2017年12月9日土曜日

2017年11月14日(火曜) ルンビニからネパール出国、シュラバスティ(舎衛城)へ


2017年11月14日(火曜)
ルンビニからネパール出国、シュラバスティ(舎衛城)へ

事故のため大型観光バスがネパールの警察に保留されたため、
他の3台の車に分乗(1台は荷物と運転助手がホテルに直行)して
ネパールのティラウラコットやマヤ・デヴィ寺院を見学した。
早朝、その3台の車でインド国境まで行き別に手配した大型観光バスに乗り換えた。
午前6時、3台の車に分乗してホテルをインド国境に向かって早い出発
ネパールは1日だけの滞在
6:45 ネパール国境到着

ネパール・インド国境
ネパール出国手続き後、再びインドへ

インド側で待っていた観光バス

インド入国手続きに、300人近くの観光客が来ていたが何とか手続きを完了して
運転手のプラディープさんと助手のパプーさんと共に再出発。

7:00 3台の車はここで返却


1.ピプラハワ(カピラ城跡)
インド側のカピラバストウ城跡で広大な敷地にストゥーパや僧院跡が見つかった。
ストゥーパからは仏舎利が納められていた水晶の壺が見つかった。
現在、デリーの国立博物館に展示されている。

僧院跡からはカピラバストウと記された印章が見つかったことから、
ピプラハワのカピラバストウ説が注目されるようになった。
ネパール側のカピラバストウ城跡とインド側のカピラバストウ城跡は
近いので2つの地区は同じ地区内とも考えられる。

しかし、発掘調査の進んだ現在ではシッダールタ王子が過ごした釈迦族の都は
ネパールのティラウラコットで、
インドのピプラハワはカピラヴァストゥがコーサラ国に滅ぼされた後、
生き残った釈迦族が移り住んだ場所という説が有力となっている。
インド側のカピラバストウ



何という名の鳥かな?
広大なカピラバストウ城跡

ストゥーパから仏舎利が納められていた水晶の壺が見つかった。
現在、デリーの国立博物館に展示されている。

カピラバストウ城跡のストゥーパ(カピラ城跡)

カピラバストウ城跡のストゥーパにて
カピラバストウ城跡の蓮池

11月なのに多くのスイレンが咲いていた

カピラバストウの僧院跡
2.ガンワリア
カピラバストウの宮殿跡というが小さいので僧院跡かもしれない。
ガンワリア説明版

カピラバストウの宮殿跡

僧院跡 丸い囲いは井戸
僧院跡の中庭に井戸があり、地元の人がいて水を汲んで飲ませてくれる。
きれいな水であったが飲んで下痢するといけないので手を洗わせてもらった。

宮殿跡? 僧院跡(修行部屋がある)

添乗員・椎野さん、K氏、ガイド・アローラさん

ガンワリア僧院跡
3.昼食
王様の別荘を改築したホテルで昼食
ここに来るまでは細い田舎道で着いてびっくり!
こんなところにきれいな庭や建物がある!

この部屋で昼食

ここからシュラバスティまで約120㎞のガタガタ道を行く。
ダム
遠くまで田園風景

とこまでも真っ直ぐな鉄道

典型的な田舎の家

家の前で資材の露天商

あちこちで見かけるレンガ工場

低地で露出した電力用変圧器
接続端子は露出している

竹で支え露出した簡単な電線接続、感電の危険性大
低いほうが作業しやすいのかな?

中学生かな?高校生かな?

途中の町

鉄道は続く

市街地の露天商
4.サヘト(祇園精舎跡)

仏陀が24年間雨安居(うあんご)の時、説教した祇園精舎跡を訪ねた。
その他の時期には説法のため少数の弟子を連れてガンジス川流域の各地を訪れている。

正式名は、祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)である。
釈迦が弟子1000人に説法を行った場所で、
寺院は7階建て、1階と2階はレンガ、それ以上は木造であったという。
天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の1つである。

一帯は歴史公園に指定されている。
公園内には釈迦が説法を行った場所とされる香堂
(ガンダクティ Gandhakuti、釈迦が寝食を行っていたとされる場所)や
ストゥーパなどが残されている。
また園内には、仏教において二番目に尊いとされる菩提樹、「阿難菩提樹」がある。
祇園精舎は聖地の1つとして重要な位置を占めているが、
その中でもガンダクティが最も重要とされる。
サヘト(Sahet Sravasti)説明版

