2025年11月5日(土)
同期入社の3人で、武蔵野市立歴史公園にある武蔵国分寺跡資料館、武蔵国分寺跡、
文化財資料展示室、武蔵国分尼寺跡などを訪れた。
国分寺市内には、史跡武蔵国分寺跡以外にも数多くの旧石器時代や縄文時代の遺跡も残されている。
東山道武蔵路出土、国分寺市教育委員会所蔵
昭和57年3月、武蔵国分尼寺の寺域確認調査の際に、僧寺と尼寺の間を南北に走る東山道武蔵路で発見された。頭部に阿弥陀如来の化仏を施した低い三面宝冠をいただき、蓮肉上に立ちわずかに右膝を出し遊足としている。素朴で童顔の面相に古式の微笑みをたたえている。
火災にあったので欠損した部分は東京国立文化財研究所で保存修復された。
法隆寺の夢殿の観音像に類似していることから白鳳期後半(7世紀末~8世紀初頭)に東国で制作されたと考えられる。関東地方で最も古い白鳳仏であり、素材の銅の分析の結果、
国内で採掘された銅が利用された可能性が高い。
国分寺市指定文化財 国分寺市教育委員会所蔵
多摩蘭坂遺跡出土(立川ローム層第X層出土)
多摩蘭坂遺跡出土(立川ローム層第X層出土)
旧石器時代第Ⅰ文化期(約3万5千年~1万9千年前)
国分寺崖線の湧水源付近から旧石器時代の石器が数多く発見されている。
行程
自宅10:00・・Su宅・・Se宅・・11:47国分寺市役所駐車場~~武蔵野市立歴史公園~~国分寺崖線下地域~~12:07武蔵国分寺跡資料館~~13:07史跡の駅「おたカフェ」~~13:46真言宗豊山派武蔵国分寺(万葉植物園)~~13:50武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢地域)~~14:04七重塔跡~~14:19文化財資料展示室~~14:50武蔵国分尼寺跡~~15:17お鷹の道遊歩道(柿購入)~~15:20僧寺北東地区~~15:29伽藍地北辺の区画溝跡~~武蔵野市立歴史公園~~15:47国分寺市役所駐車場・・17:14藍屋羽村店・・Se宅・・Su宅・・18:50自宅 (走行距離:68㎞、9,039歩)
令和6年11月2日落成記念式典(泉町)、令和7年1月6日開庁、旧庁舎(戸倉)昭和38年建設
国分寺市新庁舎建設事業事業費 約148億5千万円 jigyousi.pdf
タイムズ国分寺市役所利用(11:38入庫)
江戸時代寛延元年より国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定されていた。
嘉祥元年(848)、絶世の美女といわれた玉造小町が皮膚の病で苦しみ、病気平癒の祈願のため国分寺を訪れ21日間日参すると一人の童子が現れ小町を池に案内し、この池で身を清めるように言って姿を消したので、小町がそのとおりにすると病は消え元の美しい姿に戻ったという伝説がある。
水量約5~30l/秒。飲用としては不適と記してあるが、飲んでみるとまろやかで美味しかった。
湧水源の水をペットボトルにいれて持ち帰る人をみかけた。
東京都指定の名水なのでコーヒーなどに使うのかもしれない。
おたかの道湧水園・本多家住宅倉
旧本多家住宅長屋門リーフレット
旧本多家住宅長屋門展示室2階から見る
旧国分寺市役所旧庁舎に設置されていたが、解体に伴い平成24年に移設された。
男瓦「寺」朱墨書、女瓦「寺」朱墨書、須恵器、土師器
土師器 甕・蓋 武蔵国分寺跡出土
風字硯、円面硯、金泥付着灰釉陶器碗
当時の硯は石で作られていたものではなく、須恵器や灰釉陶器の窯で焼かれた陶器製の硯であった。
全国の国分寺・金光明四天王護国之寺 12:49
法華滅罪之寺(尼寺)
741年、都には東大寺を、全国およそ60か所に国分寺と国分尼寺を造るように命じた。
これらの国分寺には、七重塔と釈迦像を造るように命じた。
塔:卒塔婆(ストューパ)の略語
旧石器時代から縄文時代へ
旧石器時代の石斧
磨製石斧 国分寺市指定文化財 国分寺市教育委員会所蔵
多摩蘭坂遺跡出土(立川ローム層第X層出土)
多摩蘭坂遺跡出土(立川ローム層第X層出土)
旧石器時代第Ⅰ文化期(約3万5千年~1万9千年前)
国分寺崖線の湧水源付近から旧石器時代の石器が数多く発見されている。
縄文時代中期 国分寺裏山出土 国分寺所蔵
国分寺市指定文化財 石鏃
縄文時代中期・後期 国分寺市遺跡出土 国分寺所蔵
土偶
縄文時代中期 多喜窪遺跡出土 国分寺市教育委員会所蔵
縄文時代中期 国分寺市内遺跡出土、八幡前遺跡出土 国分寺所蔵
土偶
縄文時代中期 恋ケ窪遺跡出土 国分寺市教育委員会所蔵
国分寺市指定文化財 硬玉製
縄文時代中期 恋ケ窪遺跡土坑出土 国分寺市教育委員会所蔵
国分寺市指定文化財 垂飾
縄文時代後期 多喜窪遺跡出土 国分寺所蔵
国分寺市指定文化財 耳栓
縄文時代後期 市内遺跡出土 国分寺所蔵
垂飾(玦状耳飾りの転用)
