2020年10月24日土曜日

壱岐・対馬の旅3

第3日目(10月18日 日曜)

 厳原藩武家屋敷通りー万松院(宗家菩提寺)ーお舟江跡ー小茂田神社・元寇の役古戦場ー

 椎根の石屋根ー豆酘崎ー比田勝ー韓国展望台

厳原 ツタヤホテル 7:31

厳原 ツタヤホテル 注意書き

厳原 ツタヤホテル GPSデータ

干物(アジ、鯛) 7:55

厳原 武家屋敷通り 7:58
厳原 武家屋敷通り 半井桃水生 生誕地 8:00
朝鮮から京城事件などの記事を送信、東京朝日新聞記者、
小説家として活躍し、日露戦争にも記者として従軍。
晩年は邦楽三昧の日々を送る。
樋口一葉の師であり、思慕の対象であった。
厳原 武家屋敷通り 大歳神社 8:07
厳原 武家屋敷通り 中村地区 8:07
雨森芳洲の墓 案内板 8:09

滋賀県長浜市高月町雨森の町医者の子。
江戸時代中期の儒者、中国語、朝鮮語に通じ、
対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。

対馬藩朝鮮方佐役に就任した雨森芳洲(1667-1755)は、
朝鮮との外交の要諦を簡潔に「互いに欺かず、争わず」語った。

新井白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。

雨森芳洲の墓へ 8:14
竹の葉に覆われた階段道
雨森芳洲の墓 8:17
雨森一族の墓(山の上にある)
雨森芳洲の墓(竹山の中にある) 8:31
厳原 武家屋敷通り 昔の石塀 8:38
対馬藩桟原城 高麗門 8:42
対馬府中藩3代藩主宗義真金石城を拡張整備したのと同時期に新築された藩主の屋形。
対馬藩桟原城 高麗門 8:42
 対馬国領主 宗氏20代当主、対馬府中藩 初代藩主 宗義智公の像 8:58
八幡宮神社 9:02
八幡宮神社 9:02
対馬観光物産協会・ふれあい処つしま 9:11
teamLab Camera コミュニティメディア 8:20
「城下町日本遺産を巡る」所要時間約90分 対馬ガイド 文 彰浩さん 9:32
清水山城址(山の上にある) 9:43
金石城楼門と対馬博物館(建設中建物)9:46
対馬博物館(建設中建物)
「対馬歴史研究センター(仮称)」が併設される予定。
旧長崎県立対馬歴史民俗資料館の解体に際してアスベストの使用が確認され、
その調査と除去に時間を要したため、2022年(令和4年)4月頃開館の見込み。
金石城楼門 9:47
奥の院 9:51
対馬藩 宗家墓所 万松院へ 9:51
参加者6名
対馬藩 宗家墓所 万松院 9:52
対馬藩 宗家墓所 9:52
対馬藩 宗家墓所へ132段の百雁木と言われる石段  9:59

諫鼓(かんこ)10:06
「諫鼓苔蒸す」「諫鼓鳥」
君主の善政により諫鼓を鳴らす必要がなくて苔 が生えるほど、
諫鼓の上に鳥が遊ぶほど、世の中がよく治まっているたとえ。

万松院本堂 10:08
三具足 10:16
朝鮮国王より寄贈された三具足。
香炉・燭台(灯立)・花立で一組となる仏具の事。 
本尊に向かって左側に花立、真ん中に香炉、右側に灯立を置く。
台風で木が倒れ工事中  10:28
対馬藩 宗家墓所 10:30
対馬藩 宗家墓所 10:34
日本3大墓所の一つ(前田藩墓地、毛利家墓所、対馬藩宗家墓地)
対馬藩 宗家墓所 10:38
対馬藩 宗家墓所 大杉 10:47
樹齢千年を超える大杉が幾本もある。
名勝 旧金石城庭園 11:01
結婚記念碑 11:03
1931年(昭和6年)宗武志公と李徳恵姫の結婚を祝って建立された。
韓国人観光客が訪ねて来て、この場所で宴会を開くという。

