1.厚岸町国泰寺跡(1804年)
江戸時代後期にロシアの南下・場所請負制度の弊害など北辺の危機が叫ばれる中で、
箱館奉行の願い出により文化元年(1804)に設置が決定された
蝦夷三官寺(厚岸の国泰寺、伊達の有珠善光寺、様似の等澍院)のひとつ。
国泰寺(臨済宗鎌倉五山派景運山国泰寺、現在南禅寺派)
アイヌ民族弔魂碑
2.モヨロ貝塚館(オホーツク文化)網走市
モヨロ貝塚館 (史跡最寄貝塚展示館)「北の海に活きる」海の狩人 モヨロ人
モヨロ貝塚は、網走河口付近の左岸台地上にあるオホーツク文化の代表的な遺跡で十数個の竪穴群と墓地と重複した貝塚がある。
オホーツク文化
本州で古墳文化が始まった頃、北方のオホーツク 海域では、
千島列島、サハリン、アムール川流域を結ぶ広域な文化圏が栄えた。
モヨロ貝塚の担い手は、アイヌ文化興隆以前、
サハリンを拠点に北の海を往来したニブフ民族(ギリヤーク族)だったらしい。
オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、
アイヌ文化へも受け継がれていく。
6世紀~11世紀にかけて、突然に現れ忽然と消えたオホーツク文化とモヨロ人がいた。
モヨロ遺跡発掘調査写真(昭和23年)
大正2年(1913)9月、考古学に関心をもっていた函館の理髪師米村喜男衛氏が発見する。
網走川河口左岸の平地の地中から、従来とは全く異なった千年ほど前の遺跡が発掘された。アイヌ人とも、現存するどの民族とも違う彼らを、当時の付近の最寄村から名をとり
「モヨロ人」と呼び、貝塚も「モヨロ遺跡」と名づけられ、
オホ-ツク文化研究の 端緒となった。
貝塚の最上部は、アイヌの人々の文化である。
4.釧路市北斗遺跡
(旧石器時代~擦文時代に至る重複遺跡)
ふるさと歴史の広場
北斗遺跡は、旧石器時代から縄文・続縄文時代を経て擦文時代に至る重複遺跡で、
釧路湿原を望む標高20m前後の台地上の東西2,500m・南北500mの範囲に、
縄文・続縄文時代の浅い円形・楕円形竪穴102軒、
擦文時代の四角形竪穴232軒がくぼんだ状態で残されている。
1977年7月、釧路湿原西縁において最も規模の大きい重要な遺跡であることにより、
東側233,471平方メートルが国指定史跡となった。
北斗遺跡鳥観図
過去の発掘調査では、旧石器時代の火を焚いた跡、縄文時代の住居跡・墓や小貝塚、
擦文時代の住居跡などが確認されている。
擦文時代は、鉄器、繊維遺物、はた織具の一部、栽培植物の種子などが出土している。
史跡北斗遺跡展示館・管理事務所
史跡展望台より竪穴住居跡群と釧路湿原を望む
北斗遺跡復元住居
北斗遺跡復元住居
5.東京大学常呂資料陳列館
トコロチャシ跡遺跡(サロマ湖)
1994年には北見市(旧・常呂町)によって施設付近の一帯が
史跡公園「ところ遺跡の森」として整備された。
東京大学常呂実習施設
東京大学常呂資料陳列館
東京大学が北見市常呂町などでおこなった発掘調査の出土資料、
旧石器時代からアイヌ文化期までの北海道の先史文化を展示している。
常呂貝塚説明板
続縄文時代 宇津内式土器
ソーメン状貼付文土器
ソーメン状の細い粘土紐を直線、波状に施してある。
オホーツク文化
史跡公園「ところ遺跡の森」
トコロチャシ跡遺跡
北海道北見市常呂町にあるトコロチャシ跡遺跡群は、
常呂川の河口から約600mさかのぼった地点の、
標高約15〜30mの常呂川東岸台地上に拡がる遺跡群である。
遺跡群は台地の全面に拡がっているが、
台地の北と南には竪穴住居跡などの遺構が集中する地点がある。
台地の北端にあるアイヌのチャシ跡を中心とする地点は「トコロチャシ跡遺跡」、
チャシ跡の南西隣にあるオホーツク文化の集落跡は「トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点」、
台地の南縁に位置する竪穴群は「トコロチャシ南尾根遺跡」と呼ばれてきた。
トコロチャシ跡遺跡群は、
これらの地点とそれ以外の台地の全面を含めた遺跡群の総称となる。
この遺跡群では、縄文早期からアイヌ文化期に至るまで、
各時期の遺構や遺物が確認されている。
中でも特徴的なのは、18世紀前半頃に構築されたアイヌ文化期のチャシ跡と、
16軒以上の竪穴住居跡が残るオホーツク文化の集落跡である。
ほかにも、縄文早期の石刃鏃石器群の遺物集中、縄文中期・後期、続縄文、
擦文の各時代の竪穴住居跡、オホーツク文化の土坑墓などが発掘されている。
遺跡群の調査は1960年に東京大学文学部考古学研究室によって開始されている。
その後、2009年までの間に、東京大学および北見市(旧・常呂町)による学術調査や