縄文時代中期 恋ケ窪遺跡竪穴住居跡出土 国分寺市教育委員会所蔵
国分寺市指定文化財 深鉢(加曾利EⅡ式土器)
縄文時代中期 多喜窪遺跡出土 国分寺所蔵
国分寺市の文化財(展示室2)
銅造観世音菩薩立像 東京都指定有形文化財(昭和58年5月6日指定)
東山道武蔵路出土、国分寺市教育委員会所蔵
昭和57年3月、武蔵国分尼寺の寺域確認調査の際に、僧寺と尼寺の間を南北に走る東山道武蔵路で発見された。頭部に阿弥陀如来の化仏を施した低い三面宝冠をいただき、蓮肉上に立ちわずかに右膝を出し遊足としている。素朴で童顔の面相に古式の微笑みをたたえている。
火災にあったので欠損した部分は東京国立文化財研究所で保存修復された。
法隆寺の夢殿の観音像に類似していることから白鳳期後半(7世紀末~8世紀初頭)に東国で制作されたと考えられる。関東地方で最も古い白鳳仏であり、素材の銅の分析の結果、国内で採掘された銅が利用された可能性が高い。
唐草四獣文堂蓋 東京都指定有形文化財(平成9年3月14日指定)
僧寺寺院地南西地区竪穴住居跡出土、国分寺市教育委員会所蔵
武蔵国分寺の寺院地内の鍛冶工房と思われる竪穴住居跡 から出土した。口径は 16 ㎝。
もとは金属製の椀あるいは数個の椀を入れた入れ子状食器などの蓋と考えられるが出土したのはこの蓋だけであった。出土した竪穴住居は火災により焼失した住 居で、この蓋も火熱により一部が溶けて歪んでいる。もとは半球の形をしていたと思われるが押しつぶされたためか出土されたものは平たい形になっている。
また、保存処理の過程で線刻文様があることが分った。その文様は紐の内側 に連珠文と四葉文があり、紐の外周には四つの獣形文と唐草文がめぐらされ、獣形 文と唐草文付近には魚々子と呼ばれる小さな粒を刻んだ細工が施されていた。このような奈良時代の銅製品は法隆寺や東大寺の正倉院などに残されている。
文様の類似した製品は正倉院所蔵の佐波理蓋第二号のみで、文様が共通している点から朝鮮半島で製作された可能性も指摘されている。
東京都指定有形文化財 唐草四獣文堂蓋
保存処理された銅蓋
東京都指定有形文化財(平成2年3月22日指定)武蔵国分寺跡出土、国分寺市教育委員会所蔵
緑釉唾壺 平安時代中頃
国分寺市指定重宝(昭和39年1月15日指定)多喜窪横穴墓出土、国分寺所有
医王山縁起(版木) 国分寺市指定重有形要文化財 国分寺所蔵
建武 2 年7月の年月が記された「医王山縁起」の版木
江戸時代に
参詣人へ配布するために作られた版木で2枚一組となっている。
医王山縁起 国分寺市指定重有形要文化財 国分寺所蔵
寺院や神社に参拝に行くと、創建の由来や祭神・ 本尊を紹介するしおりを戴くことがある。江戸時代半ばになると、地誌や紀行文が刊行され、江戸市 中の人々がそれらの刊行物を読み、江戸の近郊へも出かける ようになった。「物見遊山」の人々に寺院や神社が、 多くの参詣人を惹きつけるために創建の由来や霊験を木版 刷りにして、配ったのが縁起である。
医王山最勝院国分寺の縁起は、聖武天皇の勅命により建立 されたことや、薬師如来や十二神将が歴史上高名な源頼義や 新田義貞、文覚上人などと関わりを持った霊験話として記述されている。
また真姿の池や人見山(府中市浅間山)の名前の由来が霊験話となって紹介されている。。
トキの剥製
1981年にトキは日本の自然からいったん姿を消した。1999年に中国から2羽のトキが贈与された。
一度に全滅を避けるため2007年から佐渡島外に分散飼育施設が設けられ非公開で飼育している。
この剥製は分散飼育施設の一つ、いしかわ動物園で2011年に生まれたメスで、
その後佐渡トキ保護センターに移され3歳のときに死亡した。
No.343という飼育個体番号が付けられている。
国分寺市と姉妹都市である佐渡市よりこの剥製が貸与されて2016年4月より展示している。
東山道武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)であった。
東山道武蔵路
東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つであった。
武蔵国は相模国の東に接する海沿いの国ではあったが、近江国を起点に美濃国・飛騨国・信濃国・上野国・下野国・陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。
道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが原則であり(例:東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。