金石城楼門 10:10
朝鮮通信使行列際限の様子 11:17

国書偽造事件:柳川一件
江戸時代初頭、対朝鮮外交を担っていた対馬藩では李氏朝鮮と徳川政権との間の
外交文書「国書」の偽造が慢性的に行われていた。
それは幕府にも朝鮮王朝にも秘密裏に行われていたが、
対馬藩家老柳川調興によって暴露され、
政権中枢を巻き込んで将軍家光自ら解決に乗り出すほどの
徳川幕府を揺るがす事件となった。

1635年4月27日(寛永12年3月11日)、3代将軍・家光の目の前で、
宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。
江戸にいる1,000石以上の旗本と大名が総登城し、
江戸城大広間で対決の様子が公開された。
果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、
宗義成は無罪、柳川調興は津軽流罪とされた。
また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。

対馬藩 お舟江跡 11:43
対馬藩 お舟江跡 11:44
江戸時代、対馬藩が久田川の河口に藩船を格納するために構築した船着場の跡。
久田浦に注ぐ久田川の河口に、人口の入江が構築され、
内部に四つの突堤と五つの船渠が設けられた。
これを「お船江」あるいは「お船屋」という。
満潮時には木造の大船が出入できる程の広さと深さがあり、
干潮時には干上がるように出来ている。
現在の遺構は寛文3年(1663)に造られた。
築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っており、
海に面した各藩はその藩船を格納するお船屋を設けていた。
対馬藩 お舟江跡 11:43
対馬藩 お舟江跡 11:48
そば道場美津島 12:19
郷土料理「ろくべえ・せんそば」
材料はサツマイモ、千の手間がかかる。

郷土料理「ろくべえ」 12:29

対州そば 12:50
大陸から伝来した昔のままの原種に近い、つなぎ無しの手打ちそば。
「いりやきそば」:地鶏と椎茸で味付けした対州そば

小茂田神社 13:35
元寇750年宗資国(宗助国)公騎馬像
小茂田神社 13:37
文永11年(1274)の元・高麗軍襲来により、
宗資国以下戦士した将士の霊を祀った神社
小茂田神社 元寇奮戦図 13:40
文永11年(1274)10月5日、
900艘の艦船に分乗した3万人の元・高麗連合軍が佐須浦に襲来した。
守護代宗資国以下主従80騎で防戦に努めたが、全員が討ち死にした。
小茂田海浜公園 13:41
観光バスで来た観光客
小茂田神社 13:48
小茂田浜神社には、資国以下、戦死した将士の霊を祀っている。

椎根の石屋根 114:06
椎根の石屋根 114:07
板状の頁岩で屋根を葺いた高床式倉庫(米・麦・雑穀・衣類の櫃
人家の火災等から小屋だけは残るように配慮され、人家と小屋は離して建てられた。
椎根の石屋根 114:08
椎根の石屋根 114:09
椎根の石屋根 14:11

豆酘崎 15:11
豆酘崎駐車場 15:11
豆酘崎 15:26
対馬南端で対馬海峡(対馬海峡東水道)と朝鮮海峡対馬海峡西水道)に分かれる。
豆酘崎 方位盤 15:28
豆酘崎 15:28
豆酘崎灯台 15:28
豆酘崎 達磨菊 15:33
豆酘崎 15:34
豆酘崎 カワラナデシコ 15:37
豆酘崎 15:37
豆酘崎 15:33
豆酘崎から一路、比田勝港まで対馬を縦断した。
韓国展望台 18:44
対馬南端から豆酘崎から比田勝港にあるホテルにチェックイン後、
対馬最北端の韓国展望台に夜景を見るために来た。(約3時間)
韓国展望台 18:46
前の島は海栗島で、航空自衛隊の海栗島分屯基地
(所在部隊は西部航空方面隊西部航空警戒管制団第19警戒隊)
対馬北端に位置するレーダーサイト
博多から約150㎞、朝鮮半島から約50㎞の位置にある。
遠くに釜山の明りがぼおーと見えた。
海上の明るい光はイカ釣り漁船の漁火

対州(大衆)酒場「すし処慎一」 
対州(大衆)酒場「すし処慎一」 19:28
獲れたて生き生き鮮魚および穴子料理で有名なお店
刺身
穴子の刺身は、コリコリしていて味が染み出し、とても美味しかった。
生サバの刺身 19:43

黄金あなご
穴子の白焼き
穴子料理
すし処慎一 漁船「幸生丸」
穴子船・幸生丸で店主自らが漁獲した穴子の料理は絶品!!

壱岐・対馬の旅