事前調査が計25回にわたって行われた。
2002年には遺跡群全体が国指定史跡「常呂遺跡」に追加指定されている。
6.北見薄荷記念館
北見市薄荷館
薄荷蒸留館
薄荷栽培展示
7.釧路米町公園・米町ふるさと館・港文館(石川啄木)
釧路市発祥の地といわれる米町の高台にある公園。
昭和25年に面積0.22ヘクタールの児童公園として都市計画決定がされたが
その後、米町土地区画整理事業により公園区域の変更がなされ、
あわせて昭和63年度より市内唯一の特殊公園(歴史公園)として再整備が行われた。
米町公園からは港沿いに広がる釧路の街を一望することができる。
敷地内には、石川啄木の北海道初となった歌碑がある。
釧路最古の木造民家「米町ふるさと館」があり、
古い街並写真や啄木の資料も展示されている。
釧路米町公園 米町展望台
灯台をかたどった米町展望台、晴れた日には遠く摩周岳や斜里岳、
襟裳岬に続く日高の山々を見渡せる。
釧路米町公園 釧路港を望む
釧路米町公園 旧釧路市街を望む
釧路米町公園 釧路港を望む
ルピナスの花
釧路米町公園 釧路港を望む
石川啄木のの歌碑
「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」
釧路米町公園 高濱虚子句碑(2001年建立)
「燈台は 低く霧笛は 峙(そばだ)てり」
釧路米町公園 米町再開発記念 未来の窓「温故知新」
米町ふるさと館
1900(明治33)年に建設された。
釧路市最古の木造民家「旧田村邸」を資料館として保存再生した。
館内には当時の生活様式が偲ばれる調度品や当時の町並みの写真、
石川啄木の資料などがある。
旧田村邸説明板
米町ふるさと館 旧田村邸庭
米町ふるさと館 旧田村邸
しゃもとらの井戸
しゃも寅の井戸 (現在は飲用不可)
釧路市浦見の住宅街一角にある自然湧水している自噴井戸
かつては飲料水や酒の良質な醸造用水にも利用された。
付近には「料亭しゃも寅」があり石川啄木も訪れていた。
石川啄木の句
「葡萄色の 古き手帳にのこりたる かの會合の時と處かな」
歌集「一握の砂」に収められている。
葡萄色:えびいろ、會合:あひびき
明治四十一年(1908年)釧路新聞記者として赴任した石川啄木が
料亭しゃも寅の芸妓小奴と交情を深めた。
港文館(石川啄木資料館)
明治41年に建造された旧釧路新聞社社屋の一部を忠実に復元し
市民や観光客に文化と教養の場を目的とするため建築された。
当時東北海道唯一のレンガ造り洋風建築物
釧路港関連施設「港湾休憩所」
港文館(石川啄木資料館)
1階展示コーナーには港湾を中心に栄える釧路市の足跡をしのばせる
港湾計画図や明治末期の市外図などが展示されている。
2階展示コーナーには釧路ゆかりの歌人石川啄木の資料が展示されている。
石川啄木ブロンズ像
後方:釧路フイシャーマンズワーフ(MOO)
石川啄木について
石川啄木の句 小奴が揮毫
「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」
歌集「一握の砂」収録
石川啄木(1886〜1912年)が、明治41年1月21日の夜、22才の時、
初めて釧路駅に降り立った。(26歳で早逝)
明治41 年4月5日、啄木は東京へ向けて釧路を出航した。
釧路市立博物館・春採公園
春採公園案内図
釧路市立博物館 1983年(昭和58年)11月3日開館
建物はタンチョウが翼を広げた姿をイメージして作られた。
1965年(昭和40年)に「博物館移築促進期成会」が発足。
釧路市出身の毛綱毅曠による設計。
1984年(昭和59年)に第36回日本建築学会賞を受賞。
釧路市立博物館
「マンモスのふみしめた大地」「タンチョウをはぐくむ釧路湿原」
「海霧につつまれた自然と人びとがおりなす歴史」をテーマに、
釧路の自然と歴史に関連した約4100点の展示物を取り扱っている。
常設展示では、「サウンド・スケープ一音の風景一」という音楽で
各展示のテーマを表現する試みがなされている。
釧路市埋蔵文化財調査センター
1977年(昭和52年)春採湖畔に設置
丹頂鶴ひな展示
丹頂鶴展示
アイヌ民族
アイヌ民族
アイヌ民族
アイヌ民族
アイヌ民族
アイヌ民族 お神酒を吟味する儀式
M69焼夷弾
M69は六角形の断面を持った簡素な鋼製のパイプであり、
直径は約7.6cm、全長は約51cm(20インチ)、質量は約2.7kgであった。
日本に対して用いられた焼夷弾は、
焼夷剤(発火性の薬剤)としてナパーム(ゲル化ガソリン)を用いた。
M69子爆弾19発を前後2段に集束して38個としクラスター弾に収めたものであり、