その結果、上野国府 - 新田駅(上野国) - 武蔵国府 - 足利駅(下野国) - 下野国府というルートが採用されることになり、新田駅 - 足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。
この突き出した部分が東山道武蔵路である。(Wikipedia)
発掘された東山道武蔵路(西国分寺地区)
武蔵国分寺跡第769次調査、武蔵国分寺跡第770次調査、武蔵国分寺跡第776次調査、
本町遺跡第22次調査
須恵器、土師質土器、転用硯「平瓦(女瓦)を転用」
武蔵国分寺跡第769次調査
武蔵国分寺跡第769次調査
武蔵国分寺跡第770次調査
武蔵国分寺跡第776次調査
本町(国分寺村石器時代)遺跡第22次調査
打製石斧、磨製石斧、楔形石器、磨石(凹石)
本町(国分寺村石器時代)遺跡第22次調査
奈良時代の中頃の天平13年(741年)、政治の混乱や社会不安の続く国内を仏の力で国を安定させるために、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じた。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置された。武蔵国分寺の伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際に焼失したと伝えられている。しかし江戸時代には武蔵国分寺跡は江戸近郊の名所として知られるようになった。大正11年(1922年)に国史跡に指定され、国分寺市ではその一部を市立歴史公園として整備し、保存と活用に取り組んでいる。
武蔵国分寺跡の主要遺構講堂跡 13:53
講堂は経典の講義などが行われた建物
本尊仏を安置した建物
国史跡七重塔跡付近 14:03
七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200mのところに位置する。
「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置する施設。
3間(約10m)四方の礎石建物で、高さは約60mあったと推定される。
「続日本後紀」に、承和2年(835年)七重塔が雷火で焼失し、壬生吉志福正が再興を願い出て許されたと記されている。
発掘調査では、再建された塔が創建期と同じ位置に建てられたことを確認している。
また、平成15年度の地下レーダー探査により、礎石の残る塔跡(塔跡1)の西方約55メートルの地点で、もう一つの塔跡(塔跡2)が発見された。
塔跡2には大規模な地盤固めの跡(版築・はんちく)があるのみで礎石は残っていない。
塔跡2と塔跡1の建て替えとの明確な関係は把握できていない。
現在、中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎を含め7個の礎石が残っている。
中央のほぞ穴(心柱を受ける穴) 14:06
南門 14:15
南門と伽藍地区画溝に架かる木橋
胴部にムカデを思わせる抽象文が11か所描かれている。
武蔵国分寺を営繕する施設(修理院)と考えられる鍛冶工房跡が見つかった市立第四中学校内から出土した瓦、土器、鉄製品などを中心に展示している。
また、武蔵国分尼寺跡の整備事業を紹介する動画の上映をしている。
事前に動画を見たおかげで実際の武蔵国分尼寺跡がより理解できた。
中央の黄色い線:東山道武蔵路
東山道武蔵路の右側に武蔵国分寺跡、左側に武蔵国分尼寺跡がある。
元町四丁目のJR武蔵野線西側に武蔵国分尼寺跡が広がっており、
国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定されている。
史跡指定地は、国分寺市最初の市立歴史公園として平成15年4月に開園した。
確認調査の成果に基づき、尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示している。
尼坊は柱位置が判明したので、新たに石を配置してある。
このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)を表示している。また、金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設がある。
尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられるが、保存したまま、広場としてご利用している。さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡がある。
ガード下の通りが「伝鎌倉街道」になる。
3名で約8,200円、Se氏よりJCBギフトカード5,000円分補助あり
藍屋羽村店・・Se宅・・Su宅・・18:50自宅 (走行距離:68㎞、9,039歩)