2022年4月29日金曜日

4日目 十三湖、大平山元遺跡、三内丸山遺跡、小牧野遺跡、青森

 2022年4月24日(日曜)

中泊町 坂田旅館 6:46
創業大正5年
坂田旅館周辺 朝の散歩 6:47
工務店 ざ 大工こが 和風の家造り 
家の模型展示  6:47
あちこちで土筆が見られた  6:50
坂田旅館周辺 朝の散歩
北緯41度ストーブ列車終着駅 津軽鉄道・津軽中里駅付近 
坂田旅館 坂田仕出し店(TEL.7-2201) 
坂田旅館 大宴会場にて朝食
宿泊人6名
坂田旅館 大宴会場

坂田旅館から十三湖を経て大平山元遺跡へ 約22㎞
国道339号線・県道12号線中里町今泉 駐車場
十三湖から岩手山を望む
十三湖のヤマトシジミ
十三湖は津軽半島北西にあり、岩木川の水と日本海の海水が一緒になった汽水湖で、
ヤマトシジミの生息にもっとも適した湖である。
美味しさと貝の美しさから黒いダイヤともいわれ高く評価されている。

十三湖から岩手山を望む
つがつノスタルジック文学コース案内図
十三湖にて記念撮影 遠くに岩木山を望む
十三湖にて記念撮影
潮が引いた浜辺
はくちょう亭奈良屋(右隣:しじみ亭奈良屋)
十三湖標識と遠くに岩木山を望む
吉田松陰遊賞之碑
吉田松陰と宮部鼎蔵が東北遊学の際、嘉永5年(1852年)3月4日に訪れた地。
吉田松陰遊賞之碑の由来
嘉永4年、勤王の志士吉田松陰は、江戸遊学中友人宮部鼎蔵と密かに東北の旅に出た。
松陰22歳、学問を磨き情報を収集し北方海岸の防備を視察する為である。
秋田藩領から矢立峠を越え、弘前、五所川原を経て嘉永5年旧暦3月4日この地を通り、
波穏やかな十三湖と遥に霞む岩木山の絶景にしばし足をとどめた。
その日記には「真に好風景なり」と記している。
これを記念し昭和6年地元有志達は、明治大正昭和にわたって活躍した言論人徳富蘇峰の
揮毫になる記念碑を建立したが倒壊したため昭和39年に立て替えた。
この碑も風化による破損が著しくなったので、当初建立した碑に基づいて復元し、
平成4年3月この場所に移したものである。
(吉田松陰遊賞之碑の由来より抜粋)

大平山元遺跡
大平山元遺跡 (青森県外ヶ浜町)1a
紀元前1300年頃の日本最古級の無文土器片や石斧、石鏃が出土した。
移動に適さない土器の出現は、定住の開始と考えられている。
大平山元遺跡駐車場
史跡大平山元遺跡 検温所
大平山元遺跡
大平山元遺跡 史跡整備事業実施中 説明板
出土品の実物は「大山ふるさと資料館」に展示中
大平山元遺跡 史跡整備事業実施中 周辺の住宅は移転した
外ヶ浜町大山ふるさと資料館
外ヶ浜町大山ふるさと資料館
(旧蟹田町立大山小学校の古い木造校舎を利用している)
県重宝に指定された土器片や石器などをみることができる。
蟹田町立大山小学校閉校記念碑 1999年閉校
石斧発見そして遺跡発見
1976年発掘調査
 県重要文化財 無文土器片
2段目左から2つ目の縄文土器に付着した炭化物をAMS法による放射性炭素年代測定法
算定で16,500年前(暦年較正年代法による)のものである可能性があるとされる。
外ヶ浜町大山ふるさと資料館
石器 展示室
石器 展示室
石器 展示室
石器 展示室
外ヶ浜町大山ふるさと資料館 民俗資料館
外ヶ浜町内で使用され、町民から寄贈された農具や漁具、生活道具を
整理・分類し保管・展示している。懐かしい雰囲気がある。
外ヶ浜町大山ふるさと資料館 民俗資料館
外ヶ浜町大山ふるさと資料館 民俗資料館
木のオブジェ?
自然物を使用して作られた立体作品? だだの廃材?
大平山元遺跡付近のビニールハウス
ビニールハウスにて稲苗の育成中
大平山元遺跡
大平山元遺跡
大平山元遺跡
石斧発見地点標識
1971年の秋、ゴボウ畑から近くの中学生が見つけた。
自転車で見学に来ていた少年達と会話
詳細 大平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)

