館あたり
中島川沿いの1番館、2番館、3番館あたり
地震予知器模型
磁石に吊り下げられている重りが地震の揺れで落下する。
出島菜園跡の発掘調査で出土した種痘用の仔牛の遺体
種痘の普及
1796年に発明された牛痘法は、日本ではオランダ商館医や
蘭方医楢林宋建の努力により嘉永2年(1849年)に成功した。
その後、種痘は全国に普及し天然痘蔓延の予防に大きな効果をあげた。
貸し衣装で記念撮影の女学生
旧出島橋の石柱
旧出島橋模型
寛政10年(1798年)大きな火災があったが再建した。
出島表門にてスナップショット 11:43
出島南側を走る市電 11:54
長崎水産食堂 12:37
長崎水産食堂駐車場
長崎水産食堂
長崎水産食堂 甘鯛の唐揚げ付きお刺身定食 \1,400
甘鯛の唐揚げ付きお刺身定食(食の途中で撮影)
長崎水産食堂 昼食 13:03
西海橋公園
西海橋 国道202号線 14:31
西海橋と渦潮 大村湾側を望む
赤い橋:西海橋(国道202号線)
白い橋:新西海橋(国道202号線バイパス・西海パールライン有料道路)
伊ノ浦瀬戸の渦潮(西海市側からの展望)
伊ノ浦瀬戸、針尾瀬戸
大村湾を塞ぐ針尾島(佐世保市)と西彼杵半島(西海市)の間の水域。
佐世保市と西海市との境界であり、西海橋と新西海橋が架けられている。
屈曲した狭い海峡であり、最狭部は幅約170mほどである。
大変流れが早く10ノット以上になるときもあり、渦潮を見ることができ、
日本三大急潮の一つとされる。
針尾瀬戸の呼び名は、針尾島がある佐世保市側から見た名称であり、
伊ノ浦という入り江がある対岸の西海市側から見た名称では伊ノ浦瀬戸と呼ばれる。
伊ノ浦瀬戸の渦潮 14:38
2021年10月20日 転流時11:14、最強時14:17・流速-4.4kn、主流向WNW
佐世保海上保安部 (財)海上保安協会佐世保支部の補助事業により作成
新西海橋と伊ノ浦瀬戸 佐世保湾側を望む
全長:620m、幅員:14m、2006年3月5日に開通した。
路線:国道202号江上バイパス:西彼杵道路(西海パールライン有料道路)
桁下に歩行者専用道があり展望室もある。歩道は無料。
この展望室の床にはガラス製窓があり、眼下に渦潮を眺めることができる。
西海橋にて 14:41
新西海橋と伊ノ浦瀬戸
長崎のケーブルテレビ局の撮影クルーが、
当日(10/20)の最強の渦潮時間(14:17)に合わせ取材していた。
伊ノ浦瀬戸の渦潮 14:46
佐賀県立陶磁文化館
佐賀県立陶磁文化館 15:50
佐賀県立陶磁文化館 大皿
佐賀県立陶磁文化館 無料
佐賀県立陶磁文化館
佐賀県立陶磁文化館 展示品
佐賀県立陶磁文化館 展示品
佐賀県立陶磁文化館 展示品
詳細は「佐賀県立陶磁文化館」参照
回転寿司若竹丸 17:47
回転寿司若竹丸 夕食
長崎を中心に17店舗展開する回転寿司チェーン。
長崎魚市場から旬の魚を直接大量に買い付ける。
酢や醤油は、ネタに最適な完全自社ブレンドのものを使用している。
全てオーダーが来てから握る。
回転寿司若竹丸
伊万里セントラルホテル 19:00