これは爆撃機から投下後、高度約610mで開裂し子爆弾に散開する。
「地上からは火の雨が降ってくるように見えた」と言われている。
1945年3月10日の東京大空襲では、32万7000発のM69が投下され、
以降3月19日までに日本の都市に投下されたM69の総数は192万発に及んだ。
焼夷剤は、通常の銃砲弾・爆弾とは異なり、目標を爆発で破壊するのではなく、
攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。
竹槍訓練
教育勅語 教育ニ関スル勅語
明治天皇が近代日本の教育の基本方針とした勅語
1890年10月30日に下され、1948年6月19日に国会によって排除または失効確認された。
幣舞橋、久寿里橋 橋銘板
すら箱をひく姿 児童労働(大正期)
小学校を中途でやめ,10才頃から炭鉱の坑内へ下ってスラ(石炭を運ぶそりつきの箱)を曳く
坑内唄に「 七つ八つからカンテラ下げて、坑内下がるも親のバチ」、
「親の 因果が子にまでむくい、低い坑道でスラを曳く」という文句がある。
当時の産業と教育における近代化政策は、労働者の権利否認や圧制を組み込んだ中での
炭鉱労働者その家族の苦境を罹災死傷や不就学など二重三重の負荷を表わしている。
こ のような炭鉱児壷の生活と教育に対して教育史研究は真摯な関心を払 うべきである。
カニ
蟹工船
戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域でカニを漁獲し、
船上で缶詰に加工する工場施設を備えた母船。
小林多喜二「蟹工船」小説
蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている。
小説のモデルになった蟹工船「博光丸」は北洋工船蟹漁の博愛丸(元病院船)である。
蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。
だから航海法は適用されず、危険な老朽船を改造して投入された。
また工場でもないので、労働法規も適用されなかった。
そのため蟹工船は法規の空白域であり、海上の閉鎖空間である船内では、
東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する
資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。
また北洋漁業振興の国策から政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった。
蟹工船形式の操業は戦後も続き、1970年代、200カイリ経済水域の設定による
北洋漁業廃止まで行われていた。
小林多喜二は、1930年7月「蟹工船」で不敬罪の追起訴となり
1930年8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。
小説「戦旗」の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、
特高警察の憤激を買い、拷問死させられる引き金となった。
春採湖
春採湖は市街地の中にあり、周囲4.7キロメートル、面積0.36平方キロメートル、
南西から東北に伸びる細長い形をしている。
ヒブナの生息地として昭和12年に国の天然記念物に指定されており、
市民の憩いの場としても親しまれている。
春採湖は海跡湖で、現在も短い春採川を通じて太平洋とつながっており、
淡水と海水が混じった汽水湖となっている。
そのため、ヒブナやトゲウオ科のイトヨ・イバラトミヨなどの魚類のほか、
汽水性の生物が生息している。
また、鳥類は130種以上が飛来しており、湖畔には400種ぐらいの植物が見られ、
市街地の湖で四季を通じてこれだけ多くの動植物が見られる。
春採湖周辺は春採公園として整備されており、
湖畔には野草園、ロックガーデン、野鳥観察舎、トンボの池などのほか、
春採湖の自然を解説する春採湖ネイチャーセンターが設置されている。
また、春採湖に面した高台には釧路市立博物館があり、
釧路市の自然に関する多くの情報が展示されている。
春採湖
外来種であるウチダザリガニが持ち込まれたことで、
春採湖の水草の生育や鳥類・魚類の生息などに重大な影響を及ぼし、
春採湖の自然環境が大きく変化した。
そのため、平成18年度と19年度でウチダザリガニの生態や生息場所などを
把握することを目的に調査事業を実施し、
平成20年度からは、市民ボランティアの皆様の参加も得ながら、
積極的に捕獲を行うための事業を実施している。
六花亭春採店