マエダストア蟹田店
三内丸山遺跡での昼食弁当等を購入
マエダストア蟹田店駐車場
マエダストア蟹田店 ほや 1個138円 4個500円
マエダストア蟹田店 活ほたて 1個138円 4個500円

三内丸山遺跡(青森県青森市)
三内丸山遺跡 (青森県青森市)2b
陸奥湾を望む丘陵上に立地する大規模な拠点集落。(人口約500人)
大型掘立柱建物は、直径1mほどの6本の栗の柱を持つ巨大な木造建築物。
全長30mを超える建物跡に200人以上収納できる集会場を復元した。
復元時の太い栗材は、日本に無いのでロシアから輸入した。
三内丸山遺跡  (青森県青森市)2b
竪穴建物群や列状に並んだ土坑墓、貯蔵穴、道路などが計画的に配置されている。
儀式の場と考えられる盛土からは、
2000点を超える土偶やヒスイなどの祭りの道具が出土した。
栗やクルミなどの堅果類も大量に出土していて、
栗林を管理することで1年を通して安定した食料を確保していたことがわかる。
大型板状土偶 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡 第2駐車場  11:16
三内丸山遺跡 縄文時遊館エントランス  11:19
三内丸山遺跡 青森市営バス停留所  11:22
三内丸山遺跡 縄文時遊館  11:27
縄文時遊館 展示品 縄文土器  11:42
縄文時遊館 展示品 埋没栗木柱
埋没栗木柱底面
編籠(縄文ポシェット) BCE3800年(約5800年前)重要文化財
ヒノキ科の樹皮を網代編みにして作られた。
編籠(縄文ポシェット) BCE3800年 重要文化財
中から半分に割れたクルミの殻が見つかった。






耳飾り BCE3900~2200年
針 BCE3900年 重要文化財
黒曜石製石槍 BCE3300~2200年
石鏃(せきぞく)
ニワトコの種子 縄文の酒づくり?
イタリア産リキュール「サンブーカ」はエルダー(ニワトコ)が使われている・
エルダーは、スイカズラ科の植物で日本名がセイヨウニワトコという植物で
 魔除けとしても使われる。
土器展示
漆塗り土器
人面土板
土偶付き土器
人面画土器 BDE2800年
人物文様付き土器 BDE3000年
子供の墓に使われた土器
竪穴建物復元
北海道白滝(遠軽町)黒曜石原石43㎏
縄文時遊館 中庭  12:12
縄文時遊館  12:15
足形付土製品  12:16
棒状石製品 五所川原市五月萢遺跡出土
石刀 五所川原市五月萢遺跡出土
縄文時代初期に生殖器信仰である男性のシンボルとして石棒が作られた。
青龍刀形石器
生殖器信仰である男女のシンボルを融合した青龍刀形石器が作られた。
人物線刻石冠 BCE2000~21000年
3人の人物が表現されている。
2体を男女、1体を子供とすると子孫繫栄を願った道具と考えられる。
裏面に敲かれた跡がある。
家形石製品、土製品(女陰)、鐸形土製品
まつりの行われる盛土からたくさん出土したことから
ムラや子孫繁栄を祈った道具と考えられる。
クマ形土製品
香炉形土製品戸シャチ形土製品
狩猟文土器、シカ絵画土器
鼻曲がり土面 六ケ所村上尾駮1遺跡出土
狩猟文土器
人面形浅鉢 五所川原市五月萢遺跡出土
遮光器土偶に似た目、顔面に赤色顔料が残っている。
土器の蓋
岩板 文様と円孔、アスファルトが見られる
岩版
石製垂飾(サメ歯) 十和田市高谷遺跡出土
整理作業室 日曜日なので休業日  12:35
整理作業室 日曜日なので休業日
三内丸山遺跡 縄文時遊館のレンガ壁模様  12:40
縄文時遊館  12:46