サヘト案内板
ブッダを中心とする教団の活動拠点となったのは祇園精舎
(コーサラ国の都シュラーヴァスティー,舎衛城)と
竹林精舎(マガダ国の都ラージャグリフ,王舎城)である。

祇園精舎跡

祇園精舎跡 見学学生たち

香堂
(ガンダクティ Gandhakuti)
「阿弥陀経」は、ここで説かれたと伝えられている。

祇園精舎跡

祇園精舎跡

祇園精舎跡 祈りをしている僧侶

歴史公園には多くの猿が居た。

阿難菩提樹
アナンダ(阿難)がスリランカから持ってきた菩提樹
この菩提樹は、仏陀の替わりとして多くの人が訪れていた。

阿難菩提樹

まだ未発掘の場所がある

祇園精舎跡 沐浴場

祇園精舎跡 僧院跡

名前の由来(ウィキペディアより)
梵語名は、「ジェータ太子の森(林)」 (祇陀林, Jetavana) と
身寄りのない者に施しをする」 Anāthapiṇḍada) を連記した名であり、
以下の由来による。

 スティーに、スダッタ(Sudatta 須達多)という富豪がいた。
身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者」あるいは
「給孤独長者」 (アナータピンディカ Anāthapiṇḍada) と呼ばれていた。

ある日、スダッタは、釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、
彼に説法のための寺院(精舎)を寄付しようと思い立った。
以前の仏教教団は一年中歩きまわって布教・托鉢などの修行(遊行)を行っていたが、
雨季での遊行は虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまうため、
雨季だけは建物内で修行するようになっていた(安居)が、
教団にふさわしい施設を欠いていたからである。

 そして見つかった土地が、
ジェータ(jetṛ、祇陀)太子の所有する園林(vana) であった。
その土地の譲渡を望むスダッタに対して、
ジェータ太子が
「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言った。
しかし、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、
ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し更に自らも樹木を寄付して、
寺院建設を援助した。

そのため、この僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して
祇樹給孤独園と呼ばれ、
そこに建てられた精舎を「ジェータ太子の森(漢訳で「祇陀樹」、略して「祇樹」)、
身寄りのない者に施しをする長者
(漢訳で「給孤独長者」、略して「給孤独」)の園林(園)にある精舎」と呼び、
漢訳では「祇樹給孤独園精舎」、略して「祇園精舎」と称するようになった。

5.マヘト(舎衛城跡)
サヘト(祇園精舎跡)からマヘト(舎衛城跡)へ行く道

マヘト(舎衛城跡)
スダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパ

マヘト(舎衛城跡)
スダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパ

マヘト(舎衛城跡)
スダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパから周辺を望む
北東500メートルの城壁に囲まれた一帯が舎衛城跡

マヘト(舎衛城跡)頂上にて
道路を挟んで2つの仏塔がある。
この場所はスダッタ長者の屋敷跡に建てられたストゥーパ、
向かい側にあるのは、アングリマーラの屋敷跡である。

アングリマーラの屋敷跡
アングリマーラの屋敷跡
アングリマーラの屋敷跡
「パッキワティ」と呼ばれ「大唐西遊記」に記録がある。

アングリマーラの伝記
アングリマーラ(アヒンサ)はバラモンの出身で、
マニー・ヴァードラ師に師事し四ヴェーダを学んでいた。
アングリマーラは力も強く智慧が優れ容姿も端麗であったという。
マニー・ヴァードラ師の妻が
師の留守の時、彼に恋慕し誘惑したが拒絶され
恥をかかされたことを恨んで、夫にアングリマーラに犯されそうになったと嘘をついた。
師は、優秀で目をかけていた弟子に裏切られたとがっかりし、
怒って普通のこととは逆のことを教えた。
それは「通りで出逢った人を順に百人を殺して、
その指で首飾りを作りるとお前の修行は完成する」と命じた。

アングリマーラは、そんな師の教えに驚き悩んだ末に、
師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。

99人を殺し、あと1人で100人になるというとき、
家で彼の帰りが遅いのを心配していた母親が、彼を迎えに行き
このままでは母親が100人目になって殺されてしまうのを
釈尊がアングリマーラの行状を比丘から聞いて知っていたので
その時を神通によって知り、その場へ駆けつけ、
アングリマーラ(指鬘:しまん)に説法し改心させた。
そして彼を祇園精舎に連れ帰り出家させた。
こうしてアングリマーラは、仏弟子となり苦行の末ついに悟りを開いたという。



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シュラバスティからサーンカシャへ