三内丸山遺跡 案内図
縄文時遊館中庭  12:52
スーパーマーケットで買ってきた弁当で昼食
レストラン「五千年の星」13:34
レストラン「五千年の星」 縄文うどん・そば900円
ミュージアムショップ 縄文マジカル入口  13:34
1
休憩エリア  13:35
縄文ビッグウォール  13:45
地下1階ビッグウォールの反対側には土器を収蔵する収蔵庫がある。
2019(平成31)年4月のリニューアルオープンにともなってつくられた施設
本物の縄文土器のかけらを間近に見ることができる。
縄文ビッグウォール  13:46
5,120個の縄文土器のかけらが約6mの高さに散りばめられている。
一般収納庫と大型掘立柱の木柱  13:48
地下1階ビッグウォールの反対側にある。
木柱 三内丸山遺跡ビット2出土 BCD2600年

三内丸山遺跡ジオラマ  13:54
ガイド希望者集合場所から遺跡へ 13:58
時遊トンネル(遺跡へ)  14:01
三内丸山遺跡  (青森県青森市)2b
竪穴建物群や列状に並んだ土坑墓、貯蔵穴、道路などが計画的に配置されている。
儀式の場と考えられる盛土からは、
2000点を超える土偶やヒスイなどの祭りの道具が出土した。
栗やクルミなどの堅果類も大量に出土していて、
栗林を管理することで1年を通して安定した食料を確保していたことがわかる。
三内丸山縄文春祭り看板と三内丸山遺跡標識

1992年に県営の野球場の建設工事に着手したところ、
この遺跡が過去に前例の無いほど大規模な集落跡であることが判明した。
この為、学会、マスコミ、市民などから遺跡保存の動きが活発化し、
行政は既に着工していた野球場建設を中止せざるをえなくなり
遺跡の保存を決定、特別史跡三内丸山遺跡として
調査・整備し現在にいたっている。
縄文のムラ方面を見る
縄文時代の道路跡は地面を削って作られ、幅約7~12mあり、
集落の東側へ約420m、南側へ約370m延びている。
現在の園路は道路跡の上に設定されている。
旧三内丸山遺跡展示場 
ガイドさんの説明  14:02
直径約4mある環状配石墓は大人の墓の周りを石で囲んだ。  14:02
ムラについての説明  14:04
5000年前にはこの場所で縄文人が生活していた。
遺跡からは鯛やヒラメ、栗等を食べていた後が見つかり、
意外と豊かな食生活を送っていたようである。
縄文のムラ  14:07
前まで縄文時代の人々は50人くらいで集落を形成し、
その場所で獲物が少なくなれば別の場所に移動する生活をしていたと考えられていた。
つまり土器という煮炊きが可能な便利な道具を得ていたとはいえ
生活内容は石器時代とあまり変わらないと考えられてきた。
 三内丸山遺跡では約500人前後の人間が約1500年間に渡って生活していた。
集団墓地があることは世代交代を繰り返し定住生活を営んでいた証である。

大型掘建柱建物に見られるような高度な土木建築技術も持ち合わせていた。
人々が様々な作業を分業し循環型の生活(農耕)も取り入れていたことを意味する。

500人の人間が一年間生活するのに必要な食料は少なく見積もっても猪に換算すると
5100頭、鮭だと73000尾にもなる。
これほどの頭数を捕まえるのは困難だし、仮に捕らえることができたとしても、
そんな生活をしていたら周辺の資源はすぐに枯渇してしまう。
500人もの人口を支えるには小さな面積で効率よくカロリーが摂取できる
穀物類の栽培が必要条件となる。

三内丸山遺跡の発掘調査では晩年の地層からは猪やカモシカといった大型動物の骨の
出土は極端に少なくなり、兎やムササビといった小動物の骨が多くなっていることから
大型動物の資源が枯渇していたと推測される。

今では集落の周辺には栗を植え採取していたことも判明した。
また縄文前期にはエゴマ、ヒョウタン、緑豆、ゴボウなどがすでに栽培されていた。
後期になるとヒエや米、蕎麦、麦などの報告事例も出てきた。

排泄場所跡からは植物に起因する寄生虫の卵が大量に検出されており、
比較的人口密度の高い集団が農耕を行っていたと考えられる。
一般的に農耕=稲作と勘違いされるが、農耕とは稲作を含めた作物全般の栽培である。

 そして縄文人の一番の特徴が「争い」の痕跡が見つからないことである。
弥生時代になると防衛用の矢倉や柵、堀、そして矢尻や刃物で傷ついた骨が出土する。
縄文時代の遺跡ではほとんど見つからない。
しかし矢尻で傷ついた頭部の骨は見つかった例や、
通常の埋設場所とは異なる廃棄ブロックから出土した人骨などはある。
縄文人はほとんど争いがなく心身共に豊かな文化をもった人達だったようだ。

縄文人に傷痕(約2400~2500年前)
有珠モシリ遺跡は続縄文時代のものとされるので、
同時期に西日本では弥生時代に移行していて集団間の戦闘も起きていた。
研究グループの青野友哉准教授(骨考古学)は、 
「玉突き的に人が移動した影響が北 海道にまで及んだのではないか」と分析した。
日本経済新聞記事(2022年2月4日)

南盛土  14:12
三内丸山遺跡には北盛土、南盛土、西盛土の3か所ある。
南盛土  14:16
大量の土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが出土した。
約1000年間で丘のようになった。
大型竪穴建物(復元)  
大型掘立柱建物跡(白いドームの建物の中)
竪穴建物(樹皮葺き屋根)  12:20
竪穴建物(茅葺き屋根)  12:20
三内丸山遺跡では竪穴建物が約550棟以上見つかった。
竪穴建物(土屋根)  12:20
樹皮葺き屋根や茅葺き屋根より暖かい。夏場は土を剥いだかもしれない。

竪穴式住居の内部には円筒状の石が置かれているものもあり、
家族で祈りを捧げる祭壇のような役割を果たしていたと考えられている。
大きすぎて非実用的なヒスイの装飾品や土偶などから推測するに自然の恵みに
感謝する精霊信仰のようなものもあったのかもしれない。
食べ物も現在より温暖だった為、多種多様な魚介類や動植物が採れ、
足りない分を補うために簡易な農耕も行われていた。
掘立柱建物  14:24
地面に穴を掘り柱を立てた竪穴建物跡 と 復元した高床の掘立柱建物

高床の掘立柱建物(復元)  14:28
ほぞ穴加工
北の湿地帯と北盛土 14:30
主にゴミ捨て場として利用した
水分が多いため有機質の遺物が良好な状態で出土した。
動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、編み物、寄生虫の卵など。
土留め用の杭列も見つかった。
北盛土 石器や壊れた土器  14:39
子供の墓 説明  14:41
子供の遺体は、土器に入れて埋葬した。棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、
口や底が壊されていて煮炊きに使用するどきとは区別されていた。
中からこぶし大の石が出土した例がある。
子供の墓  14:44
後の時代に竪穴建物を建てた柱跡
子供の墓
大型竪穴建物(復元)、大型掘立柱建物跡(白いドーム)  14:50
大型掘立柱建物(白いドームに隣接して復元)
大型掘立柱建物説明板  14:54
大型掘立柱建物  12:54
直径1mほどの6本の栗の柱を持つ巨大な木造建築物。
復元時の太い栗材は、日本に無いのでロシアから輸入した。
大型掘立柱建物跡  12:55
大型掘立柱建物跡
大型掘立柱建物は柱穴を掘り、柱を立て、床や屋根を支える。
ここからは直径約2m、深さ約2mの柱穴が3個づつ2列に並んで見るかった。
これらの間隔はすべて4.2mで規則正しく配置されていた。
柱穴からは直径約1mの約4600年前のクリの木柱が見つかった。
大型掘立柱建物  12:59
大型掘立柱建物(復元)  15:03
大型竪穴建物(復元)
全長30mを超える建物跡に200人以上収納できる集会場を復元した。
大型竪穴建物(復元)内部  15:04
大型竪穴建物(復元)
大型竪穴建物(復元)
縄文のムラで記念撮影  15:10
縄文のムラで記念撮影
縄文時遊館整理作業室側出入口  15:13
詳細 三内丸山遺跡 (青森県青森市)

小牧野遺跡 (青森県青森市)
青森市小牧野遺跡保護センター 縄文の学び舎・小牧野館 15:38
平成24年3月に閉校となった旧野沢小学校を改修した施設
1階には展示室、2階には企画展示室や体験学習室、出土品の収蔵室等がある。
駐車場にまだ残雪がある 15:38 
縄文の学び舎・小牧野館周辺 15:38
縄文の学び舎・小牧野館周辺 15:38
遠くに八甲田山が望める
縄文の学び舎・小牧野館 エントランス 15:39
小牧野遺跡案内図
エントランスホール 16:40
遺跡の解説パネル、発掘調査体験コーナー、環状列石の組立てコーナー、
縄文人の暮らし、土器や石器などの生活道具から縄文人の暮らしを紹介、
縄文人の祈りと願い 縄文土器の美、体験学習室

高田ねぶた(世界遺産登録記念ねぶた)
「縄文炎舞こまきの招魂」
旧野沢小学校 体育館
旧野沢小学校
旧野沢小学校
旧野沢小学校
旧野沢小学校 教室
旧野沢小学校 黒板

小牧野遺跡発掘調査時の写真 1989年
発掘調査時の写真
発掘調査時の写真
発掘調査時の写真
発掘調査時の写真
発掘調査時の写真
小牧野遺跡についてのポスター
約3万年前の埋没樹
いろいろな縄文土器
縄文土器
深鉢形土器、甕形土器、蓋形土器
漆器と漆が入った土器
狩猟文土器、石槍、石鏃
土器棺
縄文時代後期の祭りの道具
彩文土器(深鉢形土器)、赤色顔料塗布土器(台付浅鉢形土器)、彩文土器(浅鉢形土器)
青森市有形文化財指定書
青森市有形文化財 クマ形土製品
愛称「こまっくー
青森市小牧野遺跡保護センター縄文の学び舎・小牧野館
青森市有形文化財 人形土製品
青森市小牧野遺跡保護センター縄文の学び舎・小牧野館
青森市有形文化財 赤彩切断壺型土器
青森市小牧野遺跡保護センター縄文の学び舎・小牧野館
彩文土器(深鉢形土器)
暮らしにかかわる縄文土器
ゴミ捨て場から出土した土器 稲山1遺跡第15号住居出土

サンキ(三木) めずらしい埋葬の風習 
サンキ(三木)の上に魔よけの鎌が取り付けられている。

山野峠遺跡の石棺墓(復元)
石運搬に使われた運搬具(復元)
土抗墓の副葬品
石器埋納遺構
123点の石器の素材が埋められた遺構
あとで石器に加工しようとして一時的に保管していたものと考えられる。
三角形岩版
特に三角形岩版は、小牧野遺跡の代表的な遺物であり、
これまでに400点をこえる数が確認されている。
このような岩版は、青森県の津軽地域を中心に製作されていると考えられている。
また、三角形岩版が出土する遺跡は環状列石などの大型配石遺構を有する場合が多く、
祭祀などで人が多く集まる場所で使用されたものと思われる。
動物彫刻付石皿 小牧野遺跡 青森市指定文化財
 
動物彫刻付石皿 小牧野遺跡 青森市指定文化財
縄文土器展示品
縄文土器展示品
縄文土器展示品
土器収蔵品
土器収蔵品
五所川原産須恵着大甕 蟹沢遺跡・平安時代
土器収蔵品

小牧野遺跡
小牧野遺跡 標識 16:24
青森市小牧野遺跡観察施設 小牧野の森・どんぐりの家 16:25
遺跡や自然環境の保全活動・観察を通じて、遺跡保護への理解を深めるための施設。
休憩できるホールやトイレを備え、
愛称の由来にもなっているドングリを思わせる外観となっている。
小牧野遺跡 環状列石へ
遠く八甲田山を望む
土筆の群落 16:26
土筆の群落
こぶしかな?
ヒメグルミの木に蜂捕りペットボトル

小牧野遺跡環状列石
小牧野遺跡環状列石の実測図
小牧野遺跡環状列石
小牧野遺跡環状列石 16:30
小牧野遺跡 (青森県青森市)3a
青森市野沢字小牧野に所在し、縄文時代後期前半に作られた環状列石を主体とする遺跡。
遺跡は、荒川と入内川に挟まれた舌状台地の標高140メートル付近に位置している。

環状列石は、埋葬、祭祀・儀礼に深く関わるもので、
膨大な日数と労力をかけて作られており、
縄文人の組織力を見せつけるモニュメントでもある。

小牧野遺跡は、そうした縄文時代の葬送・祭祀などに関わる精神生活、
土地の造成や石の運搬などの土木工事の実態などを知る上で極めて貴重であることから、
平成7年3月に青森市としては初の国指定史跡となった。
これまでの調査では、3重構造の環状列石のほかに竪穴式住居跡、土器棺墓や土坑墓群、
貯蔵穴や遺物の捨て場、湧水遺構、道路跡等が見つかっている。

土坑墓群を主体とする墓域や捨て場を中心に土器や石器、石製品などが見つかっており、
とくに際立ったものとして祭祀的要素の強い三角形岩版や円形岩版が見つかっている。

また遺跡では、北海道の続縄文文化の影響を受けた土器が多く出土している。
環状列石は斜面を平らにして作られた。平らな石が縦横に繰り返し並べられている。
三重の輪を囲むように環状配石や四重となる列石が配置され全体の直径は55mになる。
小牧野遺跡環状列石
キクザキイチゲ 小牧野遺跡にて  16:37
小牧野遺跡環状列石
小牧野遺跡環状列石
環状列石を形作っている石は、現在約2,900個、ほとんどが安山岩で構成されている。
これらの石は小牧野遺跡から東に500m~1km程離れた「荒川」一帯から運ばれた。
なお、現在までの環状列石の総重量は推定で31,054kg、平均10.8kgを計測している。
小牧野遺跡環状列石
山桜
小牧野遺跡環状列石

小牧野遺跡環状列石
小牧野遺跡環状列石 16:41
環状列石の外帯と内帯は、楕円形の石を縦に置き、その両側に平らな石を数段積み重ね、
あたかも石垣を築くように並べられている。
この縦横交互の列石は、全国的にも珍しく“小牧野式”配列(配石)とも呼ばれている。
馬頭観世音碑
環状列石の第9号特殊組石の近くには、嘉永7年(1854年)の年号が刻まれた
江戸時代末期の馬頭観世音碑が建っている。この場所一帯は、
江戸時代から馬の放牧場として使用され「小牧野」の地名はそのことに由来する。
馬頭観世音碑は、元からその場所にあった環状列石の石を転用されたものと思われる。
馬頭観世音碑
中央帯
環状列石の中央に立ってみると列石の内側に広い空間があることがわかr。
この広場は、多くの人々が集うことのできる面積(約500㎡)が確保されており、
彼らの精神文化と関わる「祭祀場」としての性格が考えられる。
また、広場の周縁が石垣状の列石に囲まれているため、
さながら円形劇場のような空間効果を演出している。
小牧野遺跡環状列石
小牧野遺跡環状列石
小牧野遺跡環状列石 16:43
捨て場跡
捨て場跡 16:45

カブセンター大野店 青森市大野 17:08
スーパーマーケットBenymart 懇談会用飲料購入
カブセンター大野店
カブセンター大野店  17:18

セレクトイン青森 看板  18:13
国道7号線・旭町通り。昭和通りの交差点 18:13
セレクトイン青森周辺 古川横断歩道
セレクトイン青森周辺  18:13
セレクトイン青森周辺  18:13  
セレクトイン青森入口  18:14
トヨタレンタリース青森安方店 18:20
三沢空港で借りた車を返却した。明日は青森港から函館港に向かう。

「セレクトイン青森」で荷物を下ろし車で「トヨタレンタリース青森安方店」に行き、
「トヨタレンタリース青森安方店」から徒歩(約11分)で「セレクトイン青森」まで戻り、
炭火串焼き「助六」青森駅前アウガ隣店に徒歩(約6分)で行った。

炭火串焼き「助六」青森駅前アウガ隣店 18:42
江戸の雰囲気とモダンを融合したカジュアルな店内
青森の郷土料理や炭火串焼きを出している。
先ずはビールで一杯 18:42
コロナ対策でアクリルの仕切り板を挟んでの乾杯と食事
炭火串焼きとヤマトシジミ汁 18:57
ヤマトシジミ汁と青森の煮干しラーメン 18:57
青森市新町付近 20:00
セレクトイン青森  20:18
無料サービスのカレーライスを食べる
セレクトイン青森  23:30
国道7号線古川交差点を見る